畜生塚
京都の瑞泉寺さんへお参りして来ました。

瑞泉寺さんは、豊臣秀次と一族を弔うお寺とされています。

豊臣秀次は、豊臣秀吉の姉の子で、当時は子がいなかった秀吉にとって養子として後継ぎにしたのです。

秀次は、秀吉の後継ぎとして関白の位になり聚楽第に住んだとなっています。

しかし、秀吉と淀君の間に秀頼が産まれると、秀吉としては秀頼にすべてを継がせたくなりました。

さまざまな諸説があるのですが、秀次は謀反の疑いや悪逆な行為があったとして、高野山で監禁の後に切腹させられたのです。

それだけではなく、秀次の家臣なども罪に問われました。

また、秀次の一族を根絶やしにするかのように、子女や妻や側室など三十名以上が京都の三条河原で処刑され、遺体は側に掘られた穴へ投げ捨てられました。

さらに、遺体を投げ捨てた穴を埋めて土を盛り大きな塚にすると、秀次の首を石櫃に入れてさらし、「畜生塚」としたそうです。

武将の最上義光の娘の駒姫は美貌の少女でしたが、秀次に見初められて、何度も断ったが断り切れずに、15歳で側室にと京都に着いた時期に秀次が切腹させられました。

京都に来ただけで、まだ秀次にも会っていないし、側室に決まったわけでもないのですが、処刑を申し付けられました。

父の最上義光や周囲の人々もあまりにかわいそうと助命を嘆願しましたが、間に合わずに同じく三条河原で処刑されたのでした。

駒姫の母も、後に後を追ってか亡くなったそうです。

そういう事から秀吉は反感や怒りをかい、後の関ヶ原の戦いでの徳川方に多くの武将がついた要因でもあったとも言われています。

その後、角倉了以により、畜生塚のあった場所に、瑞泉寺を建立して、豊臣秀次と処刑された子女などを弔うお寺としたそうです。

境内には、塚にあった秀次の首の石櫃が祀られて、一族の墓も祀られています。

また、本堂前には豊臣秀次の姿を書いた御朱印が書き置きで置かれており、いただく事が出来ます。