佃島のルーツ
佃島と言うと東京の佃島や佃煮を思い浮かばれる人も多いと思うが、実はそのルーツとも言える地は大阪にあるのである。

阪神電車の「千船」駅から降りた土地には「佃」と呼ばれる地名があり、この佃が佃島のルーツになるそうだ。

佃と言う名は、もともとは「作り田」から転化したもので領主直営の農地を意味する言葉だと言う。

江戸時代に、この付近は西成郡佃村と言う地域であったそうで、その時代に、あの徳川家康との関わりが出来たのだそうだ。

天正14年(1586年)のこと、まだ羽柴秀吉が天下を平定しつつあった時代である。

徳川家康は住吉大社に参拝したあとに、兵庫県の多田神社に向かおうとしていた。

しかし、あいにく神崎川に渡し舟が無く困っているところへ、佃村と隣の大和田村の漁民が船を出して家康一行を対岸まで無事に送り届けたのである。

家康は、この事に感謝し、その後は佃村の漁民たちを優遇するようになり、また漁民たちもその後の大阪夏の陣や冬の陣では、戦に使う船や食べ物を調達して協力したと言う。

秀吉が健在であった天正18年(1590年)。

徳川家康は江戸に入府することになり、江戸湾の監視と江戸湾の漁業のために、佃村から三十名余りの漁民を江戸へ移し、江戸湾の干潟に住まわせたのである。

漁民達は干潟を整備し、島を作って、その島を自分たちの故郷の村にちなんで「佃島」と名付けたと言う。

そして、江戸湾の漁業権を得た漁民たちは、江戸城に魚を届けると供に、日本橋で魚を売る事にもなっていく、これが日本橋魚河岸の始まりだそうだ。

また、余った小魚を生醤油で煮込んだのが「佃煮」であり、保存食として重宝されるようになっていくのである。

そういう経緯で、やがて江戸の佃島は、重要かつ有名になっていくのであるが、そのルーツは大阪の佃村なのである。

千船駅から北東の佃町には「田蓑神社」と言う神社があり、その境内には、その地と佃島との関わりを示す「佃漁民ゆかりの地」と言う石碑が建てられており、佃島の由来と関わりが記されている。

また境内社として、家康を祭る東照宮の社もあるのも、この地と徳川家康との関わりを示しているのだろう。

徳川家康を介して、東京の佃島と大阪の佃が繋がっているのも面白いと思う。


ちなみに、大阪の佃町と東京の佃島は交流を深めていると言う。