五山の送り火
京都でお盆の行事と言えば「五山の送り火」が有名である。

よく「大文字焼き」と言われるが「大文字の送り火」言うのが正しくて、「大文字」の他にも「左大文字」「妙法」「舟形」「鳥居形」の五つが、京都を囲む五つの山で送り火を焚かれる事から五山の送り火と言うのが正式な呼び名である。

送り火と言われるようにお盆の先祖供養の意味を持つ行事で、お盆に帰ってこられた精霊をお見送りする意味を持つものである。

五山を東から紹介していくと

「大」(右大文字)は東山の如意ヶ嶽にある大文字山。

「妙法」は妙と法の二つの文字で、「妙」は松ヶ崎の西山(万灯籠山)、「法」は松ヶ崎の東山(大黒天山)。

「舟形」は西賀茂の明見山。

「大」(左大文字)は西部にある金閣寺の近くの大北山。

「鳥居形」は北嵯峨鳥居本の水尾山(曼荼羅山)。

の五山であり、五つを全て見えるところは市内南側の高い建物が良いそうである。

昔には五山の他にも「い」(市原野)、「一」(鳴滝)、「竹の先に鈴」(西山)、「蛇」(北嵯峨)、「長刀」(観空寺村)などの送り火もあったが、明治や大正に途絶えて行ったそうだ。

その中でも、「大文字の送り火」と言われるくらいに「大」の送り火が有名である。

五山の送り火それぞれに発祥のいわれがあるようで、その起源も諸説がありはっきりとはしないそうである。

その「大」の字の由来についての伝説が幾つかあるのだが、それを紹介したいと思う。

京都の左京区にある「銀閣寺」は有名な観光名所であるが、その門前の北側に「浄土院」と言うお寺がある、「大文字寺」と通称されているお寺である。

平安初期の話だが、 この大文字山の麓に浄土寺と言うお寺があった。

「説1」浄土寺の御本尊の阿弥陀如来像が光明を発しておられるのを通りがかった弘法大師・空海が見つけて、空海はこの光明を未来に残して人々の極楽往生の機縁にしようと思い立ち、「大」の一字に封じこめて、山の峰に十丈四方の筆跡を残したという。

「説2」その浄土寺が大火に見舞われた事があり、その折に御本尊の阿弥陀如来が山上に飛翔して光明を放ったと言い、この光明を真似て実施していた火を用いる儀式を「弘法大師」が大の字形に改めた。

「説3」室町中期の延徳元年(1489年)に、「足利義政」が近江の合戦で死亡した実子であり将軍でもあった「足利義尚」の冥福を祈るために家臣に命じ始めた言い、「大」の字は山の斜面に白布を添え付けて、その様子を銀閣寺から相国寺の僧侶である横川景三が眺め定めた。

「説4」江戸初期に本阿弥光悦、松花堂昭乗とともに当代の3筆といわれた能書家である「近衛信尹」(このえのぶただ)が創設したそうで、寛文2年(1662年)に刊行された「案内者」に「大文字は三みやく院殿(近衛信尹)の筆画にて」との記述があるそうである。

このように「大」の字、一つの由来に関しても平安時代から江戸時代まで諸説があってはっきりしないのである。

大文字寺と言われる浄土院は、浄土院の前身の浄土寺が天台宗の大寺院だったが、数度の火災や戦火に見舞われた後に文明14年(1482年)に足利義政が東山殿(現在の銀閣寺)を造営するに折に、相国寺の西に移転したそうだ。

跡に残った草堂を泰誉上人が浄土宗に改めて浄土院と名付け再興され、享保17年(1732年)には随誉上人により堂宇を整備されたそうだが現在の伽藍は昭和の再建だと言う。

大文字寺と言われるのも大文字の送り火の世話を行って深く関わっているためだと言う。


その他の送り火についても、その起源を簡単に述べると

「妙法」:「妙」は鎌倉時代末期に日蓮宗の僧・日像が妙の字を書き点火したのが起源ともされ、「法」は近世初期に始まったと伝えられる。

「舟形」:西方寺の開祖である慈覚大師が847年の唐留学の帰路に暴風雨にあったが、南無阿弥陀仏を唱えて無事帰国できたことから、その船を型どって送り火を始めたとも伝えられる。

「左大文字」:前述の1662年刊行の「案内者」にも左大文字の記述はないことから、大文字、妙法、船形の3山より遅れて登場したと考えられ、大の字に一を加えて「天」とした時代もあったそうだ。

「鳥居形」:弘法大師が石仏千体を刻み、その開眼供養を営んだ時に点火されたとも伝えられ、鳥居の形から愛宕神社との関係も考えられてるそうである。

五山の送り火は午後8時に右の「大」の字が点火されてから、「妙法」「舟形」「左大文字」と西に向かって5分おきに点火されていき、最後の「鳥居形」が午後8時20分に点火され、それぞれ約30分の間、燃え続けることになっている。

「大」の字を水を入れた杯に映して飲むと健康になるとも言われているようだが、精霊送りの意味を持つ荘厳な儀式で、京都の三大祭である「葵祭」「祇園祭」「時代祭」に五山の送り火を加えて、京都四大行事と称することもあるようだ。


追記として、送り火についてあれこれ問題となっているので、実際の送り火の運営について、少し書きたいと思う。

送り火の、実際の運営にあたっているのは、各送り火ごとに保存会があり、昔からそれぞれの地域の人たちで、労力、費用ともその地域の人たちだけの努力で続けられてきたそうだ。

最近になって「大文字五山送り火協賛会」が京都府、京都市、文化財保護財団、観光業者の構成で結成され、行事をバックアップする体制が出来てきたのである。

今では京都市と市民に密着した行事でありすでに書いたように、葵祭、祇園祭、時代祭と並び、四大行事となっており、行事全体が無形民俗登録文化財に指定されていると言う。


さて、五山の送り火がどのようにして点火されるのか、東山如意ヶ嶽の大文字の場合、毎年春先になると大文字山頂の松林を伐採して、送り火に使う薪(まき)が作られる。

この護摩木と呼ばれるその薪は、神聖なもので大切に各家で保管されるのである。

もしこの薪を粗末にあつかったり、送り火以外に使ったら、その家に不幸があると伝えられてもいて、また当夜、自分の担当している火床の燃え方が悪かったり、火の付きがよくないと、やはり家に良くないことが起こるとも考えられているそうだ。

薪は如意ヶ嶽では送り火の当日にケーブルで山にあげられるが、他の四山では人力で上げられていて労力は大変なものであろう。

大文字で使用する薪は600束、松葉100束、麦わら100束が使われるそうだ。

それを大谷石で出来た火床に薪を井桁に組み、その間に松葉を入れ、その廻りを麦わらで囲み火の勢いを強くすると言う。

点火は一軒で二つの火床を担当して、松明(たいまつ)の合図で、一斉に点火される。

当日は地元の消防署員と、京都市からも職員が山に上がり立ち会い、保存会の人たちは火が完全に消えるのを確認してから、山を下りるので山を下りるのは10時以降になるのだそうだ。

このように、一連の行事は夏の暑い中での仕事で、大変な労力を必要としているのである。


また、過去には大文字の点火中止騒ぎもあったのである。

火床修理に少しの補助金しか出さない京都市への不満、残り火の管理責任が問題になった時に送り火を「たき火」あつかいした市消防局、ホテルの屋上などでお金を取って送り火をショー的なイベントとしかとらえていない観光業界などなど、保存会の人たちの感情を逆撫でするような問題などがあり、点火中止騒ぎに成ったことがある。

この問題が新聞で大きく報道されると「大文字の火を消さないで」と市民からは続々と寄付金が寄せられ、あれだけの大行事をほとんど地元負担でしていた事実、また送り火の意義を世間が再認識する事件でもあったと言えるだろう。

こうして、保存会、関係箇所等の努力により五山の送り火は現在まで絶えることなく続けられているのである。


さて、送り火の当日、午前中に大文字は銀閣寺山門前で、左大文字は金閣寺境内で、鳥居形は地元の鳥居本の土産物店等で保存会が、護摩木の志納(300円)を受け付けている。

護摩木には願い事を書いて保存会に託され、その護摩木は送り火として焚かれるので、様々な思いのこもった送り火と言う事になるのであろう。


五山の送り火は、様々な思いの篭ったお盆の行事であり、ご先祖の精霊が穏やかにお送りできるように祈りたいと思う。