明智藪
京都の伏見区にある醍醐の地、そこを通る地下鉄東西線の「石田」駅から北西に歩いて新小石橋を渡り、小栗栖北団地の北西にある「本経寺」の東側(伏見区小栗栖小阪町)に、ひっそりと「明智藪」の石碑が立てられている。

この辺りは、昔は栗栖郷と呼ばれていて草地に馬が群れていたそうで、山の中腹には藪が広がっていたのだろうか、今は土砂崩れ防止の工事の為に藪は刈り取られ、本経寺の管理地として僅かな藪の痕跡と石碑が立つだけである。

明智藪は明智光秀の終焉の地と言われている場所である。

天正10年(1582年)、秀吉の中国攻めへの応援を申し付けられ、戦地に向かうはずだった明智光秀は丹波から引き返して本能寺に駐留していた信長を討った、俗に言う本能寺の変である。

そうして光秀が天下を握ったかに思われたが、中国遠征から急遽引き返した秀吉と天王山で戦ったが敗れてしまう。

三日天下と言われるように、つかの間の夢で敗軍の将となった光秀は数人の近臣に守られ、居城のある滋賀の坂本へ落ちて再起を図ろうとしていた。

満身創痍の光秀一行は、淀川右岸を通り、伏見大亀谷を径て小栗栖の深い竹薮を通っていた。

光秀の心中はどうだっただろうか。

本能寺で信長を討ったものの信じていた人に背かれ、秀吉に敗れて多くの家臣を亡くし僅かな手勢で落ち延びていく。

無事に坂本に帰りつけた所で敗軍の将となった身では討手を差し向けられるだろう。

様々な思いが光秀の胸をよぎっていたのかも知れない・・・・

光秀の心のように、折からの冷たい雨が降り続き、風が藪を揺らしている。

ガサッと竹薮が大きく揺れたその刹那、光秀の全身に焼けるような痛みが走りぬけた。

付近の百姓である長兵部衛の竹槍が、光秀を貫いたのだ。

周りは、落ち武者狩りの農民に囲まれていた、光秀一行は目撃され待ち伏せされていたのだろう。

手負いの光秀らは疲れも大きく、多勢に無勢の中で敵うべくもなく討たれて行った。

やがて光秀の遺骸は京都の秀吉の下に運ばれて検分され、首と胴は粟田口にさらされたと言う。
 
光秀は享年55歳だったと言われている。

その後、あの竹藪を通ると、軍勢のおたけびが聞こえると言う噂が農民の間に伝わって行った。

さらに殺された光秀の怨みなのか、竹を切る農民がケガをしたり、震えが止まらなかったりと怪異が続いたようだ。

そうした事が続き、竹薮は光秀の祟りとして怖れられ、人々も避けて通るようになったと言う。

こうして、この竹薮は明智藪として恐れられたが、明治維新まではこの竹薮から緑にまじって赤い枝をつけた竹が無数にはえたそうだ。

また、以前はこの竹薮の一面に、ちょっとした空地があり近在の人たちは、「ワタ出」と呼んだと言う。

それは、光秀が竹槍で突かれた時に、最後の力を振りしぼって竹槍を抜いた弾みに、光秀の腹部から鮮血と内臓が飛び散ったそうで、そうした光秀の怨念が周辺の竹を腐らせたとされていたようだ。

そう言った明智藪についての伝説であるが、光秀の死については諸説があり不明な部分も多いと言う。

身代わり説や改名説や逃亡説などもあり、生き延びて「天海僧正」になったと言う説は有名である。

また死亡説でもいろいろな話が伝えられており、 光秀の墓と言われる物や塚と言われるものも各地に残されているようだ。

以前に「明智光秀の首塚」について紹介したように、光秀の首が晒されたと言われている粟田口に近い三条から白川沿いに下った梅宮町に首が供養されて祀られており、首塚大明神として信仰されている。

さらに、明智藪から小栗栖街道沿いに北に上がった山科区勧修寺御所内町には光秀の胴を供養したと言われる「明智光秀の塚」の石碑が立てられている。

これは小栗栖で刺された光秀の胴体が埋められた所とされているようだ。

光秀は、その出生や出自も諸説があり、その最後にも伝説の多い人物である。

光秀がなぜ本能寺の変を起こしたのかも謎に包まれているが、私は割と好きな武将の一人でもある。