血天井
京都のお寺の中には「血天井」と言う不気味な呼ばれ方をする史跡を持つお寺がいくつかある。

京都市東山区の「養源院」(ようげんいん)

京都市北区鷹ヶ峰の「源光庵」(げんこうあん)

京都市北区西賀茂の「正伝寺」(しょうでんじ)

京都市左京区の「宝泉院」(ほうせんいん)

宇治市宇治山田の「興聖寺」(こうしょうじ)

などのお寺には血天井があることで知られている。

この血天井と言うのは関ヶ原の合戦の前哨戦とも言うべき、伏見城の戦いで犠牲となった徳川家康の家臣である「鳥居元忠」らにまつわる史跡なのである。


鳥居元忠は「鳥居伊賀守忠吉」の三男として生まれ、幼名は鶴之助と名付けられ、後に彦右衛門と称した。

そして天文20年(1551年)の元忠が13歳の時に10歳の家康(当時は松平竹千代)の近侍として仕えてからは数々の合戦で戦功を挙げ、三方ヶ原の戦いでは負傷して片足が不自由になったと言う。

同年に父である鳥居忠吉の死去により家督を相続すると、典型的な三河武士として徳川家中で重きをなしていく。

天正10年(1582年)の「本能寺の変」のおりには、甲斐古府中(甲府)で北条氏勝らを破った功により家康から甲州郡内の地を与えられ、天正18年(1590年)には豊臣秀吉の小田原征伐で徳川家康に従って出陣すると武蔵岩槻城を落とすなど活躍して秀吉からも感状を受けたのであった。

やがて徳川家康の関東入国の際には下総矢作四万石の主とまでなっていた。

月日が過ぎ、天下人であった「豊臣秀吉」が亡くなると、秀吉の子の「豊臣秀頼」を頭にして豊臣家による安泰を図る石田三成らと、徳川家による天下制覇を心に思い勢力を伸ばしていく徳川家康らとの対立が表立ってきた。

また、豊臣恩顧の武士でありながらも石田三成への恨みや怒りをもつ加藤清正や福島正則らが、北の政所・ねねの進めもあって徳川方についていたことも情勢を複雑にしていた。

面白いのが、石田三成も、徳川家康も、どちらも戦で雌雄を決したいと思いながらも、切っ掛けとなる大儀を模索していたのである。

そこで石田三成は、自分と志を同じくする上杉家と図って策を練る。

上杉家が徳川と敵対し、これを討伐に徳川が出発した所を大阪から豊臣勢が追撃して、東からの上杉勢と西からの豊臣勢で徳川勢を挟み撃ちにする計画を立てたのである。

しかし、徳川にすれば、この策略は見破っていたのである。

徳川勢が上杉討伐に出発すれば石田三成らが兵をあげて追撃してくるのは目に見えていた。

しかし、これを見破っていることを知られてはいけないので、気づかれないように、伏見城の守護に置かれている徳川勢の勢力は残しておく必要があったのである。

ただ、この残していく勢力は石田勢が兵をあげたときには総攻撃を受けて負けるのは必至であった。

その伏見城を守護していたのが、鳥居元忠らであった。

やがて徳川家康は上杉征伐へと腰を上げる。

6月16日、大坂城西の丸に佐野肥後守を留守居として残し、前田玄以や増田長盛らの見送りを受けて大坂を出陣すると伏見へ向かった。

同夜に一行が伏見城に到着すると、鳥居元忠は自ら杖を突きながら不自由な足を引きずって城中を歩き回り、御供の者にも牡丹餅と煎茶を振る舞ったと言う。

翌17日、家康は伏見城の守備を本丸は鳥居元忠、松の丸は内藤家長、三の丸は松平近正・松平家忠へそれぞれ命じ、鉄炮二百挺を預けたのである。

その際、家康は

「四人とも、今回の会津征伐への出陣に加わらずに、こうして留守居を務めることを残念に思ってくれるなよ。大勢いる家中の者どもの中から、特にその方らをここに残すことは、よくよく考えてのことである。しかし、人数が少なくて皆には苦労を掛けることになる」

と言ったところ、元忠は密かに家康の意を汲んでおりこう返答した。

「私はそうは思いません。会津征伐は徳川家にとっても重要な戦であり、家人一騎一人たりとも多く連れて行かれるべきです。京・大坂が今のように平穏なら、この城の守りは私と近正でも充分です。殿が出立の後、もし敵の大軍がこの城を囲むようなことになれば、近くに後詰めを頼む味方もおらず、とても防戦などは出来ないでしょう。つまり、貴重な人数を裂いて少しでも城の守りに残すというのは、無益と存じます」

この夜、元忠と家康は昔話に花を咲かせた。

鳥居元忠が家康に仕えた頃は、家康がまだ少年で今川の人質として肩身の狭い思いをして苦労していた頃の話だったのである。

主従水入らずで語り合い、あっという間に時間は過ぎていった、これが別れの杯でもあったのだろう。

やがて元忠は「もう寝られませ」と言って退出しようとしたが、足が不自由なため思うように歩けず、家康は小姓らに「手を引いてやれ」と命じた。

元忠と家康は人質となっていた子供の頃から、主従とはいえ共に苦労を同じくしていた兄弟のような間柄である。

小姓らに支えられて退出する元忠の後ろ姿を見て、家康が思わず泣いたと言う。

翌6月18日の朝となり、徳川家康は鳥居元忠ら伏見城守護の四将に見送られ、井伊直政・榊原康政・本多忠勝父子ら錚々たる軍容をもって伏見を出陣した。

やがて徳川勢が出陣したことを確認した石田三成ら西軍は家康の予想通りに挙兵し、元忠らが守る伏見城に向かって行ったのである。

西軍では出陣を前にして宇喜多・毛利らは伏見城攻めを協議していたが、増田長盛がこう提案した。

「伏見城は太閤様が日本中の人夫を集めて堅固に築城された城であり、兵糧武器に至るまで事欠かない名城である。またこれを守る元忠以下の四将は、内府(徳川家康)の若い頃から仕込まれた武辺者ばかり。さらに近隣に後詰めの城もなく兵卒に至るまで死にもの狂いで戦うであろうから、容易に城は抜き難いだろう。幸い私は元忠を長年に渡って知っているので、城を明け渡すようまずは申し送ってみては如何であろう」

この意見に宇喜多秀家が同調して評議は一決し、西軍方は増田家臣の山川半平を使者として伏見城へ派遣した。

しかし鳥居元忠はこの申し出を一蹴してこう言った。

「御口上は承った。しかしながら、内府は出陣の際に堅固に守れとの仰ったのである。内府の直々の命令ならばいざ知らず、各々方からの申し出により開城することは出来申さぬ。どうしてもというなら、軍勢を差し向けなされ。この白髪首を引き出物に、城をお渡しできるであろう」

こうして明け渡しの交渉は物別れに終わり、伏見城攻めは決行されることになった。

しかし徳川方にも味方はあった。

近江の代官である岩間兵庫と深尾清十郎は甲賀衆数十人を引き連れて籠城勢に加わることを願い出た、また家康の恩に報いようと、宇治の茶商である上林竹庵も共に籠城を願い出たのである。

元忠は竹庵にこう言った。

「その方は町人となった身である、討死にしなくとも恥ではあるまい。我々も窮する余り町人まで籠城させたと言われるのも残念である。早く宇治へ帰られよ」

と諭すが、竹庵は納得せずに反論した。

「私は内府に受けた恩は大で、今こそ町人にはなっているが、心まで町人ではない。今、当家の危急に臨んで去るのは人の道に外れる。願わくば、泉壌に茶を献じたい。強いて追い出されるならば、この場において腹を切る」

と顔色を変えて詰め寄ったため、元忠は彼らの入城を許したという。

この上林竹庵は、元は近江佐々木義賢の後裔と伝えられる丹波の武士であり、徳川家康に仕えて長久手の合戦では首二級を挙げて、家康から感状と槍を賜った事もある武将であった。

しかし、後には宇治で茶道を志し剃髪して竹庵と号したという経歴の持ち主である。

余談であるが、島津家も、実はこのときは徳川方に付くつもりで伏見城に行き、城に入れるように申し入れたのだが、鳥居元忠は家康からそういう話は聞いていないために頑なに断り、それでも島津側がしつこく申し入れるためにもしや敵方の策謀ではないかと疑って鉄砲を撃ちかけたという。

それで島津側は仕方なく西軍に付く事になったと言われている。

7月15日(『家忠日記』では18日)、西軍は宇喜多秀家を総大将として大坂を出陣、4万の大軍で城を包囲した。

これに対して伏見城守護側は2千名ほどで、守将の鳥居元忠は自らは本丸を守り、二の丸には内藤家長・内藤元忠と佐野綱正を配し、三の丸には松平家忠・松平近正を、治部丸には駒井直方、名護屋丸には岩間光春・多賀作左衛門、松の丸には深尾清十郎・木下勝俊(後に退城)、太鼓丸に上林竹庵をそれぞれ配置して、徹底抗戦の構えを取った。

19日から西軍の猛攻が始まった。

21日には城の外濠まで詰め寄られて激しい銃撃戦が展開されたが、元忠らは頑強に抗戦して10日余りも持ちこたえたのである。

しかし30日、攻囲陣の中にいて甲賀衆を抱えていた近江水口城主の長束正家は一計を案じ、鵜飼藤助なる者に命じて城内の深尾清十郎ら甲賀衆に連絡を取らせ、「火を放ち寄せ手を引き入れよ。さもなくば、国元の妻子一族を悉く磔にする」と脅迫した。

鵜飼藤助は矢文を射込み、城内の甲賀者に内応を勧めたところ、郷里に残した家族を心配する甲賀者たちはこれに応じる事になり、「今夜亥の刻に火を放って内応する」との返事を得た。

そして、これがその通り実行されたのである。

8月1日未明、伏見城の一角に火の手が上がると、城内の甲賀者はどさくさに紛れて城壁を壊して西軍を引き入れた。

内応者がいては堅固な守りも、もはやどうにもならない。

松平家忠・松平近正、上林竹庵らは次々と討たれ、本丸の鳥居元忠は奮戦して傷だらけになりながらも三度敵を追い返したが、もはや彼の周りにはわずか十余人しか残ってはいなかった。

そして、遂に元忠の最期の時が来た。

『常山紀談』巻十四の七、第三百十六話「伏見落城の事附鳥居忠政、雑賀孫市を饗れし事」には次のように描かれている。


元忠本丸に有て門を開かせ、門際より七八間しさりて、士卒三百余白刃を抜そろへ、しづまりかへって待かけたり。

寄手しばし攻入兼てためらひけるに、元忠大音あげ、「一人にても敵を討て死するぞ、士の志なれ。吾三方ヶ原にて足に手負ひ行歩心にまかさざれども、逃んとせばこそ足も頼まめ。いざ最後の軍せよ」と下知する声を聞て、一同に切って出面もふらず戦ひて、一人も残らず討死しけり。

元忠戦ひ疲れて玄関に腰をかけ、息つぐ処に雑賀孫市重次、死骸を踏越てすゝみよれば、「吾は鳥居彦右衛門よ。首取て功名にせよ」とて物具脱で腹を切たりしかば、雑賀其首を取りたり。

本丸に二つの門ありけるを、大手の外はみな堅く鎖してければ、一人も逃ちる者なく討死しけるとぞ。


こうして鳥居元忠ら伏見城を守る武士達はことごとく討ち死にしたのである。

鳥居元忠は享年62歳だったそうで、その首は大坂城京橋口に晒されたと言う。

また、関ヶ原の合戦が始まったので伏見城で亡くなった遺骸はそのままにされたために、床板に血潮が染み付いたそうである。

この時の彼らの血潮に染まった床板が、後に供養のために京都市内の養源院・宝泉院・正伝寺・源光庵などの寺に移築され、「血天井」となったのである。


徳川家康ら東軍は、石田三成ら西軍が進軍したと言う報を受けると、評定を開いて方針を審議した後に、上杉討伐を中止して西軍を討つために西に向きを変えて進軍し、関ヶ原の戦いへと向かっていくのである。

伏見城の鳥居元忠らの守将が捨石となり、西軍の攻撃を長く持ちこたえたために西軍の侵攻が遅れることにもなったので、この伏見城の攻防も関ヶ原での東軍勝利の要因であったとも言われている。

ちなみに、使われている血天井の写真は「源光庵」のものである。

京都市の東山区の七条通りには有名な三十三間堂があるが、その東側の通りを少し下がった所に「養源院」と言うお寺があり、その門前には大きく「血天井」と書かれている。

養源院は、豊臣秀吉の側室である「淀君」が父の戦国武将「浅井長政」の二十一回忌にあたり、その菩提を弔うため秀吉に願って文禄3年(1594年)に創建したのが始まりだと言う。

また、浅井長政の従弟で比叡山の僧となった者を開山とし、寺名は長政の院号である「養源院天英宗清」に因んでいるそうだ。

その後、元和5年(1619年)に火災で焼失するが、元和7年(1621年)になり淀君の妹であり、徳川秀忠に嫁いで正室となっていたお江(おごう)の願いにより秀忠が再興したのであった。

そのために、このお寺には豊臣家の遺品と徳川家の遺品が並ぶ寺院となっており、徳川家の菩提寺ともされている。

この養源院の天井は先に書いたように伏見城の遺品の床板を張った血天井であるために、拝観するとお寺の方が血の痕を指しながら解説してくださるが、鳥居元忠の血の痕もこの養源院の血天井に使われており、確認できるようだ。

また、この寺には俵屋宗達作の襖絵「松図」12面や、杉戸絵「唐獅子と白象」8面などが伝わっており、重要文化財に指定されている。

そのために養源院の、もう一つの通称名は「宗達寺」とも呼ばれているのである。