長岡天神
京都の長岡京市を通っている阪急電車京都線、その「長岡天神」駅の西側に駅の名前の元となった「長岡天満宮」通称を長岡天神と言う神社がある。

天満宮であるから菅原道真を祀る神社であるのだが、境内の「八条ヶ池」を渡る参道の両側には霧島ツツジが植えてあり、春になると霧島ツツジが満開となり真っ赤な参道になることで知られるツツジの名所でもある。

宇多天皇の信任も篤く、右大臣の地位にあった「菅原道真」が筑紫の太宰府に左遷されたのは延喜元年(901年)であった。

道真は、藤原一門を抑える人物として期待も高かっただけに、突然の左遷は平安京での衝撃も大きかったようだ。

左大臣の「藤原時平」の讒言だったとも言われており、都の人々にも同情の声があがっていた。

人々の菅原道真を惜しむ声は、都だけでなく近辺にも広がり、長岡にも道真の左遷の話しが伝わってきた。

その頃、長岡の「乙訓寺」に付属する長岡精舎の坊官に、「中小路宗則」「西小路祐仲」「東小路祐房」の三人の人物がいた。

この三人は、いずれも日頃から道真の人柄に深く惹かれて崇拝していたので、ただちに都に上ると、大宰府の配所まで道真の供をする事を願い出た。

こうして道真は、供を許された三人を連れて都を離れたが、長岡まで来るとだんだんと遠のいていく平安の都を思い、惜別の切なさに思わず涙ぐんでしまった。

三人の供をする者も、道真の心中を思うとその労しさに涙ぐみ、嗚咽がもれるのを堪えるばかりだった。

その道真と供の三人の周囲には「榊」が生えており、その榊の枝の青さがいっそうの悲しみを誘ったと言う。

やがて菅原道真は、おもむろに側にあった榊の一枝を折ると

「我の、この身は筑紫におもむくとも心はこの地に留まるべし。その証しに、この榊の枝はこの地に長く栄えるだろう」

そう言って折った榊の枝を地面に突きさした。

その榊の枝は、道真の言葉通りに成長し葉が生え茂るようになるのだが、この逸話から現在でも「長岡天満宮」の境内には榊が植えられて葉を実らせ花を咲かせている。

さて、道真らが筑紫の太宰府に着いたあとも、宗則ら三人は、道真の側に仕えてかいがいしく世話を続けていた。

この三人の道真に対する忠信は、道真にもありがたくて深く感謝させたのだが、一方では、自分はもう都に呼び戻されることはあるまいし、このままでは私と共に将来ある若者三人を筑紫の田舎で埋もれさせてしまうと思ってしまうのである。

こういう思いが募り、やがて意を決した道真は、ある日三人を呼び出すと、心を鬼にして都へ帰るように申し渡したのだった。

三人は、道真が自分たちを思って言っている事は察したが、

「私たちは、道真様のお側に仕えるだけで満足なのです、どうかこのままお側に仕えさせてくださいませ」

と言い、この地に留まることを願ったのだが、道真の決意は固く、三人の願いにも関わらず道真の気持ちは変わらなかった。

こうして道真の決意を変えられずに、やむなく三人は、大宰府を去る決意をしたのだが、道真は自身の姿を自ら彫った一寸八分(6センチ程度)の木像を三人に贈って名残を惜しんだと言う。

三人と道真は別れを惜しみつつも、やがて別れの時となり、三人は後ろ髪を引かれる思いで大宰府を後にして長岡へと帰り、そして元居た長岡精舎に戻って行った。

それから約二年が過ぎた後の延喜三年(903年)、菅原道真が太宰府の配所で寂しく世を去ったとの話が三人の元に届いた。

それを聞いた宗則ら三人は、道真から戴いた木像を御神霊として長岡精舎に祀ったのである。

これが、後の「長岡天満宮」の謂れであり、長岡天神として地元はもとより、広く信仰を集めることになったと言う。

また長岡の地は、菅原道真が生前に「在原業平」らと共に、 しばしば遊んで詩歌管弦を楽しんだ縁深い場所であるとも言われている。

なお、長岡天満宮は皇室の信仰も仰いでおり寄進や造営を受けて、寛永15年(1638年)には八条宮智仁親王によって「八条が池」が築造されて始めに書いたように霧島ツツジが植えられて花の季節には多くの参拝者や観光客で賑わう事になっている。