沖田総司命日
5月30日は、新撰組の沖田総司の命日(慶応4年1868年5月30日、享年26歳)なので、新撰組墓所の光縁寺さんへお参りしたのですが、緊急事態宣言のために入れませんでした。

光縁寺さんには山南敬助さんのお墓があるので有名ですが、その山南さんのお墓の隣にある小さな墓石の横に「沖田氏縁者」と書かれています。

沖田総司は、病気のために新撰組を離れて東京で療養していて亡くなったので、お墓も東京にあります。

それで、光縁寺の墓石の沖田氏縁者がいろいろ推測されています。
恋人説や医者の娘説など言われていますが、よく言われるのが山南敬助さんの恋人の明里だと言う話です。

新撰組の総長だった山南さんは隊士からも慕われていて、沖田とも親しかったそうです。

その山南さんが新撰組から抜けた時に追手に選ばれたのが沖田でした。

それも沖田1人に追手を任されたので、実は本気で追うつもりは無かったとか、沖田なら上手く逃がすと考えてとか諸説ありますし、本気で追うなら数人で行かせますよね。

しかし、山南さんは大津に居て沖田と会って新撰組に連れ戻されました。

処遇について揉めたそうですが、やはり隊規により切腹となり、沖田が介錯を勤めます。

その時に、後に残される恋人の明里の事を沖田に託したのではないかと言われています。

明里は、山南さんが切腹した翌年には亡くなったそうで、沖田は自分の縁者として、山南さんのお墓の隣に明里も弔ったのでないかと言われています。

山南さんのファンとしては、この話が納得出来て好きなんですね。
光縁寺さんには入れないので門前から手を合わせました。