菖蒲の節供
五月五日は男の子の節供、端午の節供として知られている。

もともとは、「馬(午)の月」である五月が邪気を祓う月と考えられてきた中国の風習が日本に伝えられ、最初は田植えの時期と重ねられた農耕儀式であったらしいが、やがて転じて男児の成長を祝う節供として発展して来たと言う。

端午の節供には菖蒲が活けられる事が多いが、軒先に菖蒲や蓬を挿したり菖蒲湯に入る習慣もある。

これは季節の花を愛でる意味よりも、悪いものを取り除く縁起物として菖蒲を見立てていると言い、菖蒲の葉のように香りの強い植物には、古くから魔除けの力があると考えられていたからだそうだ。

本来、端午とは初めに書いたように月の初めの午の日を指す言葉だと言う。

古来中国では北斗七星が真北を指し示す十一月を「子の月」と定めたところから、五月は「牛の月」と言い、邪気を祓う月と考えられて来た。

この風習が日本に伝わったのだが、日本ではこの時期が旧暦では田植えを始める大切な時期でもあり、農耕儀礼として行われるようになったのだった。

つまり、米を収穫するのも神様の恵みであり、その神迎えをして秋の実り多い収穫を祈ったのが端午の節供だったそうだ。

端午の節供では、早乙女(さおとめ)と言う田植えをする女性は神迎えをするために穢れから遠ざけるために「女の家」と言うところに斎篭りしたと言う。

斎篭りをして神を迎え、その時期から田植えを始めるのであるが、その斎篭りの折に魔除けの力があると言われる菖蒲の葉を女の家の周りにつけて、早乙女達を守ったのである。

そうした女性を守るための節供であった端午の節供であったのであるが、女性が篭るために残された男性だけでお祝いすることもあり、徐々に中世の頃から男の子の祭へと変わって行ったようだ。

また、菖蒲の意味合いも、その葉を魔除けとしてつける事で女性をまもっていたものが、いつしか「菖蒲が尚武(武を尊ぶ)に通じる」ことから男性の武を競うものとして男性の節供に欠かせない縁起物へと変化して行ったとも言われている。

京都の伏見区にある「藤森神社」は菖蒲の節供の発祥地と言われている。

毎年5月5日に行われる藤森祭は菖蒲の節句発祥の祭と言われ、各家々に飾られる武者人形には藤森の神が宿るとされている。

また菖蒲は尚武に通じ、尚武は勝負に通じるので、勝運を呼ぶ神として信仰を集めていると言う。