蜘蛛の旋律・70
 街はいつの間にか色を失って、濃淡の異なるグレーに染められている。白黒写真か墨絵のようだ。文庫小説の挿絵のようにも見える。下手な漫画家の背景のように、生活感というものもまったくなく、もちろん人影も一切なかった。
 紙に描かれた風景に見えるのは空に破れ目があるせいでもあるだろう。街並みはかろうじて立体感を保っていたけれど、背景の空は舞台装置の書き割りに見える。まるで喰い千切られたかのように破れて、端が捲れ上がった穴の向こうには何もなかった。見ているものを上手く表現することができないけれど、その破れ目の向こう側には、無の雰囲気が無限に存在しているのだ。
 アフルが車を停めてドアから下りる気配につられて、オレも車の外に出ていた。野草の下位世界にほころびができ始めている。黒澤が言ったその言葉の意味を、オレはここで知ることになったのだ。
「どうやらこの先には行けそうにないね」
 アフルが言った。……たぶん、行けないということはないだろう。ただ、この先車を進めたとして、無事に帰れる保証は限りなくゼロに近い。
「野草の下位世界はここでおしまい、ってことかな」
「僕には判らないよ。でも、薫はもっと北の方も小説に書いてる。君も知ってる『地這いの一族』という小説には宮城県まで描かれているんだ。青森で税理士をしている脇役も出てくる。その場所が薫の下位世界に存在している以上、北に向かえばいつかは辿り着けるはずだよ」
 たぶん、野草の下位世界が形を留めていさえすれば、この灰色の道は宮城にも青森にも通じているのだろう。だけど世界は壊れ始めている。今はこの破れ目が広がる気配はないけれど、弱い部分から徐々に破壊は進んで、いずれは世界全体を飲み込んでいくのかもしれない。
 黒澤が予言した5時20分頃には、いったいどれだけの世界が残っているのだろうか。
「巳神君」
 アフルが言って、オレは顔を上げた。アフルの顔に緊張が走る。その緊張は、すぐにオレにも伝染した。