呪い
京都には幾つかの「御霊」(ごりょう)を祀る御霊社があるが、なかでも知られているのが「上御霊神社」と「下御霊神社」である。

御所を挟むように北側の相国寺の北に位置するのが「上御霊神社」で、御所の東南の方向に寺町通りを少し下がった所にあるのが「下御霊神社」である。

今回は、上御霊神社に追祀された御霊について書きたいと思う。

上御霊神社は、もともとは、出雲氏の氏寺として平安遷都以前からその地にあったとされる出雲寺の鎮守とされていたと言う。

上御霊神社と言うのは通称で本当は「御霊神社」と言うことになっている。

その御霊社と言う意味だが、基本的に政争等によって犠牲となり、無念の思いを残して亡くなった怨霊を鎮めるために御霊として祀った社だと言えるだろう。

学問の神様として知られる各地の天満宮も、本来は雷神となった菅原道真を祀って鎮めるためのものであったと言う。

日本の神様の場合はこういうケースが多く、荒ぶる神や恐ろしい神、あるいは怨霊などを鎮護し、神として祀っている所も多いそうだ。

上御霊神社、つまり御霊神社では「八所御霊」と言われる八つの御霊をお祀りしているそうである。

この八所御霊については諸説あるようで、上御霊神社と下御霊神社でも少し異なるのだが、上御霊神社ではまず平安京を創った「桓武天皇」を祀り、その後に八所御霊として「早良新王」(さらわしんのう)「他戸親王」(おさべしんのう)「井上内親王」(いのうえないしんのう)「藤原広嗣」(ふじわらひろつぐ)「橘逸勢」(たちばなのはやなり)「文室宮田麻呂」(ふんやのみやたまろ)「菅原道真」(すがわらのみちざね)「吉備真備」(きびのまきび)を祀っているようだ。

ちなみに下御霊神社では、他戸親王と井上内親王に代わって謀反の疑いをかけられて幽閉された後に服毒自殺した「伊予親王」と母の「藤原吉子」が祀られている。

さて、上御霊神社では先に書いた八所御霊と併せて13柱の御霊が祀られているのであるが、明治14年(1881年)に明治天皇の意向で新たに5柱の御霊が増祀されたのである。

その5柱とは、「小倉実起」と息子の「小倉公連」と「小倉熙季(竹淵季件)」、娘の「小倉中納言典待局(小倉局)」、さらに和光明神として「菅原和子」の五人である。。

どうして明治と言う近代になって、それも明治天皇自らが増祀する事になったのだろう、そこにはどういう理由があったのだろうか?

はじめに、小倉実起と子息達、そして娘の小倉局に関する「小倉事件」と呼ばれる出来事である。


これは「霊元天皇」の時世(1664年~1686年)の話である。

「霊元天皇」には正妃である女御で鷹司房子がいたが男子には恵まれなかったが、「小倉実起」の娘である「小倉中納言典待局」(以後は小倉局)との間には第一皇子となる一宮が生まれていた。

それで、父で院政を敷いていた「後水尾法皇」や江戸幕府との間に、このまま鷹司房子との間に皇子が生まれない場合は小倉中納言典待局が生んだ一宮が皇位を継承するという話ができており、また摂関家や有力公家の間に了承も取り付けてあったのである。

しかし、松木宗子との間に第4皇子である五宮(後の東山天皇)が生まれると、霊元天皇は一宮よりも五宮に後を継がせたいと考えるようになったのである。

さらに、一宮の母でもある小倉局が皇子を出産後に体調を崩して実家に戻ったままになっているのも霊元天皇にとっては不満であったようだ。

霊元天皇は、何とか事を進めようと幕府に了承を得るための使者を江戸に送ったが、時の将軍である四代将軍の「徳川家綱」は後水尾法皇やその正妃東福門院(家綱の叔母)の意に沿わないとして反対を表明した。

しかし、その年に東福門院が死去し、3年後には後水尾法皇と将軍の徳川家綱が相次いで病死すると、霊元天皇は再び動き出した。

霊元天皇は、一宮を出家させ大覚寺にいた法皇の弟の「性真法親王」に弟子入りをさせようとしたのである。

そして新将軍となった五代将軍の「徳川綱吉」に、一宮の出家と五宮への皇位継承の承諾を求める勅使を出したのだった。

法親王は、当初は反対したものの強引に押し切られ、将軍である徳川綱吉も、就任早々で朝廷との関係悪化するのを避けようとこれを承諾する。

こうして、本来は皇位を継ぐはずであった一宮は大覚寺入りが決定してしまうが、外祖父に当たる小倉実起は、これに反発して一宮を自宅にかくまった。

霊元天皇は、決定にしたがうように促すが、小倉家側は従わない。

それで勅使として阿野季信を使わせて一宮を参内させて出家させるように勅命を伝えるが拒絶され、再び訪れた勅使の阿野季信は一ノ宮をだまして連れ出そうとするが、これも気づかれて失敗してしまう。

これに激怒した霊元天皇は失敗した勅使の阿野季信を閉門処分にすると、宮中警護の武士を小倉邸に派遣して小倉邸を制圧し、一宮を飛鳥井雅豊邸に幽閉した上、幕府に対し小倉実起への処分を要請したのだった。

将軍の徳川綱吉は、小倉家の勅命違反の事実を重視し、「小倉実起」と長男の「小倉公連」、次男の「竹淵季件」(養子に出ていた)を佐渡へと流刑を命じ、藪家や中園家といった小倉家の同族に対しても逼塞(ひっそく)を命じたのである。


ところが、この事態に後水尾法皇の側近であった左大臣「近衛基熙」と権大納言「中院通茂」が天皇に激しく抗議した。

特に以前に武家伝奏として皇位継承問題に関与していた中院は、霊元天皇の御前にも関わらず「後水尾法皇と前将軍家綱が死去してから1年余りでその意向をひっくり返した天皇と将軍綱吉」を公然と批判したのである。

更に性真法親王もこの事態に驚き、もともと反対だった事もあり、一旦は承諾した「一宮」の弟子入りの断ってきた。

こうして事は頓挫したように見えたが、年が明けて天和2年(1682年)になると霊元天皇は再び行動を起こしたのである。

2月14日になると、空席になっていた関白の後任に自分に批判的だった左大臣「近衛基熙」ではなく、それより下位である右大臣の「一条冬経」を任命してしまう。

続いて、3月25日には「五宮」の次期皇位継承者である儲君(ちょくん)としての治定と「鷹司房子」の中宮への擁立が発表された。

そして、8月16日に、とうとう「一宮」を大覚寺の代わりに「勧修寺」に入れて出家させたのだった。

12月2日には、五宮の親王宣下が行われて「朝仁親王」の名が与えられ、翌年の天和3年(1683年)2月9日には中世以来断絶していた立太子式が行われて朝仁親王が正式に皇太子に立てられた、後の「東山天皇」である。

こうして、霊元天皇の意思は反対を押し切り、また排除していく強引さで推し進められてしまったのであった。

一方、佐渡に流されていた「小倉実起」と「小倉公連」の父子が翌年の貞享元年(1684年)相次いで病死してしまう。

これにはさすがの霊元天皇も憐れみを感じたのか、同じように佐渡に流されて残された小倉実起の次男の「竹淵季件」を赦免して「小倉熙季」と改名させて小倉家を再興する事を許したと言う。

しかし、貞享4年(1687年)には以前の霊元天皇に対する暴言と皇太子への悪意の疑いで「中院通茂」が追放されてしまう(後年になり許されて霊元上皇と東山天皇の推挙で幕府から加増を受けている)。

こうして霊元天皇に反対するものがいなくなり、朝仁親王への譲位を行い「東山天皇」が誕生すると自らは上皇となり院政開始を宣言する。

そういう時代の流れの中で、一宮の産みの母であり小倉実起の娘でもある小倉局こと「小倉中納言典待局」は怨みを持ちながらも寂しく病死していたそうだ。

その小倉局が亡くなる前に呪詛の言葉を残したと言う。

「帝(霊元天皇)の御系統には、御世継ぎ御一方を残して、後は皆をとり殺してしまう。七代祟ってやる」

本来なら我が子の一宮が次期天皇になるはずだったのが、霊元天皇の思惑により、我が子は出家させられ、父親や兄は流刑にされたうえに病死し、自らも病に果てるのである、よほどの怨みや憤りを持ってしまったのだろう。

ここで、小倉局の怨念からいったん離れて、もう一人の女性について話を進めたいと思う。

小倉事件から120年ほど過ぎた文化年間の「光格天皇」の御世になり、始めに書いた増祀された残りの一人である「菅原和子」にまつわる事件が起きる。

時は光格天皇の世であり、時の将軍は11代将軍の徳川家斉の時代である。

菅原和子は、東坊城家の娘で光格天皇に仕えていた。

文化7年(1810年)に光格天皇との間に皇子を生み、磐宮(後の桂宮)と名づけられた。

その後に、再び懐妊すると翌年の産み月が近づいた4月に事件が起きる。

菅原和子は身重の身でありながら、宮中の縁側で転んでしまうのである。

普通に考えれば事故であろうが、何者かが菅原和子の慶事を妬んで縁側に蝋を塗って滑りやすくしたと言われているようだ。

菅原和子は、転倒のショックで女子を出産したものの、早産や転倒が影響したのか母子ともに亡くなってしまうのである。

さらに、残された忘れ形見の「桂宮」も二歳であったが、和子の死の翌月に親王宣下を受けて「盛仁」の名を授けられたものの、その翌日に原因不明の急死をしてしまったのだ。

菅原和子と女の子、それに息子の桂宮の死が突然であっただけに、そこに何かの恨みや謀略が語られるのも仕方ないのかも知れない。

また、菅原和子も幸福の絶頂にいながら、突然の不幸と死に突き落とされたのである、そこに怨念が残されるのも在るのかもしれない。

菅原和子の死後、和子が転倒した縁側では赤ん坊を抱いた和子の亡霊が目撃されるようになったと言う。

菅原和子の怨念は12年後に宮中を震撼させるのであった。

和子の死から12年が過ぎた「仁孝天皇」の時代となっていた。

その年に仁孝天皇の正妃である、前関白・鷹司家の娘である「鷹司繁子」が懐妊した。

しかし、4月になると難産のために母子ともに亡くなってしまう。

これが菅原和子が亡くなった12年後の同じ未年の4月であった事から因縁が囁かれた。

一説によると繁子母子の死因は難産ではなく、菅原和子と同じ縁側で転倒したためとも語られていると言う。

また、繁子が以前に生んだ「安仁親王」も、和子が生んだ「盛仁親王」と同じ2歳で早世しているのも因縁話に拍車をかけたのである。

菅原和子の亡霊の噂が出て鷹司繁子も亡くなり、繁子の霊の目撃談も出たそうで、その場所に霊社を建てて二人の霊を鎮めたと言う。

菅原和子母子は、ともに千本中立売の浄福寺に葬られたと言い、宮内庁管轄の陵墓となっているそうである。


さて、ここで小倉局の話に戻るのだが、小倉局と菅原和子は時代も隔てが有り、直接の関わりは見当たらない。

しかし、小倉局が残した「世継ぎ一人を残してとり殺す。七代まで祟る」と言う言葉で繋げると不思議な因縁が見えるそうだ。

小倉局は七代祟ると言ったそうであるが、「霊元天皇」を継いだ「東山天皇」から天皇の歴代で数えると七代目が「光格天皇」、菅原和子が仕えた天皇であり、父子相承の関係で考えると七代目が明治天皇になるのだと言う。

ちなみに光格天皇は、東山天皇の皇孫である「閑院宮典仁親王」の第六皇子で、東山天皇の曾孫と言う事になる。

そして、光格天皇は先代の「後桃園天皇」が跡継ぎを残さずに崩御したために、傍系の閑院宮家から即位した天皇となる。

つまり東山天皇からの本流は後桃園天皇で途絶えるのだが、傍系の宮家に継ぐ事で、皇統は守られて小倉局の祟りは終わったかに見えたが、そこで光格天皇に起きたのが菅原和子の事件で新たな祟りの系譜が繋がれたとも言え、祟りが更新されたとも言えるかも知れない。

さらに、光格天皇の後を継いだ「仁孝天皇」の皇子女は、15人中の12人が3歳までに早世している。

そこから、一人だけ育った皇子が後の「孝明天皇」であり、さらに孝明天皇の皇子女からただ一人育った皇子が「明治天皇」と言う事になる。

考えると皇統の危機がかろうじて繋がっていたと言えるかも知れない。

そして「明治天皇」である。

明治天皇も、皇子女の15人の中で10人が早世し、男子で成人したのが「大正天皇」だけだったのである。

さらに、明治天皇の祖父である「仁孝天皇」の第三皇女である「桂宮淑子内親王」も薨去されて「桂宮家」も断絶することになるが、桂宮家と言えば先に書いたように菅原和子の亡くなった息子の宮家でも有り関わりがあったとも言われている。

この後に、明治天皇は「上御霊神社」に小倉一族と菅原和子を増祀する事になる。

理由は述べられていないが、これまでの経過から考えて小倉局や菅原和子に対する皇統の危機を気にしていたのではないかと想像できる。

事が皇室の出来事だけに、公にされていない出来事や事件もあったのかと思われるが、小倉局や菅原和子の祟りや呪いが気になったからこそ、それを鎮める必要を感じて祀られるようになったのではないだろうか。

一説によると、菅原和子と鷹司繁子を宮中に祀った霊社は、明治天皇が東京に行ってからは祀られなくなり廃れたそうで、京都在住の旧公家達が霊社の祟りだと言い始めて祀るように進言し、その霊社の祀りを上御霊神社に移したのが菅原和子を祀る和光明神だそうである。

もしも、祟り話がまったくの作り話であるなら、なぜ急に小倉一族や菅原和子が祀られる様になったのか理由が不明なのも事実である。