軒端の梅
今日は久しぶりに京都の「東北院」に「軒端の梅」を見に行ってきた。

京都の左京区浄土寺真如町、真如堂の前の道を北のほうに歩き、突き当りの道を西の方に少し行くと「東北院」と言う小さなお寺がある。

この東北院は、かつて関白の藤原道長の「法成寺」の東北のいちにあるから「東北院」と名付けられたとか言う、一条天皇の中宮で上東門院こと藤原彰子の住まいだったそうだ。

また、このお寺のお堂には藤原彰子に仕えていた「和泉式部」も住んでいたと伝えられている。

和泉式部と言えば、いろいろな伝説が残っているが、、和泉守橘道貞や藤原保昌などと結婚し、冷泉院の皇子為尊・敦道の寵愛を受けるなど、様々な愛に生きた話が残されている。

また、娘の小式部内侍も百人一首に歌を残すほどの才女でもあった。

その式部が残したと梅の木と言われているのが「軒端の梅」であり、とても愛して大切にしていたと言われている。

軒端の梅と言われる梅の木は他にも「清涼寺」などにもあるようだが、謡曲の「東北」に歌われているのは、この東北院の梅の木だそうだ。


謡曲の「東北」によると、和泉式部が世を去って何年かが過ぎた時、一人の旅の僧がこの東北院を訪れた。

僧は、旅の途中で和泉式部を懐かしく思い、式部がの暮らした「東北院」を訪ねて、彼女が愛した軒端の梅をぜひ見たいと思ってここまで来たのだった。

僧は、式部を偲んで読経をしていると、いつしか夜になり辺りが暗闇に包まれると、どこからともなく式部の亡霊が現れた。

僧は目の前に式部が現れて驚いたが、式部の姿は生前と変わらぬ美しさで、黒髪は豊かで口の紅は露を含んで濡れたように艶やかだ。

式部の霊は僧に向かって、若き日の日々をこまごまと語って偲び、僧はただ懐かしく黙って頷いて聞いているだけだったそうだ。

今でも、軒端の梅は春になると白く美しい梅の花を咲かせ続けている。


おまけに、娘の小式部内侍(こしきぶのないし)の伝説も一つ。

彼女も母親の才能を受けついたのか優れた歌人でもあったようで、少女の頃から和歌を詠んだりしていた。

これは、母の和泉式部が夫と共に丹後に赴いていた頃のお話だが、宮中で歌会があり、小式部内侍も歌人に選ばれて出席していた。

当時、若い小式部内侍が優れた歌を詠むのはきっと母親の和泉式部がこっそり歌を教えているのだろうと陰口をたたく者もいたようで、その中の一人、中納言定頼が宮中の局にやってきて小式部内侍が歌を考えているのを見てこう言った。

「歌はどうなさいましたか、お母さんに代作してもらために、丹後に人を遣わしたのでしょう。早く遣いが帰ってこないと歌が出来ないので心配でしょうね」

など皮肉に言ったのを聞いて、小式部内侍が即座に歌を詠んだのが百人一首にも入っている、あの歌だった。

「大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立」

(大江山を越えて行き、生野を通って行く道が遠いので、まだ丹後の天の橋立は踏んでみたこともなく、丹後の母からの文も見ていません)

このように、即座に反撃の歌を詠んだ小式部内侍に定頼は返す歌も詠まずその場を逃げ出したとか。

小式部内侍の利発さを物語る逸話である。



久しぶりに訪れた東北院で、いにしえの物語を伝える梅の木に触れて素敵な時間を過ごせたよ。