小倉餡
「小倉餡」と言えば、小豆の粒が残されたまま作られる餡子の事で、つぶ餡とも呼ばれて和菓子には欠かせないものとなっている。

その小倉餡の発祥の地が京都の嵯峨野だと言われている。

嵯峨野にある「二尊院」は、小倉山の東麓に位置し、本尊に釈迦如来と阿弥陀如来の二尊を祀るために二尊院と呼ばれている。

小倉山といえば、有名な小倉百人一首の所縁の場所でもあり、藤原定家が百人一首の元となる色紙を作成したとされる時雨亭は、この二尊院の境内にあったとされ、今もその跡地が残されている。

その二尊院の境内に、近年になって「小倉餡発祥之地」の石碑が建てられた。

この二尊院や小倉山付近の地域が小倉餡の発祥地であり、小倉の地名から小倉餡と名づけられたと言う。

伝承によると、日本で始めて小豆と砂糖で餡が炊かれたのは、平安京ができて間もなくの嵯峨天皇の時世で、弘仁11年(820年)頃の事だそうである。

当時、京のこの付近の小倉の里に煎餅を作っている「和三郎」と言う人がいたそうだ。

しかし、この当時の煎餅は、小麦粉を油で焼いたり揚げたりしたものだったと言う。

さて、弘法大師・空海が遣唐使で唐に渡っていたおりに、順宋帝に唐の「煎餅」を賜わり、その味に感激した空海がこの製法を持ち帰り、山城国小倉の里の住人の和三郎に伝えたそうだ。

その和三郎は、その製法に基づいて「亀の子煎餅」と言う名の煎餅を作り、嵯峨天皇に献上して大いに名をあげたと言う。

そして、空海が中国から持ち帰った小豆の種子を栽培し、それに御所から下賜された砂糖を加え、煮詰めて餡を作りあげた、これが小倉餡の始まりとなる。

和三郎は、これを毎年御所に献上したそうである。

ちなみに、漉し餡は小豆などを茹でた物を漉し、それに砂糖を加えて煮詰めて餡にしたものである。

こうした菓子は、極めて高価で珍しい物であり、一般庶民の口には入らなかったが、この和三郎の努力で京都を中心に小豆が広く栽培され、江戸時代には茶道の菓子となり、また一方では祝飯としてハレの料理にも加えられるようになっていった。

京菓子の技術は日本の和菓子の源流となっていったとも考えられる。

ちなみに、砂糖が庶民の口に幾分なりとも入るようになるのは、徳川八代将軍の吉宗が糖業を奨励したことにより普及をみたと言われている。

しかし、一般的な調味料として使われ始めたのは明治末期頃からだそうだ。

さて、その和三郎は承和7年2月2日(840年)に亡くなりましたが、その子孫並びに諸国同業の人々が、その功績をたたえて小倉中字愛宕の「ダイショウ」の里に一社を建て朝廷の認可を得て、屋号が「亀屋和泉」であったので「和泉明神」として祀られるようになった。

その後、年月を経て明神の社は兵火に焼かれ子孫も絶えて、只、古老の伝承として小倉の地に和泉明神の社があったと伝えられてきたが、近年になって八ツ橋で知られる井筒屋八ツ橋本舗の六代目津田左兵衛等の尽力により、二尊院の境内に小倉餡発祥之地の石碑とモニュメントが建てられたそうである。

また、同じ嵯峨野の落柿舎近くの畑にも同様の意味の立て札が立てられている。

日本の和菓子の歴史に空海が大きく関わっているのも面白いし、それを苦労して開花させた和三郎も日本の和菓子のパイオニアと言っていい存在ではなかろうか。

普段から和菓子好きで京都に行くと和菓子を買っている私にとっては、空海も和三郎も恩人のような人かも知れない。