千姫
京都の知恩院にある千姫のお墓にお参りして来ました。

徳川家は浄土宗総本山の知恩院を信仰していて、その所縁で千姫の墓が知恩院にあるそうです。

千姫は徳川二代将軍の徳川秀忠とお江与との間に生まれ徳川家康の孫娘となります。

三代将軍の家光は、千姫の弟になります。

千姫は慶長8年(1603年)に7歳で豊臣秀頼と結婚し、乳母・刑部卿局とともに大坂城に入りました。

秀頼と千姫の夫婦仲は良かったと言われています。

しかし、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、祖父の徳川家康の命により落城する大坂城から救出されました。

その後、秀頼と側室の間の娘となる天秀尼が処刑されそうになった時に、千姫は彼女を自らの養女にして命を助けるました。

ちなみに、秀頼と淀殿に対しても助命嘆願をしましたが聞き届けられなかったと言われています。

その後、元和2年(1616年)に桑名藩主である本多忠政の嫡男の本多忠刻と結婚しました。

この時に、千姫事件と言われる出来ごとがあり、千姫を大阪城から救出したとされる津和野藩主の坂崎直盛が輿入れの行列を襲って千姫を強奪する計画を立てていることが発覚しました。

これは千姫を大阪城から救出すれば嫁にもらえると約束があったが反故にされたからとか諸説あります。

しかし、そんな事件を起こせば藩は潰されるので、直盛は家臣により殺害され、それを直盛が自害したように見せかけましたが、坂崎家は改易処分となりました。

千姫は、無事にに桑名城に着き、この時に10万石の化粧料を与えられたといわれます。

翌年の元和3年(1617年)には、本多家が播磨姫路に移封になり、姫路城に移ると、播磨姫君と呼ばれるようになりました。

翌年には長女の勝姫(池田光政正室、池田綱政生母)、さらに、長男・幸千代が生まれました。

しかし、幸千代が3歳で没したのを始め、寛永3年(1626年)には夫・忠刻、姑・熊姫、母・達子が次々と没するなど不幸が続き、本多家を娘の勝姫と共に出ることとなりました。

その後、江戸城に入り、出家して天樹院と号し、出家後は娘と2人で御殿で暮らしたとされています。

しかし、後年に千姫に対して、とんでもないでっち上げのデマが流されました。

千姫が若い身体をもて余して、次々と男を引き入れては関係を持ち、飽きると殺して井戸へ投げ込んだと言う悪意で語られた話ですが、逆に芝居等で取り上げられ広まってしまうのでした。

おそらく、豊臣の縁者や豊臣ひいきが流したのでしょう。

しかも、この千姫の御殿が取り壊されて更地になり、青山氏の御殿が造られて更屋敷あるいは皿屋敷と、番町皿屋敷の因縁話へと繋げられてしまうのでした。

徳川家の娘として生まれ、しかし次々と運命に流されてほんろうされた千姫。

どうぞ、安らかにとねがいます。