頭塔
奈良のピラミッドとも言われる「頭塔」と言う史跡があります。


頭塔は奈良時代の史跡で、段々を重ねたような構造でピラミッドのような感じです。

発掘前は円墳のような小山に木が生えた森のような感じで木々の間から石仏が見えていて「頭塔の森」と呼ばれていました。

昭和61年から発掘がはじまって、土の中から石積みの石段が現れてきたそうです。

伝説では、頭塔は奈良時代の僧で興福寺所縁の玄ボウ(漢字表記不可)の頭を埋めたとのも言われています。

僧の玄ボウは奈良時代の興福寺所縁の僧(興福寺宝物館に木像あり)で、吉備真備らと供に遣唐使の一員として唐へ渡り20年近く過ごした後に一切経の経文(興福寺へ奉納)や仏像などを持ち帰りました。

その後、文武天皇の皇后である宮子が気の病であるのを玄ボウが指導して快方に向かい、宮子の姉である聖武天皇の光明皇后などの信任を得ました。

しかし、あまりに皇室と深く結びついたために宮子や光明皇后との関係が噂されるようになったのでした。

そういう中で大宰府に就かされていた藤原広嗣が、吉備真備と玄昉の罪と追放を訴えて九州で兵をあげたのでした、いわゆる広嗣の乱です。

しかし、広嗣軍は徐々に脱落者が増え敗色が濃くなると五島列島付近まで敗走してきましたが、広嗣と弟の綱手は捕らえられて唐津付近で斬首されてしまいました。

その後、僧玄ボウは広嗣に指弾されて乱の元となったこともあり、財産や役職も取り上げられて、筑紫へ左遷されてしまいます。

そして玄ボウは、筑紫の地で筑紫観音寺の落成法要の導師を務めているときに、広嗣は悪霊となって現れると弦ボウを掴むと天空に舞い上がり、玄ボウの身体はバラバラにされて落ちてきました。

胴体などはその場に落ちたのですが、頭は奈良の興福寺の庭に落ちてきたと言われています。

その玄ボウの頭を埋めたのが頭塔だと言われていたのです。

調査の結果、本来は土塔(どとう)と言うのが頭塔(ずとう)へと変化したのだと言われています。

頭塔の土の中には三段の土塔があり、これは孝謙天皇が母の光明皇后の病気平癒を祈願して造営したものとされています。

しかし造営がずさんで崩れてきたために東大寺の僧の「実忠」が塔身を崩して補正し、七段の姿に作り変えたのだそうです。

また、頭塔の石段には石仏が彫られており、1段目には5体、3段目には3体、5段目が5体、7段目には1体の石仏が彫られていましたが風化で損傷も激しくなっています。

現在は石仏の上には屋根が付けられていますが、これは当時の物の様子が不明なので劣化防止の便宜上に作られてるみたいです。

石仏の屋根の紋や石仏の様子には、東大寺の影響が大きく出ているのは東大寺の実忠が造営したからでしょうね。

もしかすると立体的な曼荼羅のような感じだったのかも知れないですね。

石仏は現在は28体が確認されていますが、そのうちの22体が重要文化財に指定されています。

今でこそ、民家に囲まれてぽつんとある感じですが、古代においてはピラミッドのように周囲から目立った存在だったのではなかったかと想像できますね。