保科正之
今回の東日本大震災や原発事故での政府の対応に幻滅して、こういう時に保科正之のような人物がいてくれたらと考えてしまった。


保科正之は、放送中の大河ドラマのヒロインである「お江」の結婚相手である二代将軍徳川秀忠のご落胤であるが、庶子のために保科家に養子にだされ、やがて初代の会津藩主となる人物である。

そして、三代将軍で異母兄である徳川家光に信頼され、幕閣に取り上げられ、四代将軍の徳川家綱の時代には将軍輔弼役の重職に就いていた。

そして1657年に明暦の大火(俗に言う振袖火事)と言う大災害がおき、冬の一月の大火で三日間のの焦熱地獄の後は極寒になり焼死者と凍死者で、その数が10万とも数万とも言われている。

この時に、リーダーシップを発揮して事にいどんだのが、その保科正之であった。

江戸城本丸までも火災で焼け落ち、将軍の居場所がなくなり、各大名はどうか拙宅へと申し出たが、保科は「天下の将軍が城を見捨ててはいけない」と反対し、災害時にこそ司令塔の安定化と情報や決断の一元化を計った。

後に、江戸城の天守閣を再建せよとの意見が出たときも、天守閣よりも民家の復興が先と言い切り、この時以来、江戸城に天守閣は再建されなかったのである。

大火のおりに、まず、おかゆと会津名産のロウソクを江戸城に運び入れて、食料と灯りの確保を行った。

また府内六ヶ所で炊き出しを行わせ、武家よりも町方の復旧を優先させたのである。

当時の金で16万両を支出させたが、「それでは御金蔵が空になるではないか」と言う反対意見に「これだけ出せるのも蓄えがあったからこそ」と取り合わなかったそうである。

浅草にあった米蔵が類焼しそうになった時には町方に「蔵米を取り出した者には、その米を与える」とお触れを出し、それにより民衆が駆けつけることによって通りの火が鎮まり、同時に被災者に救援米が与える事にもなったと言う。

こういう非常時に柔軟に対応して言ったのも優れたところだろう。

保科は、火災後は家来に命じてどこにどれだけの死者が出たか調べさせ、隅田川沿いで、陸では多くの人が焼死し、川岸では押し合った人々が圧死し、また川に入った者は溺死した事を知ると、それまで敵の侵入を防ぐために墨田川には橋がなかったのを改めて、庶民の安全と利便のために両国橋の建設を決断した。

また、将軍の安否を伺うために江戸に上りたいと言う諸大名には、それを許可すると江戸の人口が増えて物価が高騰するのを避けるために、出府禁止の命令とともに、在府者はすぐに帰るように命じて、江戸での武士を減らし商人を増やすように需給バランスを考えたのである。

保科正之は、それまでの経験や会津藩主時代の政策での経験を生かして幕政にも取り組んだのであろうが、殉死の禁止なども保科の考えで「殉死は美徳にあらず」と武家諸法度を改めている。

保科正之は、その出自もあり、自分がトップになる欲よりも、自分が補佐に徹して決断できたからこそいろいろの実用的な対策を取れたのかも知れない。

もちろん保科正之だけでなく、他にも智恵伊豆として有名な松平伊豆守も優秀で二人して事に当たったことも大きいし、また上の将軍が二人を信頼して任せたことも大きいのだろう。


今現在の日本のように非常事態にこそ、こういう優れた人物がトップにしてほしいと切実に願ってしまう。