皿屋敷伝説
少し前に皿屋敷の本を読んでから、皿屋敷の伝説に興味を持ち、あれこれ調べたり本を読んだりしていた。

それで、伊藤篤さんの「日本の皿屋敷伝説」と言う本も読了した。

これは日本各地に伝わる皿屋敷に類する伝説を訪ねて紹介している本で、こうしてまとめると改めて日本各地に皿屋敷伝説が広がり伝えられている事が判る。

皿屋敷と言えば、家宝の皿を割ったお菊さんが井戸から亡霊となり現れて「一枚、二枚」と皿を数えるのをご存じの方も多いと思うが、それにも各地で様々な違いや物語があったりする。

特に作者が福岡出身なので福岡の皿屋敷伝説に踏み込んで調べられてるのが面白い。

さて、皿屋敷で有名なのが江戸は牛込の番町皿屋敷と、姫路の播州皿屋敷ではないだろうか。

どちらが元かは諸説あるようだが、歴史的には姫路の播州皿屋敷の方が古いようである。

簡単に紹介すると、


江戸の番町皿屋敷は、将軍徳川吉宗の頃の事。

牛込御門内五番町に旗本御小姓の屋敷があった。

その番頭を吉田大膳亮と言ったので吉田屋敷と呼ばれたが、後に他へ移されて空き地となっていた。

そこへ三代将軍の徳川家光の妹で豊臣秀頼の妻であった千姫の御殿が建てられた。

千姫は大阪城から助けられて姫路城主本多忠政の長男の本多忠刻に嫁いだが死別し、江戸に戻って天樹院を名乗っていたのである。

しかし、その後(千姫が次々と男を引き込んでは行為の後に虐殺したとの嘘説あり)千姫が亡くなると屋敷は取り壊されて更地となっていた。

そして御手先を勤める千五百石取りの旗本である青山主膳(播磨守)の屋敷が建てられた(更地に建てられたので更屋敷との説あり)。

青山主膳は火付盗賊改の役を勤めたが残忍で悪評が高く、盗賊として死罪となった向崎甚内の娘の菊を下女として奉公させていた。

承応二年正月の事。

菊は主膳が大切にしていた家宝の十枚組の皿の一枚を過って割ってしまった。

主膳の奥方はもともと菊に嫉妬していた事もあり、激しく怒って責めさいなんだが、主膳はさらに皿一枚の代わりにと菊の中指を切り落としてしまう。

そして松の内が明ければ手討ちにするつもりで、それまでは一室に監禁して食事も与えなかった。

このまま苦しむよりはと考えた菊は、夜中に縄付きのままで部屋を抜け出すと裏の古井戸に身を投げて自ら命を絶ってしまう。

その後、夜になると井戸の底から「一つ、二つ」と皿を数える女の声が屋敷中にこだまして屋敷の者は怖ろしさに怯えていた。

やがて奥方が子を生んだが菊の祟りか右の中指がなかったと言う。

屋敷に仕えていた者たちも重なる怪異に怯えて一人一人と去って行ったのである。

やがて、公儀にも事の話が耳に入り、青山主膳は所領を没収されて親類預かりの身になったのだった。

しかし、その後も屋敷内では皿数えの怪異が続くので、公儀は小石川伝通院の了誉上人に鎮魂の読経をを依頼した。

上人が夜に井戸端で読経を続けると、井戸から皿数えの声が聞こえだし、「七つ、八つ、九つ」と数えたところで、上人はすかさず「十」と付け加えると菊の亡霊は「あら、うれしや」と言って消え去り、その後は現れなくなったと言う。


この伝説が世間に知られている形に近いが、それでも偽説や矛盾や間違いも多く、お話として創られている部分が多いと思われる。


また牛込の他の伝説では

ある武士がいて嫉妬深い妻がいた。

武士は若い腰元を妾として寵愛していたが、武士が役目でしばらく留守にした折に妾が過って十枚揃いの皿の一枚を割ってしまった。

激怒した妻は、妾を折檻したあげくに一室に閉じ込めて水も食べ物も与えずに飢え死にさせようとした。

しかし、妾はなかなか死なないので妻は妾を絞め殺して、中間たちに命じて死骸を入れた棺桶を山に埋めさせようとした。

ところが妾は途中で息を吹き返して、棺桶の中から「着物の中に二百両を隠し持っているので、それをやるから助けてくれ」と中間たちに頼み込んだ。

中間たちは驚いたが、棺桶の蓋を開けると妾を助けて金を受け取ったが、このままではやはりまずいと金だけ取って、もう一度妾を絞め殺して埋めてしまったのだった。

数日後、妻は喉に腫れ物が出来て食事どころか水も飲めなくなった。

医者を呼んだが治療の手立ても無く困っていると、そこに妾の幽霊が現れると「私はこの妻に殺された。手を貸した中間の一人は川に沈めて殺した。もう一人の中間も首に腫瘍が出来て死んだ。この妻もやがて苦しんで死ぬから治療しても無駄である。このまま帰れ」と言い、医者は逃げ帰ったと言う。

この話は怖ろしく皿数えや井戸もでないが、江戸での皿屋敷に近い原型のような感じである。


続いて、もう一方の播州皿屋敷である。

姫路城主の小寺則職はまだ若く、執権の青山鉄山は、同じく置塩城主の赤松義村の執権の浦上村則と通じて、それぞれに置塩家と赤松家の乗っ取りを画策していた。

青山鉄山は、一味の町坪弾四郎らと謀って花見の宴で城主の毒殺をしていた。

しかし、忠臣の家老一派はお菊と言う女性を女中として住み込ませて情報を探らせていた。

やがてお菊は鉄山一味が花見の宴で毒殺を企んでいる事をツカムト家老一派に通報し、あわやと言う時に家老一派が駆けつけて逆臣達を切り伏せたが青山鉄山はいち早く逃げ出して青山の居城に立て籠った。

鉄山に通じている浦上村則は、自分の主君の赤松義村を殺すと鉄山に援軍を送ったので鉄山と浦上の連合軍の前に城主側はやむなく姫路城を捨て八島の飯森山城に避難し、姫路城は青山鉄山の手に落ちてしまった。

得意になった鉄山は慰労の宴を開いて家宝の十枚揃いの皿を出して接待し、宴が終わるとお菊に命じて皿を片付けさせたが皿が一枚無くなっていたのである。

実は、かねてからお菊に懸惣して言い寄っては拒絶されてきた町坪弾四郎が仕返しに一枚を隠してしまったのだった。

鉄山は、お菊に対して疑念をもっていた事もあり、家宝の皿を無くした事も重なって激怒してお菊を手打ちにしようとしたが、そこへ弾四郎が言葉巧みに鉄山をなだめるとお菊の身柄を引き受け、自分の屋敷の裏庭の松の木に縛り付け言いなりになるように折檻して責め立てた。

しかし、お菊は拒否して応じないのでとうとう切り殺して井戸の中へ投げ込んだのだった。

やがて夜になると井戸の中から「一枚、二枚」と皿を数えるお菊の声が聞こえてくる怪異が起こるようになり、世間では皿屋敷と呼ばれるようになったと言う。

その後、姫路城を追われていた小寺則職らは他の援軍を得る事ができると反撃に転じとうとう鉄山らから姫路城を奪い返すと、鉄山一味が逃げ込んだ青山城をも責め立てて青山鉄山らを打ち負かして成敗したのだった。

しかし、捕らわれた町坪弾四郎は隠し持っていた皿の一枚を出して赦しを請うたが赦されず、その後に身を隠していたお菊の二人の妹が出てきてお菊の仇討ちを願い出た。

仇討ちの願いは許されて、妹たちは見事に町坪弾四郎を討ちお菊の怨みを晴らしたのだった。

また小寺家ではお菊の忠義を讃えて城外の十二所神社の境内に祠を建ててお菊神社(三菊大明神)として祀ったと言う。


これが姫路城に伝わる皿屋敷の伝説だそうだが、史実と違う所や矛盾も多く、また謀反や仇討ちなど話を創られた部分もかなりあると思われる。

また、姫路には他にも違った皿屋敷伝説を伝える地域もあり、そちらの方が一般に知られている皿屋敷の話に近かったりもするのである。


他に、姫路を中心に語られる話にお菊の怨念がお菊虫と言う虫になったと言う話もある。

お菊虫と呼ばれたのは、実はジャコウアゲハの蛹の事で、これはその姿が後手に縛られたように見えるかららしい。。

寛政7年には、播磨国・姫路城下に、この後ろ手に縛られた女性のような姿をした虫の蛹が大発生し、城下の人々は「昔、姫路城で殺されたお菊の幽霊が、虫の姿を借りてこの世に帰ってきているのだ」と噂したという。

この事から蛹はお菊虫と呼ばれたそうで、兵庫県姫路市ではジャコウアゲハを市の蝶に指定していると言う。

ちなみに戦前まではお菊虫を姫路城の天守やお菊神社でも売っていたそうである。



始めに書いたように他にも皿屋敷については各地に伝説が語られ、中にはすでに流布している伝説が大きく影響していて話を変えられたり創られたりしている物も多い。

主な要素として


主人の皿を過って割った。

嫌がらせで皿を隠されて濡れ衣を着せられた。

主人と愛する関係にあり、気持ちを試すために皿をわざと割った、あるいは隠した。

主人に言い寄られていたが、夫あるいは恋人(三平)がいるので拒否して逆恨みされていた。

折檻されて、斬り殺され井戸に捨てられた。

折檻から逃げ出して自ら井戸へ身を投げた。

皿を割った責任から井戸や川へ身を投げた。

事件後に主人の家は祟りで滅んだり死に絶えた。


などなどの事例が形を変えたり合わさったりして伝説として語られたりしているようだ。

ただ、これだけ全国に類似の伝説があると言うのは、後世の創作や変更はあったとしても、奉公に出た娘が粗相などにより折檻されたり処罰されたりする事件は、各地で多く起こっており、それを核にして皿屋敷の伝説として語られるようになったのではないだろうか。

弱い立場の者が権力者へ復讐するには亡霊となって祟るくらいしか無かったのかも知れない。