諸羽神社
京都の山科に「諸羽神社」と言う古社があります。

祭神は、天孫降臨の神話の中で、瓊瓊杵尊の左右に従った天児屋根命(あめのこやねのみこと)と天太玉命(あめのふとだまのみこと)の2神を祀るところから、始めは両羽大明神と称したそうです。

貞観四年(862)に清和天皇の勅命でこの地に社殿を建てたのが当社の始まりとされる由緒のある神社です。

その後、正殿に応神天皇、脇殿に伊奘諾尊(いざなぎのみこと)・素戔鳴尊(すさのおのみこと)・若宮八幡を合わせ祀るようになり、社名の「両羽」の文字も「諸羽」に改められ諸羽神社となったようです。

社殿は応仁の兵火により焼け、その後もしばしば火災に遭ったそうです。

この神社は、山科一八郷の中で第四番目に当たるとされ、古くは「四ノ宮」と呼ばれて、この付近の産土神として人々に崇敬されました。

神社の背後の山は諸羽山といい、平家物語の中に、「木曽、もろは山の前、四の宮川原に打出で・・・」と記されているのは、神社周辺のことででしょうね。

また、神社の境内は、平安時代の「人康親王」の山荘跡と言われ、この地域を親王に因み「四ノ宮」とも呼ばれるとの説もあります。

「人康親王」(さねやすしんのう)は平安時代前期の皇族で仁明天皇の第4皇子、848年四品、上総、常陸国の太守、弾正台の長官を歴任しました。

親王は859年に28歳で高熱により両目を失明し、宮中より追われてこの地に山科御所を営み隠棲し、出家して法性と号したと言います。

「四宮」の地名は親王が第4皇子とされることに由来するともいわれます。

親王は『伊勢物語」78段に、「山科の禅師親王」として登場するそうです。

親王は唐から伝えられた琵琶を習い、その名手とされ、鎌倉時代や室町時代の琵琶法師には、始祖「雨夜尊」、「天夜尊」と崇められたのだそうです。

本殿の西北に「琵琶石」といわれる石がありますが人康親王の山荘の跡にあったものを移したと伝えられているようです。

親王はこの石に坐って琵琶を弾いたとそうです。

また琵琶の名手とされ、盲人を集め、琵琶や管絃、詩歌を教えたと言います。

親王没後、仕えていた人々に、「検校」「勾当」という「盲官」の位が与えられました。

さらに、僧職に就いた者は「法師」と呼ばれるようになったそうで、検校たちは、親王を祖神と仰ぎ、当地や、四条河原での積塔会(しゃくとうえ)などで、毎年先祖供養の祭祀を行っていたそうです。

こういう繋がりから、諸羽神社のご利益として、技芸上達、心身障害や病苦の克服などがあるみたいで、絵馬は障害者福祉事務所の通所の方々が製作されてるみたいです。


なお、山科地蔵にも親王の供養塔があります。