幽霊絵馬
寺町通りを丸太町通りから下がって行った所に「革堂」(こうどう)と通称される行願寺がある。

ここは、開祖の行円上人が、俗世の頃に鹿を射て殺した事を悔いて仏門に入り、つねに鹿皮の着物を着ていたので、皮聖とか革上人と呼ばれたので革堂と通称されるようになったそうだ。

この革堂は西国三十三所巡礼の札所でもあり、昔から訪れる巡礼も多い。

幕末の頃、この近くに質屋さんがあり、お文と言う十歳の娘が親許から離れて子守りとして奉公していた。

お文は、子供を背負っては革堂に来ていたので、いつの頃からか巡礼の唱える御詠歌を覚えて口ずさむようになっていた。

ところが、質屋の主人は強欲非道で近所でも評判が悪い男で、お文が口ずさむ御詠歌が気に入らない。

何度も御詠歌を止めるようにお文に言いつけていたが、お文も習慣になっているので、つい口ずさんでしまうことがある。

ある日も、お文は子守りをしながら、つい何気なく御詠歌を口ずさんだのを主人に聞かれてしまい、かっとした主人はお文を激しく殴って折檻してしまう。

お文は、打ち所が悪かったのか倒れたままで動かなくなり、主人があわてて介抱したがそのまま息を引き取ってしまう。

主人はまずいことになったと、お文の遺体を納屋の下に埋めて、お文の親許にはお文が行方不明になったと連絡した。

お文の両親は驚いてやってきて、質屋で話を聞いたりしてあちこちと娘の行方を探したが見つからない。

困り果てた両親は、お文がよく来ていたと言う革堂に篭もって娘の無事を願っていたが、ある夜に両親の枕もとにお文の亡霊があらわれてこれまでのいきさつと主人に殺されて埋められた事を告げた。

嘆く両親に、お文は母親からもらって大切にしていた手鏡を残して消えていった。

両親は、手鏡を証拠として奉行所に訴えでると、奉行所でもいろいろと調べた結果、お文が納屋に埋められているのを見つけ出して質屋の主人を捕まえた。

両親は、お文の遺骸を手厚く葬ると、お文の幽霊の姿を描いた絵馬と、遺品の手鏡を革堂に奉納した。

今でも、革堂には絵馬と手鏡が残されているそうだ。

むかしは、奉公人にとって主人は絶対であり勤めている者にとって辛く哀しい話は他にもいくつでも残されているのだろう。

今でも、お文の絵馬は本堂の十一面観音の横の方にひっそりと収められているそうで、杉板に手鏡をはめ込まれていると言う。

絵馬に描かれたお文の姿は今では輪郭もつかめないくらいになってしまったそうであるが、お盆には幽霊絵馬供養が行われ毎年公開されていると聞く。