鳴虎
お正月の元日に初詣のついでに、堀川寺之内にある報恩寺に鳴虎の掛け軸を見に行って来た。

報恩寺は、人形の寺として知られる宝鏡寺や茶道の今日庵や不審庵の近くであり、このお寺にはつかずの鐘の伝説があり、私も何度か訪れているお寺でもある。

それほど大きくないお寺であるが、由緒のあるお寺であり多くの寺宝も持っている。

寺伝によると室町時代に一条高倉に開創したとあり、法園寺または法音寺という天台・浄土兼学の寺であったが、文亀元年(1501年)に後柏原天皇の勅命で慶譽(きょうよ)が堀川今出川の舟橋の地に再興し、浄土宗報恩寺と改めたとある。

さて、報恩寺が鳴虎と通称されるのは初めに書いたように鳴虎図と言う大軸物に由来する。

後柏原天皇より下賜されたものだそうで、中国の仁智殿四明陶佾が宣によって描いたものと言われ、虎が谷川の水を飲んでいる姿を描いたもので、背後に松が描かれて二羽のカササギが止まっている。

中国の東北の山岳地帯の様子かと思われ宋から明代の作だそうであるが筆者についての仔細は不明のようだ。

この虎の絵は見る方向によって見え方が変わって見え、向かって右から見ると虎のお尻や後ろ足とか小さく見えて、こちらに向かっているように見える。

逆に、向かって左から見ると虎の横から見ているように見えてくるのである。

この虎の軸物が鳴虎図と呼ばれるには、あの豊臣秀吉が関わっているのだそうだ。

当時、秀吉はひんぱんに報恩寺を訪れていたが、虎の図が気に入って聚楽第でゆっくり見たいからと強引に借りて帰り、聚楽第の床に掛けて楽しんでいた。

しかし、夜になると掛け軸の虎が吠えるので秀吉は眠れなくなり、

「これは鳴き虎じゃ、すぐに寺に返せ」

と言い、翌朝早々に寺に返却されたそうだ。

それを由来として、この虎の図が鳴虎図と呼ばれ、それが寺の通称にもなったのである。

しかし、秀吉にはこういう逸話が多く、石仏とかも無理やり持って帰ったが、異変がおきて返してくるのが他の伝説にも残っている。

この鳴虎の図は、傷まないようにと普段は非公開とされており(このお寺自体が観光寺院ではないので、普段は本堂には入れない)、寅年のお正月の三が日のみ、他の寺宝とともに有料(心持)で公開され見ることができるのである。

つまり、今年のお正月を見逃すと、次は基本的に12年後の寅年の三が日まで見ることができないので貴重なのだ。

やはり、そういう貴重な機会だからか私が見に行った時も、次々と人が訪れて鳴虎図を鑑賞していった。

ちなみに、今回の鳴虎図が展示されていた本堂の客殿は、武将として有名な黒田長政が死去した部屋でもあると言う。


また、このお寺には先に書いたようにつかずの鐘と呼ばれる鐘が鐘楼に吊られている。

このつかずの鐘には以前に京都伝説巡りでも取り上げたが、哀しい伝説が残されている。


江戸時代、西陣に近いため、お寺の近くに古い織屋があった。

店には十五歳の丁稚と十三歳の織女が働いていたが、二人はなぜか仲が悪く、顔を合わすとけんかするなどいがみあっていた。

ある時、二人は報恩寺の夕方の鐘の数をめぐって口論になった。

鳴らす鐘の数が織女は「九つ」、丁稚は「八つ」と主張し、お互いが譲らずに賭けることとなり、そして間違った方が何でもすると約束した。

年上で悪知恵のはたらく丁稚がこっそり店を抜けて念のために寺男に問うと、正解は織女のいうように「九つ」だと言う。

このままでは負けてしまうので、丁稚は「今日だけは数を八つにしてほしい」と頼みこみ、事情を知らない寺男は気軽に引き受けた。

その日の夕方、鐘の数を数えていたところ、九つ目が鳴らない。

「それみろ」と丁稚から、さんざん悪口を浴びせられた織女は悔しさのあまり、鐘楼に帯をかけ首をつって亡くなってしまう。

それ以来、夕方になると鐘の周囲に恨めしげな表情の織女の霊が現れるようになり、お寺も鐘を突くのをやめ、代々、「つかずの鐘」として伝わってきたという。

今でも、除夜の鐘でしかつかれないそうだ。

かつて、織女と丁稚の話を再現ドラマにと、テレビ番組で撮影を頼まれ、特別に鐘を突くのを許したことがある。

しかし、織女役の女優が鐘楼の梁(はり)にぶら下がろうとしたところ、ささくれた木が手に刺さったというエピソードもある。

そう言った伝説のある鐘であるが、本来は国の重要文化財にも指定されている梵鐘で、平安時代後期の製作で足利幕府で執権であった畠山持国が陣鐘に用いたとも伝わっている。

とにかく、鳴虎の貴重な掛け軸も見れたし、他の寺宝も貴重な物ばかりで、大満足できた私だった。