櫟谷七野神社
久しぶりに京都の「櫟谷七野神社」(いちいだにななのじんじゃ) へ行ってきました。

この地は平安時代から鎌倉時代にかけて賀茂社に奉仕する斎内親王とされた斎王が身を清めて住まわれた御所(斎院)のあった場所であり、このあたりが紫野と呼ばれていたため、「紫野斎院」とも称された場所でした。。

かつて斎院の敷地は、大宮通りと慮山寺通りを東南の角としており、約百五十メートル四方の広大な地をを占めていたそうです。

斎王は嵯峨天皇皇女の有智子(うちこ)内親王を初代とし、累代の未婚の皇女が卜定されて、約400年続き後鳥羽天皇の皇女の第三十五代礼子(いやこ)内親王をもって廃絶したそうです。


この地域で皇后の安産祈願で春日大社を勧進した事があり、その春日大社御鎮座の場所が山城国葛野郡(かどのぐん)櫟谷(いちいだに)であったそうです。

当時は櫟の森を谷川が流れており、また社名の「七野」とは、もと船岡山麓一帯にあった原野で、紫野・禁野・柏野・北野・平野・蓮台野・内野(神野・神明野・萩野・御栗栖野)の事でこれら七野の惣社として祀られたと伝えらています。

伊勢神宮の斎院に準じて設けられた紫野斎院が廃絶された時、その屋敷神を七神祀った社だったと言う説もあります。


この神社では、夫婦の縁戻しや浮気封じで密かに知られています。

その祈願の由来は、59代宇多天皇の皇后が離れてしまった天皇の愛を復活させてほしいと祈ったのだそうです。

そして、「社前の白い砂を三笠山の形に積み祈願せよ」とのお告げを得てその通りに砂山を作り祈った所、天皇の愛情が戻ったのだそうです。

それ以来、社前に白砂を積めば浮気封じや愛の復活の願いが叶うといわれ、社前 に積む砂も「高砂山」と呼ばれる様になり、密かな信仰を集めています。

その後、応仁・文明の戦乱時代にこの七野あたりは細川勝元と山名完全が相対峙する戦場と化したため、社頭は殆ど灰燼に帰したのを、大内義興の台命あって永正9年に七野各社を高台の一所に集めて再興がはかられたのだそうです。


今でも、浮気封じや愛の縁戻しで祈願される事も多いようで本殿の前には白い石が小山のように積まれています。

浮気封じとかは独特の祈願方法があるみたいで、神社からいただいたお守りは自分が身に着けて神砂は浮気相手の家の庭に撒いたりとかするみたいです。

祈願がプライベートな事なので祈願者の事や内容とかは秘密になるように配慮されてるみたいです。