待賢門院
京都の花園にある法金剛院と待賢門院御陵へお参りして来ました。

法金剛院は待賢門院こと藤原璋子は、法金剛院と所縁が深く晩年を過ごされました、また御陵は法金剛院の裏手にあります。

白河法皇には祇園女御という一番のお気に入りの愛人がいましたが、祇園女御は、ある女子を養子にしていました。

この子が後に待賢門院(たいけんもんいん)と呼ばれる、権大納言の藤原公実の子、璋子(しょうし・たまこ)でした。

その子は非常に美しく、白河法皇は文字どおり目に入れても痛くないほど可愛がっていましたが、やがて璋子が少女に育つうち、ついに白河法皇と璋子は男女の関係に発展してしまいます。

いくら性におおらかな平安時代でも親子間(たとえ養子でも)の恋愛は御法度でした。

後ろめたさを覚えた法皇は、璋子を自分の実孫の15才の鳥羽天皇と結婚させますが、この結婚は、あまり上手くいきませんでした。

しばらくすると璋子と法皇は、また逢瀬を重ねるようになり、やがて二人の間に、後の崇徳天皇が生まれます。

この時より璋子は待賢門院と名乗るようになります。

崇徳天皇が生まれた頃から鳥羽天皇と璋子の仲も良くなりはじめ、鳥羽天皇の間に後の後白河天皇も生まれます。

しかし崇徳天皇は、正式には鳥羽天皇の皇子と言う事になるものの、実際には白河法皇と璋子との間の子供と噂されるようになります。

それを裏づけるように、白河法皇は、この男の子を溺愛し、鳥羽天皇を退位させると、まだ5歳のこの皇子を天皇に即位させたのでした、そして崇徳天皇となります。

崇徳天皇も白河法皇が健在の頃は良かったですが、やがて法皇が崩御されて、鳥羽上皇が院政を引くようになると冷遇されるようになります。

鳥羽上皇も、崇徳天皇が我が子と言う事になってはいても、祖父である白河法皇と、妻の待賢門院の子供である事は知っていたのではないかと言われています。

やがて、崇徳天皇は父の鳥羽上皇によって退位させられ、代わって鳥羽上皇の寵愛する「美福門院」の産んだ子である近衛天皇が即位する事になります。

その後、退位により上皇となった崇徳上皇は、母である待賢門院と鳥羽上皇との間にできた「後白河天皇」の時に「保元の乱」を起こして敗れ、讃岐に流されることになるのでした。

待賢門院は、自分が産んだ子である崇徳天皇と御白河天皇が争う事をどういう気持ちでいたのでしょうか。

やがて敗れた崇徳天皇は讃岐に流されて悲憤のうちに亡くなりました。

波乱の人生を過ごした待賢門院は、法金剛院での静かな余生を過ごしていろいろ思う事があったのかも知れないですね。

~長からむ心も知らず黒髪の、乱れて今朝はものをこそ思え~