2004年02月の記事


エースをねらえ
 今週はタフな毎日だったから、今日はゆっくりと朝寝をするつもりだった。昨晩、確定申告の計算をしていて、遅くなったことでもあったし。

 八時過ぎ、携帯が鳴った。誰からだろう、ひょっとしてあの子からかなと受信ボタンを押した。寝ぼけまなこからいっぺんに目が覚めた。野暮な男からの電話だった。明日雨みたいだから、今からゴルフに行こうと誘ってきたのだ。

 デートの誘いは断れるくせに、休日のゴルフの誘いは断れない。布団から這い出るようにして起きて、朝食をとってから身支度を整えた。どうも疲れがひどく残っている。念のため、ヤフー天気予報で確かめてみると、明日は午前中少し雨が残るものの、気温は今日より高く、午後からは晴れとなっているではないか。

 車を運転しているあいだも頭がぼけていた。ゴルフ場へ向かう道中、調子が悪そうな予感がした。いやな予感はもうひとつあって、フルバックからのラウンドであるような気がした。そして、たぶん握りで負けるような・・・。

 その予感は全部当たっていた。出だしからトリプルボギーではじまり、タボ、ボギ、ボギーと続いた。ようやく五番、六番でパーが続きどうにか格好がついてきたときだった。ラッキーセブン、七番ホールのパー3、155ヤードのショートホールへやってきた。

 かなりのアゲンストの風が吹いていた。そこで持ったクラブは7番アイアン、芯で捉えたボールは高く舞い上がった。ピンフラッグめがけて真っ直ぐに飛んでいった。カップの三十センチ手前に落ちたボールは、ワンバウンドでピンに当たり、そのままカップに吸い込まれていった。イーグルだ。エースだ。やったぁ、ホール・イン・ワンだ!

 「今日はハーフでやめて、有馬温泉へ繰り出そう! 一人十万で三十万円くらい使わなあかんで」 電話してきたやつの声である。

 「うわぁ、うれしい!」 キャディーさんの悲鳴である。

 しばし呆然として、黙して語らずはミラクルショットをした男である。残念ながらぼくではない。ぼくはこのホール・イン・ワンのおかげで、握りの負けが近年にない数字に膨らんでいた。ぼくは唖然としていた。そして、徐々にうらやましさがこみあげてきた。

 「悪いんやけど、内緒にしといてくれへんかな。保険入ってないんや。キャディーさん、マスター室には黙っといて。あんたにだけは祝儀渡すから・・・」

 「あかん、あかん。三十万くらい、ぱっと使わんと。終わってから有馬温泉や。おれら、ゴルフ始めて二十年になるけど、いっぺんも経験したことないんや。こんなときにお祝いせんとどないするんや」 同級生だけあってなかなか口をふさがない。

 よくよく考えると、ホール・イン・ワン保険を掛け出して10年になる。クラブの修理や傷害のほうで十二分に元はとっているが、エースの経験は一度もない。他人のホール・イン・ワンを見るのはこれで二度目だ。惜しいやつは5〜6度あった。ミドルホールでのイーグルはなんどかあった。このごろは下手くそになって、グリーンに乗せることすらままならない。

 天気最高、スコア最悪の一日だった。エースの彼は仕事が残っているからと早々に退散した。後日二人をどこかのゴルフ場へ招くからと言い残して。よくビジターで日曜日につきあってくれる彼に、散財はさせたくない。辞退するつもりだ。

 明日の朝、空が晴れてたら、倶楽部へ電話して、メンバース・タイムの中へ入れてもらって、一人でいいから今日のリベンジを果たそう。これからは、ショートホールでは、いつもエースをねらっていこう。じゃないと、永遠にホール・イン・ワンを達成できないままお骨になってしまう。

 自分のワンショットで、自分の目で白球を追いながら、カップ・インするのを見届けてみたい。自分だけの中でいい、大歓声に祝福され、うっとりとなってみたい、とても。もし、ホール・イン・ワンできたなら、全財産とまではいわないけど、100万円くらいなら振る舞ってもいい。叶えることが可能な夢、それがエースだ!
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J-POP
 ミュージックコレクション、レコード、カセットテープ、CD、MDといろいろある。その中でどれがいちばん多いかといえば、カセットテープだ。レコードからダビングしたのものとCDからのものとがある。音質はやはりCDからのほうが断然いい。ノイズがほとんどない。レコードだけはアナログのコンポがいかれてしまって、ぴいぴいがあがあとやかましくて聴けなくなっている。

 一昔まえごろ、1980年代後半から1990年前半のものだと思う。よくコンサートに行っていた時分のもの。気まぐれにいろいろ引っぱり出してきて、BGMがわりに流している。このコンポだとオフにしない限りエンドレスだ。だから、飽きると入れ替える。静寂がほしくなると音を止める。

 竹内まりあ、ドリカム、アン・ルイス、J−WALK,チャゲ&飛鳥、杏里、久保田利信、辛島美登里、沢田知可子、小田和正、渡辺美里、大黒摩季、小比類巻かほるetc。この時代の洋楽はほとんどない。洋楽は、二昔まえのたいていレコードのダビング物で、レコード同様傷んでいる。高温の車の中でテープがのびたりしている。

 小比類巻かほるをよく聴いている。たぶん、ダビングだけして聴いていなかったものだ。そんなものが邦楽には案外多い。で、これがけっこう聴けるのだ。大黒摩季とまちがうくらい、パワーのあるいい声をしている。なつかしいのとはちがう、過去の発見とでも云おうか、いまふうにいうならソウルフルなDIVAだ。

 小比類巻かほる 試聴
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児童長選挙
 振り返っても馴染みのない言葉だ。あのころ、そんなものが存在していたのかどうか定かではない。

 一週間前、風呂の中で子供が話していた。

 「来週、児童長の選挙があるねん。それにな、D君が立候補してるんや」

 D君と息子とは仲がいい。去年、四年生のとき町内に越してきて、よく遊ぶようになった。が、D君はいわゆる悪ガキだった。少々太めながら体格もよろしく、ぐれていて、ませてもいた。よくチクルやつを殴っては、更年期障害丸出しの女教諭に、ヒステリックに叱られ殴られた。「くそばばあ!」と反抗することもしばしばだった。

 五年生になってから、ちと襟を正し、それなりに真面目に勉強をするようになった。うちに遊びにきたとき、ぼくには礼儀正しい少年だ。担任が変わると児童も変わる。四年間息子と同じクラスが続いていて、五年生の担任は、奇しくもぼくの高校の二年後輩で、人気のかわいこちゃんだった。

 話が逸れた。児童長の選挙である。体育館で立会演説会なるものがあり、応援演説も合わせてあるという。小学生といえどもなかなかに本格的だ。さてさて、D君がどれだけの弁を振るえたのか、息子いうにはけっこうよかったということだった。

 で、今日が投票日だった。即日開票の結果、D君は4票差で惜しくも当選ならず、U子ちゃんが児童長に選ばれた。よくよく聞いてみると、立候補したのは5人だった。そのうち、女子児童はU子ちゃんただ一人、男子児童が4人も出ていた。それじゃ、いくらがんばっても勝てるわけがない。総裁選挙のように過半数をとれなければ、上位二名で決選投票というルールでもあれば別だったろうが。

 D君の戦いは、試合に勝って勝負に敗れたとでもいえる善戦だった。今度遊びにきたらうまいものでもおごってやろう。悪ガキ転じて、児童長に立候補し、清々しい敗戦をしたことを褒めてつかわそう。大人の世界なら、勝つために邪魔者を排除する。談合をして、票のとれそうにないものに断念させる。小学生ならではの選挙戦だった。学歴詐称もありはしないし、根回しなるものも存在しない。ただただ純粋に抱負を語り、結果をやすやすと受けいれる。

 息子たちはまっすぐに少年時代を生きているんだ。
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春便り
 ぽかぽか日和だった。午後の紅茶、マグカップを片手に、休憩時間に花壇を見にいった。ビオラやパンジー、デイジーの蕾がふくらみかけていた。チューリップやヒヤシンスの芽が出ていた。スノードロップだけがその花を終えかけていた。

 マルチのつもりで敷いているバーク堆肥の上から、たくさん雑草が生えていた。春の草は見かけよりかなり根が深い。早めに除草しておかないと面倒になる。毎日少しずつ引いていこうと、今日はいちばん日当たりがよい面の草を引いた。

 マグカップの中身を飲み乾して、赤煉瓦の上に置いた。ふ〜っと息をして中腰になる。茎から千切れないように、しっかりと掴んで根から引っこ抜く。矢継ぎ早にやっていると、抜いた草の中に見馴れた花の苗があった。やわらかな土の表面を目を凝らして見てみると、去年や一昨年に咲いていた花の芽がたくさん出ていた。こぼれ種がまた芽を吹いていた。ほんわかな気持ちになった。

 花菱草、アイスランドポピー、紫花菜、スィート・アリッサム、それにもちろんパンジーとビオラ、デイジー。整列して植えているから、これらをこのままにしていくと、花壇のバランスが崩れてしまう。かといって、引き抜いてしまうには忍びない。だから、草引きにはとても気を使った。選り分けるのがたいへんだった。

 あれ、梅の花が満開だった。垣根の花梨の陰になってしまった小さな梅の木の、枝じゅういっぱいにうす桃色の花が咲いている。もうすぐ春だ。垣根越しに女性の声が聞こえた。「また今年もきれいな花が咲きますね」

 無粋な電話の声とともに午後の紅茶の時間は終わる。今週いっぱいは梅の花は散らないだろう。明日また午後の紅茶を飲んで、草引きをして、声がかかるだろうか。そんなひそかな楽しみを見出しながら、今日の記を終えるのである。
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青の炎
高校の放課後の美術室。
ひとり少女が絵を描いている。
少年が入ってくる。

「何描いてんだ?」

「君の三十年後」

「四十七歳だ。きっと中年のおっさんになってるな。おなかが出てて、禿げてるかもしれない」

「足が臭いかも・・・」

その絵はその少年のままの青い絵だ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「好きなものをノートに書いていくの」

「好きなものがなかったら?」

「じゃあ、嫌いなものを書いていって、燃しちゃうの」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

俺の好きなもの、ロードレーサー、かあさんの手料理、妹のふくれっつら、君の・・・、トム・ウェイツの声、ジダンのドリブル・・・。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

昨夜遅く録りおきのビデオを見ていた。

ぼくはあのころより体重が五キロ増えていて、ウェストが六センチ広がっている。髪に少し白いものが混じっている。あのときの少女は某男性と結婚し、一児をもうけている(関係ない)。少年時代殺意を抱いた経験はない。が、今なら多少は理解できる。
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実は
 映画を見た帰りの車の中でのこと。息子は思いのほか早く映画を見に行けたので、おもしろかったのでご機嫌だ。かみさんが、ラストシーンで涙が流れてしかたがなかったといった。それで少々心中穏やかでなくなった。かつてはなけなしの金で、ささやかなデートとして、いっしょに映画を見て、胸いっぱいになったではなかったか。

 なんだか取り残されたような気になった。取り繕うように「ふ〜ん」と頷いてみせた。すると、さらにいけなくなった。「おとうさんは毎日忙しいから疲れているもんね」と息子にいいきかせる。居眠りしてたことを知っていたのである。

 スケールの大きい映画だった。でも、ぼくはあの妖怪、スメルジャコフが気色悪くてたまらなかった。あいつが出てくるたび、あいつがしゃべるたび、サムよ早くやっちまえ、消してしまえと思ったのだ。いや、スメアゴルだった。今子供に聞いてきた。すぐに名前をまちがえてしまう。スメルジャコフなんてやつは、ドストエフスキーの小説に出てくる癲癇もちの悪魔だ。悔しいが、20年以上前のことをまだ覚えている。

 近頃、懐古趣味なるものが芽生えたのかもしれない。で、今さっき、アマゾンで巷説百物語、続巷説百物語を注文したところ。あしたかあさって、ペリカン便で着くだろう。あほっ、それをいうなら怪奇趣味だ。
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後巷説百物語
 一陣の風が吹いた。
 ――御行 奉為(おんぎょうしたてまつる)
 と鈴が、りんと鳴った。

 この行(くだり)がなんともいえないのでございます。小股潜りの又一が織りなす、綺譚、怪談七変化。語り手、作者の分身山岡百介一白翁の小気味よさに惹きこまれて候。これぞ読み物小説。憂いを忘れて楽しめること楽しめること。怖くはありませんよ。御伽噺のようなものですからね。舌先三寸口八丁、世に不思議なし、世凡(すべ)て不思議ありでございます。ご一読いただくとほんとうにうれしゅうございます。


 「恵比寿像の顔が赤くなるときは、恐ろしい災厄が襲う」明治十年、一等巡査長の矢作剣之進は、ある島の珍奇な伝説の真偽をめぐり、友人らと言い争いになる。議論に収拾はつかず、ついに一同は、解を求め、東京のはずれに庵を結ぶ隠居老人を訪ねることにした。

 本書に収められた綺譚は、上記の「赤えいの魚」、御行の又市が代官に斬られてその首が炎の怪と化す「天火」、放蕩息子が一家の守り塚に七十年も前に封印されていた蛇にかみ殺される「手負蛇」、神隠しにあった娘が子連れで発見されたが娘は子供の父親を人間業ではない怪力の持ち主だと言いはる「山男」、青鷺のロマンあふれる「五位の光」など。そして、最後が百物語のフィナーレを飾る「風の神」、語り部山岡百介が、小股潜りの又一のつもりになった最初にして最後の仕掛けが功を奏す。

 とりわけ「赤えいの魚」「天火」のニ作は圧巻のあやかし絵巻といえよう。
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欲しいもの
自由自在にボールを打ち分けられる技術がほしい。
トッププロのように歩数で測ったようにその距離を打てるほどじゃなくていい。
飛距離だって今のままでかまわない。

ダフったり、トップしたり、
フックしたりスライスしたりしなければよい。
クラブの番手のままの距離が出、まっすぐに飛んでいって欲しい。

たいしてないけど、ぼくはたぶん小金持ちだ。
ありきたりなものなら買おうと思えば何でも買える。
だけど、あんまり物質的な欲しいものはない。
満たされているからだと思われるかもしれない。
けれど、今着ているセーターは十五年も前に買ったもので
そんな時代のものを交互に着たりしている。
ソフトスーツだけは野暮ったく感じられてきて、
とりわけダブルのものは着ないようにしている。

欲しいものは手に入れられないものだ。
きっとなにもかも。
ぼくの持っているお金で買えるものなどたかが知れている。
お金でたとえ買えたにしろ、それにはたぶん飽きてしまうだろう。
強く欲するものはたいてい空想の中のものだ。

年々過去が多くなってくる。
あしたになると、きょうはきのうになり
過去の仲間入りをする。
あさってもしあさっても同じことだ。
人生を半分以上生きてくると、
過去というものが一年前も十年前も二十年前も同じように位置づけられる。
遠い記憶も最近の記憶も同列に並んでしまう。
そして、瑞々しい鮮烈な印象を持ったものが真っ先に浮かぶようになる。

あのころという言葉がよく出るようになると人は年をとっている。
それは自分が生きているという証しなのだけれど、
過去ばかりを顧みる自分をふがいないと思ったりもする。

ひとそれぞれに未来を志向するものと、過去に回帰するものとがある。
洋々とした未来へ飛んで行きたいと望むこと、
なつかしいあの時代へ戻ってみたいと願うこと。

ぼくのほんとうに欲しいものはなんだろう?
健康だとか海辺の別荘だとかそんなものじゃなく。
窮屈だが、買おうと思えばメルセデスくらいは買える。
でも、とりたてて欲しくはない。

束の間、束の間の歓びを自由自在に味わえたなら、
過去に戻って、あのときのことをこうしていたなら、
分不相応になり始めた若い女性と恋に落ちることができたなら・・・、
ううむ、切実な欲しいものとはどう考えてみてもよくわからない。

たぶん、永遠に確かに欲しいものなどぼくには存在しないのだろう。
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ホビット庄
 散財してきた。ゴルフクラブのウッド(セイコー・S−YARD)二本と安野光雅の額入りの版画「スペイン広場」、バーバリー・ブラック・レェーベルのブラックジャケット、ニューヨーカーのカラーシャツ。そして、「ロード・オブ・ザ・リング」を観てきた。映画は前売り券で、その他の支払いはクレジットカードだから、いくら使ったのかよくはわからない。ほんのたまにこんなことがある。ストレスがたまりきったときだ。

 帰りの道中では息子の映画の解説をしてもらった。解説というよりは、自分に辻褄が合わないところ、初め居眠りしていたためストーリーがよくわからない部分を確かめていた。どうも最近のファンタジックな続編物は苦手だ。すぐに忘れてしまうのである。が、あんな映画に逐一理屈づけをしていてもはじまらない。楽しめるか楽しめないか、それだけのことだ。それにしても、なんでかしら、激闘シーンでは去年の年末のマトリックスとオーバーラップしてしまうのである。

 娘からメールが入っている。今日の週末ホビット庄へ行ってきたと。北半球と南半球、同時に同じところを見ていたとは奇遇である。
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8303
 本日、5年前破綻した旧長銀が新生銀行となって東京証券取引所に再上場をした。公募価格525円に対して、872円の初値がついた。

 思えば金融危機の真っ只中、政府は8兆円の金融支援を行って、長銀の不良債権処理を進めた。買収先には米リップルウッド社など外資に決まり、およそ1.200億円で売却された。実質4兆円足らずの公的資金が使われ、国民一人当たり4万円の税金が投入されたことになる。ルップルウッド社はおよそ5年間の再建で、今回の上場により9.000億円の利益を得るという。そして、そのキャピタルゲインについて、国内での課税はできないという。ふざけた話だ。日銀が購入して、再上場の利益を国家に還元すればよいではないかと素人目には思える。が、旧態依然とした役人、公僕たちには無理なのだ。つぶれかかった場所で、冷徹にドライに金融ビジネスができるのは外人だけだ。日本人は守りに重きをおく。その守りが崩れたとき、とうに道しるべは失っていたのだ。

 一体全体、公的資金なるものの総額はどれくらいになるのであろうか? 国民一人当たりに換算すると、どれほどの搾取がなされたのであろうか? 散財といってもよい。返却できない借金かもしれない。

 不良債権処理とは、かたをつけてなんぼの世界だ。適正価格の2割引や3割引じゃない。5割引でも半額でもない。買ってくれる相手の言値であるといってもよい。米金融機関ゴールドマンサックスは、いつの間にか二番目の日本のゴルフ場所有者になった。100億円ほどもかけて作られたゴルフ場が、たった5億円ほどで売却されているからだ。ゴルフ場はバブル時の不良債権の象徴、株は値をもどしつつあるが、ゴルフの会員権の下落はとどまるところを知らない。5.000万円がたったの50万円などはざらである。ローンを払いきらぬうちにゴルフ場が倒産して、いまだローンの支払いを強いられている御仁だってあるのだ。金融列島乗っ取りへの警鐘は、本日の8303なのかもしれない。
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京極夏彦がおもしろい。
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疑わしきは
 1996年、大阪府堺市のO157集団食中毒事件で、旧厚生省に原因食材であるかのように公表され、信用を失墜させられたとして羽曳野市のカイワレ生産業「南野農園」の経営者が国を相手取って起していた損害賠償請求訴訟の控訴審判決が19日、大阪高裁であった。

 一審では国側敗訴、二審でも敗訴だった。中田昭孝裁判長は「十分な科学的根拠がないのに、厚相(当時)らはカイワレ大根が原因食材であることが確定的であるかのような印象を与える公表をしており、違法」として、国に600万円の賠償を命じた2002年3月の1審大阪地裁判決を支持し、国の控訴を棄却した。

 ときの与党の厚生大臣は、現民主党代表、菅直人である。あの事件では、我々が新聞やテレビのニュースだけでも「なぜ、カイワレが犯人だ?」とその証拠の信憑性を訝ったものだ。事件の性質はちがうが、松本サリン事件の河野さん逮捕のレベルに似ていた。疑わしきは罰せずと法にある。寝耳に水のような物証なるものを突きつけられて、犯人に仕立てられるということは、社会で生きる人間にとってどのような意味をなすのだろうか。

 誹謗中傷はむろんのこと、これまで築いてきた事業、社会的地位などはすべてが無に化す。当時はカイワレブームで、設備増強にかなりの借金をしていて、倒産の危機すら生じたと聞く。絶望に襲われ、生きていくことすら苦しくなったときがあるかもしれない。マスコミに報道されるたび、どれほどの辛酸をなめてきたことだろう。ある面、この事件も冤罪といえる。

 国会で小泉首相と対峙する菅直人の謝罪の弁を聞いたことがない。古賀潤一郎ごときを辞職させられない民主党代表にはうんざりさせられるばかりだ。
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万年床
 ものぐさである。
 不精である。

 週末から引き続いて、来客の予定がないと万年床になるときがある。デスクの向こうに布団が敷きっぱなしである。一見、見苦しくもあるが、あまり気にもならない。この28畳の白い広い部屋は、ぼくの仕事場であり、居間であり、寝床となっている。

 断っておくが、決してかみさんと仲たがいしているわけではない。はやりの家庭内別居でも断じてない。朝が早いかみさんと夜が遅いぼくとでは一日の生活パターンが違う。で、ここだけの話だが、4年前よりかみさんのいびきが少々大きくなった。ぼくはいびきが嫌いなのである。といって、ぐっすりと眠っているのをやかましいと起すわけにもいかない。愛妻であろうとなかろうと、両方の鼻の穴に濡れティッシュを詰めることや、濡れタオルを顔にかぶせることなどは一介の男子としてできることではない。

 一人寝は寂しかろうと、かみさんのことを心配しないでほしい。同時刻に床に入り、同時刻に起床する小五の息子が吾の代わりを務めてくれている。息子はやわらかくて、いいにおいがして、そばにいるだけでよく眠れるようである。が、断じて甘やかして育ててはいない。息子はマザコンではない。あと一年あまりもすれば中学生であり、快適な寝室からかみさんが追い出されることになっている。さてそれからどうするかと問われても、一年後のことは一年後である。

 ときどき妹の亭主がふらりとやってくる。やってくるのはいいが、平気で布団を踏みつける。広い部屋なのだから、わざわざ布団の上を通らずともよいと思うのだが、ぜんぜん頓着しない。ぼくは不精ではあるが、不潔なのは大嫌いなのである。洗濯したてもしくはまっさらの靴下以外で、吾が身に触れるものの上を歩かれると気色が悪くてたまらない。

 ときどき事務の女性が、こつこつ小さな音でノックしたつもりが、こちとらが気づけず、入ってこられると、どっと寝込みを襲われたような居心地の悪い気分になる。何食わぬ顔で応対するのであるが、みっともなさはやはり残る。

 寒いのが悪いのだと、ものぐさを季節のせいにする。起き掛けに布団を上げないで、朝食をとり、パソコンをオンにし、即仕事にかかるからついほったらかしになる。どうせ夜また敷くのだからと、面倒くさくなる。ときおり予期せぬ来客があっても玄関で応対を済ますことがある。相手は上がりたがっているのにとりつく島を与えられない。

 明日はかならず布団を上げよう。あさっても・・・、しあさっての土曜日が問題だ。一時間は長く寝る。日曜日はゴルフで、朝が早くて布団を上げる間もない。さて、軽い布団一枚で寝られる夏が早いことくるといい。いくら無精者でもそれなら起き掛けに右手一本で済ませられる。
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策に弄される
策を弄して、策に弄され、再々ドジを踏んでしまった。
このうえなくふてくされている。
こんなにも裏目裏目と出ることもめずらしい。
これまでの経験則と英断とで行ったつもりなのだが・・・。

ドジな夜は不貞寝で済ますしかしかたがないようだ。。
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地球儀
 とっても古い地球儀を見ている。アフリカのほとんどが欧州各国の植民地のものだ。独立国はエジプトとモロッコ、アルジェリアぐらい。南アフリカは独立していたが、少数白色人種の最も劣悪な差別国家だった。

 けれど日付変更線は変わってはいない。北はベーリング海峡から、オホーツク海にかけてくの字に折れ曲がり、それから太平洋をまっすぐに下りてくる。現サモア辺りが入り組んでいて、変なかたどられかたをしているが、現トンガ、フィジー辺りからは南極まで一直線だ。

 トンガが最も一日の早い国、サモアがいちばん遅い国になる。ベーリング海峡で向かい合った二つの大国を除けばの話だが。トンガの南南西ニュージーランドの北島に娘がいる。ホームステイで語学留学に行っているのだ。広い空間、太平洋の只中にぽつりとあるこれら南洋の島々、国々を見ていると、うっとうしい世界のニュースなど全然関係がないようにみえてしまう。広々として、途方もない優雅さだなと思えてくる。娘は毎日水平線を眺めながらどんなことを考えているのだろう? コンポからは陽水のCDが流れている。

 冷たい部屋の世界地図
http://big.freett.com/nabefusa/sekaitizu.rm
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サラリーマン川柳の悲哀
 本日、第一生命保険が昨年12月に募集した「サラリーマン川柳コンクール」の入選作、100句を発表した。閉塞感ただよう時代を反映し、今回もサラリーマンの悲哀がにじむ秀作がそろったようである。そんな句に合致する友人たちがいるにはいて、笑ってばかりはいられないのだが、言いえて妙、悲喜こもごもの現実から目をそらすわけにはいかない。といったところで切ないねえ。ため息が出るわ!

「妻の声 昔ときめき 今動悸」→「恋仇 譲れば良かった 今の妻」

「無駄省け 言ってた上司 省かれる」=「メール打つ 早さで仕事が なぜ出来ぬ」

 「成果主義 成果挙げない 人が説き」=「給料の 額だけ見れば フレッシュマン」

「『がんばれよ』 ならば下さい がんばる場」=「辞表まで メールで済ます 社の新人」

「効率化 進めた私 送別会」→「リストラで 辞めれる奴(やつ)は 出来る奴」

「父見捨て 子供プレステ 母エステ」→「『オレオレ』と 帰るコールに どちら様?」

「『前向きで』 駐車場にも 励まされ」→「年ごとに テレビも髪も 薄型に」
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文学入門
 十代の終わり、ある大学助教授の家を訪問し、ご夫人の入れてくれた粗茶なるものを飲む間もなく、直ちに読むように命じられたのが太宰治の「魚服記」。ただ、ぼくはその短編小説を読みさえすればいいのだと思った。だから、早々と読んでしまった。が、矢継ぎ早ではないものの、じわじわと真に迫りくるような質問が、ぼくを蹂躙した。あせってはなんども読み返し、額から汗が流れ、心臓がどきどきした。しどろもどろだった。

 あのときの問いを思い出そうと試みる。あまり的を得た返事ができなかったことだけは覚えている。彼の太宰の評論を蔵しているので、それをひも解けば記憶はたぶんよみがえるだろう。が、どうしても思い出してみたい。なにを問われ、どう解釈すべきだったのかを。それがぼくの文学入門だったのだから。


魚服記

 本州の北端の山脈は、ぼんじゅ山脈というのである。せいぜい三四百米(メートル)ほどの丘陵が起伏しているのであるから、ふつうの地図には載っていない。むかし、このへん一帯はひろびろした海であったそうで、義経(よしつね)が家来たちを連れて北へ北へと亡命して行って、はるか蝦夷(えぞ)の土地へ渡ろうとここを船でとおったということである。そのとき、彼等の船が此の山脈へ衝突した。突きあたった跡がいまでも残っている。山脈のまんなかごろのこんもりした小山の中腹にそれがある。約一畝歩(せぶ)ぐらいの赤土の崖(がけ)がそれなのであった。
 小山は馬禿山(まはげやま)と呼ばれている。ふもとの村から崖を眺めるとはしっている馬の姿に似ているからと言うのであるが、事実は老いぼれた人の横顔に似ていた。
 馬禿山はその山の陰の景色がいいから、いっそう此の地方で名高いのである。麓(ふもと)の村は戸数もわずか二三十でほんの寒村であるが、その村はずれを流れている川を二里ばかりさかのぼると馬禿山の裏へ出て、そこには十丈ちかくの滝がしろく落ちている。夏の末から秋にかけて山の木々が非常によく紅葉するし、そんな季節には近辺のまちから遊びに来る人たちで山もすこしにぎわうのであった。滝の下には、ささやかな茶店さえ立つのである。
 ことしの夏の終りごろ、此の滝で死んだ人がある。故意に飛び込んだのではなくて、まったくの過失からであった。植物の採集をしにこの滝へ来た色の白い都の学生である。このあたりには珍らしい羊歯(しだ)類が多くて、そんな採集家がしばしば訪れるのだ。
 滝壺は三方が高い絶壁で、西側の一面だけが狭くひらいて、そこから谷川が岩を噛(か)みつつ流れ出ていた。絶壁は滝のしぶきでいつも濡れていた。羊歯類は此の絶壁のあちこちにも生えていて、滝のとどろきにしじゅうぶるぶるとそよいでいるのであった。
 学生はこの絶壁によじのぼった。ひるすぎのことであったが、初秋の日ざしはまだ絶壁の頂上に明るく残っていた。学生が、絶壁のなかばに到達したとき、足だまりにしていた頭ほどの石ころがもろくも崩れた。崖から剥(は)ぎ取られたようにすっと落ちた。途中で絶壁の老樹の枝にひっかかった。枝が折れた。すさまじい音をたてて淵(ふち)へたたきこまれた。
 滝の附近に居合せた四五人がそれを目撃した。しかし、淵のそばの茶店にいる十五になる女の子が一番はっきりとそれを見た。
 いちど、滝壺ふかく沈められて、それから、すらっと上半身が水面から躍りあがった。眼をつぶって口を小さくあけていた。青色のシャツのところどころが破れて、採集かばんはまだ肩にかかっていた。
 それきりまたぐっと水底へ引きずりこまれたのである。

     二

 春の土用から秋の土用にかけて天気のいい日だと、馬禿山から白い煙の幾筋も昇っているのが、ずいぶん遠くからでも眺められる。この時分の山の木には精気が多くて炭をこさえるのに適しているから、炭を焼く人達も忙しいのである。
 馬禿山には炭焼小屋が十いくつある。滝の傍にもひとつあった。此の小屋は他の小屋と余程はなれて建てられていた。小屋の人がちがう土地のものであったからである。茶店の女の子はその小屋の娘であって、スワという名前である。父親とふたりで年中そこへ寝起しているのであった。
 スワが十三の時、父親は滝壺のわきに丸太とよしずで小さい茶店をこしらえた。ラムネと塩せんべいと水無飴(みずなしあめ)とそのほか二三種の駄菓子をそこへ並べた。
 夏近くなって山へ遊びに来る人がぼつぼつ見え初めるじぶんになると、父親は毎朝その品物を手籠(てかご)へ入れて茶店迄(まで)はこんだ。スワは父親のあとからはだしでぱたぱたついて行った。父親はすぐ炭小屋へ帰ってゆくが、スワは一人いのこって店番するのであった。遊山の人影がちらとでも見えると、やすんで行きせえ、と大声で呼びかけるのだ。父親がそう言えと申しつけたからである。しかし、スワのそんな美しい声も滝の大きな音に消されて、たいていは、客を振りかえさすことさえ出来なかった。一日五十銭と売りあげることがなかったのである。
 黄昏時(たそがれどき)になると父親は炭小屋から、からだ中を真黒にしてスワを迎えに来た。
「なんぼ売れた」
「なんも」
「そだべ、そだべ」
 父親はなんでもなさそうに呟(つぶや)きながら滝を見上げるのだ。それから二人して店の品物をまた手籠へしまい込んで、炭小屋へひきあげる。
 そんな日課が霜のおりるころまでつづくのである。
 スワを茶店にひとり置いても心配はなかった。山に生れた鬼子であるから、岩根を踏みはずしたり滝壺へ吸いこまれたりする気づかいがないのであった。天気が良いとスワは裸身になって滝壺のすぐ近くまで泳いで行った。泳ぎながらも客らしい人を見つけると、あかちゃけた短い髪を元気よくかきあげてから、やすんで行きせえ、と叫んだ。
 雨の日には、茶店の隅でむしろをかぶって昼寝をした。茶店の上には樫(かし)の大木がしげった枝をさしのべていていい雨よけになった。
 つまりそれまでのスワは、どうどうと落ちる滝を眺めては、こんなに沢山水が落ちてはいつかきっとなくなって了(しま)うにちがいない、と期待したり、滝の形はどうしてこういつも同じなのだろう、といぶかしがったりしていたものであった。
 それがこのごろになって、すこし思案ぶかくなったのである。
 滝の形はけっして同じでないということを見つけた。しぶきのはねる模様でも、滝の幅でも、眼まぐるしく変っているのがわかった。果ては、滝は水でない、雲なのだ、ということも知った。滝口から落ちると白くもくもくふくれ上る案配からでもそれと察しられた。だいいち水がこんなにまでしろくなる訳はない、と思ったのである。
 スワはその日もぼんやり滝壺のかたわらに佇(たたず)んでいた。曇った日で秋風が可成りいたくスワの赤い頬を吹きさらしているのだ。
 むかしのことを思い出していたのである。いつか父親がスワを抱いて炭窯(すみがま)の番をしながら語ってくれたが、それは、三郎と八郎というきこりの兄弟があって、弟の八郎が或る日、谷川でやまべというさかなを取って家へ持って来たが、兄の三郎がまだ山からかえらぬうちに、其のさかなをまず一匹焼いてたべた。食ってみるとおいしかった。二匹三匹とたべてもやめられないで、とうとうみんな食ってしまった。そうするとのどが乾いて乾いてたまらなくなった。井戸の水をすっかりのんで了って、村はずれの川端へ走って行って、又水をのんだ。のんでるうちに、体中へぶつぶつと鱗(うろこ)が吹き出た。三郎があとからかけつけた時には、八郎はおそろしい大蛇(だいじゃ)になって川を泳いでいた。八郎やあ、と呼ぶと、川の中から大蛇が涙をこぼして、三郎やあ、とこたえた。兄は堤の上から弟は川の中から、八郎やあ、三郎やあ、と泣き泣き呼び合ったけれど、どうする事も出来なかったのである。
 スワがこの物語を聞いた時には、あわれであわれで父親の炭の粉だらけの指を小さな口におしこんで泣いた。
 スワは追憶からさめて、不審げに眼をぱちぱちさせた。滝がささやくのである。八郎やあ、三郎やあ、八郎やあ。
 父親が絶壁の紅い蔦の葉を掻(か)きわけながら出て来た。
「スワ、なんぼ売れた」
 スワは答えなかった。しぶきにぬれてきらきら光っている鼻先を強くこすった。父親はだまって店を片づけた。
 炭小屋までの三町程の山道を、スワと父親は熊笹を踏みわけつつ歩いた。
「もう店しまうべえ」
 父親は手籠を右手から左手へ持ちかえた。ラムネの瓶がからから鳴った。
「秋土用すぎで山さ来る奴もねえべ」
 日が暮れかけると山は風の音ばかりだった。楢(なら)や樅(もみ)の枯葉が折々みぞれのように二人のからだへ降りかかった。
「お父(ど)」
 スワは父親のうしろから声をかけた。
「おめえ、なにしに生きでるば」
 父親は大きい肩をぎくっとすぼめた。スワのきびしい顔をしげしげ見てから呟いた。
「判らねじゃ」
 スワは手にしていたすすきの葉を噛みさきながら言った。
「くたばった方あ、いいんだに」
 父親は平手をあげた。ぶちのめそうと思ったのである。しかし、もじもじと手をおろした。スワの気が立って来たのをとうから見抜いていたが、それもスワがそろそろ一人前のおんなになったからだな、と考えてそのときは堪忍してやったのであった。
「そだべな、そだべな」
 スワは、そういう父親のかかりくさのない返事が馬鹿くさくて馬鹿くさくて、すすきの葉をべっべっと吐き出しつつ、
「阿呆、阿呆」
 と呶鳴(どな)った

     三

 ぼんが過ぎて茶店をたたんでからスワのいちばんいやな季節がはじまるのである。
 父親はこのころから四五日置きに炭を脊負って村へ売りに出た。人をたのめばいいのだけれど、そうすると十五銭も二十銭も取られてたいしたついえであるから、スワひとりを残してふもとの村へおりて行くのであった。
 スワは空の青くはれた日だとその留守に蕈(きのこ)をさがしに出かけるのである。父親のこさえる炭は一俵で五六銭も儲(もう)けがあればいい方だったし、とてもそれだけではくらせないから、父親はスワに蕈を取らせて村へ持って行くことにしていた。
 なめこというぬらぬらした豆きのこは大変ねだんがよかった。それは羊歯類の密生している腐木へかたまってはえているのだ。スワはそんな苔を眺めるごとに、たった一人のともだちのことを追想した。蕈のいっぱいつまった籠の上へ青い苔をふりまいて、小屋へ持って帰るのが好きであった。
 父親は炭でも蕈でもそれがいい値で売れると、きまって酒くさいいきをしてかえった。たまにはスワへも鏡のついた紙の財布やなにかを買って来て呉れた。
 凩(こがらし)のために朝から山があれて小屋のかけむしろがにぶくゆすられていた日であった。父親は早暁から村へ下りて行ったのである。
 スワは一日じゅう小屋へこもっていた。めずらしくきょうは髪をゆってみたのである。ぐるぐる巻いた髪の根へ、父親の土産の浪模様がついたたけながをむすんだ。それから焚火(たきび)をうんと燃やして父親の帰るのを待った。木々のさわぐ音にまじってけだものの叫び声が幾度もきこえた。
 日が暮れかけて来たのでひとりで夕飯を食った。くろいめしに焼いた味噌をかてて食った。
 夜になると風がやんでしんしんと寒くなった。こんな妙に静かな晩には山できっと不思議が起るのである。天狗(てんぐ)の大木を伐り倒す音がめりめりと聞えたり、小屋の口あたりで、誰かのあずきをとぐ気配がさくさくと耳についたり、遠いところから山人(やまふと)の笑い声がはっきり響いて来たりするのであった。
 父親を待ちわびたスワは、わらぶとん着て炉ばたへ寝てしまった。うとうと眠っていると、ときどきそっと入口のむしろを覗(のぞ)き見するものがあるのだ。山人が覗いているのだ、と思って、じっと眠ったふりをしていた。
 白いもののちらちら入口の土間へ舞いこんで来るのが燃えのこりの焚火のあかりでおぼろに見えた。初雪だ! と夢心地ながらうきうきした。

 疼痛(とうつう)。からだがしびれるほど重かった。ついであのくさい呼吸を聞いた。
「阿呆」
 スワは短く叫んだ。
 ものもわからず外へはしって出た。
 吹雪! それがどっと顔をぶった。思わずめためた坐って了った。みるみる髪も着物ももまっしろになった。
 スワは起きあがって肩であらく息をしながら、むしむし歩き出した。着物が烈風で揉(も)みくちゃにされていた。どこまでも歩いた。
 滝の音がだんだんと大きく聞えて来た。ずんずん歩いた。てのひらで水洟(みずばな)を何度も拭った。ほとんど足の真下で滝の音がした。
 狂い唸(うな)る冬木立の、細いすきまから、
「おど!」
 とひくく言って飛び込んだ。

     四

 気がつくとあたりは薄暗いのだ。滝の轟(とどろ)きが幽(かす)かに感じられた。ずっと頭の上でそれを感じたのである。からだがその響きにつれてゆらゆら動いて、みうちが骨まで冷たかった。
 ははあ水の底だな、とわかると、やたらむしょうにすっきりした。さっぱりした。
 ふと、両脚をのばしたら、すすと前へ音もなく進んだ。鼻がしらがあやうく岸の岩角へぶっつかろうとした。
 大蛇!
 大蛇になってしまったのだと思った。うれしいな、もう小屋へ帰れないのだ、とひとりごとを言って口ひげを大きくうごかした。
 小さな鮒(ふな)であったのである。ただ口をぱくぱくとやって鼻さきの疣(いぼ)をうごめかしただけのことであったのに。
 鮒は滝壺のちかくの淵をあちこちと泳ぎまわった。胸鰭(むなびれ)をぴらぴらさせて水面へ浮んで来たかと思うと、つと尾鰭をつよく振って底深くもぐりこんだ。
 水のなかの小えびを追っかけたり、岸辺の葦(あし)のしげみに隠れて見たり、岩角の苔をすすったりして遊んでいた。
 それから鮒はじっとうごかなくなった。時折、胸鰭をこまかくそよがせるだけである。なにか考えているらしかった。しばらくそうしていた。
 やがてからだをくねらせながらまっすぐに滝壺へむかって行った。たちまち、くるくると木の葉のように吸いこまれた。

 / 太宰治   「青空文庫」より
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春一番
シングルの女性にグロスで負ける。
いくら相手がレディースティからだといっても
こちとら男子だから文句は言えない。

近頃ゴルフをするたびにストレスがたまっている。
10回プレイすれば8回はストレスを感じている。
肉体の健康のためとはいえ、精神衛生上ストレスはかえってよくない。

ストレス防止、上位入賞には、
練習に励むしか仕方がないか。。
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遺稿より
相聞三

また立ちかへる水無月の
歎きを誰にかたるべき。
沙羅のみづ枝に花さけば、
かなしき人の目ぞ見ゆる。

/ 芥川龍之介
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BGM
 メニューのBGMを外して、各コンテンツごとにそれぞれお気に入りのBGMをつけてみた。やかましいと思われるときは、申し訳ないけど、スピーカーのボリュームをおとすか、←戻るをクリックしてほしい。

 ちなみにMain 「ピアノマン」 ビリー・ジョエル、Profile 「ユアーソング」 エンルトン・ジョン、Letters 「サマータイム」 ジャニス・ジョプリン、Drafts 「スカボロフェア」 サイモン&ガーファンクル、Links1 「ティアーズ・イン・ヘブン」 エリック・クラプトン、Links2 「レニングラード」 ビリー・ジョエル、Books 「エナジー・フロー」 坂本龍一、Cinema 「鉄道員」カルロ・ルス、Log 「ブラック・ナイト」 ディープ・パープル、Diary 「ピアノマン」 ビリージョエル、Gallery 「イブニング・フォールス」 エンヤ、Message 「サウンド・オブ・サイレンス」 サイモン&ガーファンクル、Memories 「ユーブ・ゴット・ア・フレンド」 キャロル・キング、My Home 「ノクターン」 ショパン。
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ウィルスメール
 しばらくなりを潜めていた、懲りない面々によるウィルスメールが暗躍している。今回はその種類が多く、毎日のようにNECニュースから注意、警告、対処法が送信されてくる。やはり添付ファイル内蔵型で、日々増殖をしているようである。

 わがメールアドレス@basil.ocn.ne.jp にも、先々週ごろより毎日のようにウィルスメールが送信されてきた。決まって、朝のメールチェックをするときに、ウィルスバスターがその受信と手動削除を告げていた。常に知らないアドレス、送信者からの添付ファイルは開かないようにしているものの、先週の土曜日、知人からのメールにウィルスが発見された。知人のパソコンがウィルスに汚染されていたのである。もちろん読まずに削除をし、その旨電話で連絡をしておいた。

 で、当面のあいだ、アウトルックでは、添付ファイルのあるメールを受信しないことにした。ツールバーでメッセージルールを選び、削除の設定をした。一昨日からのことである。あまり個人的メールは少ないのだけれど、この場を借りてご連絡をさせてもらおう。もし、画像その他、添付ファイルメールを送信いただくときは以下のアドレスまで。プロフィールでの表記のものです。文面だけのときはこれまでどおりで・・・。

yoursong512@hotmail.com
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手紙
 パソコンで物を書く癖がついてしまうと、これまで利用していた手紙というものが実に難しいものになった。文字を間違えて、てにをはを間違えて、文面を書き損じて、何枚便箋を破ったことだろう。手紙に修正液はみっともない。

 辞書をひかずにすらすらと漢字が書けなくなった。コピーや貼り付けなど、都合よく移動ができないから、気に入らないと初めからやり直しになる。かつてにもどって、かのひとへのラブ・レターが書けるだろうか?

 だから、気持ちをこめた手紙が貴重になった。JPG加工などせず、ちゃんと封筒に入れて切手を貼った、インクの匂いのする手紙が・・・。

 でも、ぼくの手紙には宛名がない。
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拝啓
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Memories
バックを変える。
行間設定を行う。
タグは以下の通りでOKだった。



ちなみにガイアックスの行間設定は以下の通り。ダイアリーやBBSのお知らせの欄に貼り付ける。150を増減させることで行間の広さも変わる。ただし、改行の選択でマニュアル改行にチェックを入れる。

右サイドの編集をクリックしてタグを見てください。 だから表面には写らない。
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ヒナゲシ (ケシ科)
 園芸上、ヒナゲシが代表のケシ属の植物は、ヨーロッパ、アジア、アメリカなどに広く分布し、100種くらいある。属名のパパベルは、この種の植物をかむときに生じる音からつけられたものである。ヒナゲシとケシは、人類とのかかわりが深く、古くから栽培されてきた。ケシは麻薬のアヘンが採れるため一般の栽培は禁止されているが、昔は観賞用に栽培され、花も美しく改良されていたので、ボタンゲシの名があった。

 ケシとヒナゲシは中近東の原産であったが、古い時代に東西へ移っていった。移動したのは非常に古く、古代ギリシャでもエジプトでもケシを催眠その他に用いていた。ヒナゲシは小麦とともに広がり、小麦畑の雑草として今日に至っている。これらは唐の時代に中国に入ってきて、ヒナゲシは「虞美人草」とよばれた。垓下(がいか)の戦いで自決した項羽の愛姫、虞美人の血から、この赤い花が生まれたという伝説がある。

 ケシはヨーロッパの近代絵画に出てくる。それを見ると、八重咲きが現れたのは17世紀のこと。そのころ、東アジアでも八重咲き品種が現れている。日本へは中国から渡ってきて、桃山時代から江戸時代にかけて、しばしば絵に描かれた。ことに宗達が描いたケシの屏風絵は有名である。

 ヒナゲシの育種は、ケシよりはるかに遅れ、イギリスのウィルクスが1880年ごろに作出したのが最初で、これがいろいろと改良され、今日に至っている。その仲間でもっともポピュラーなのが、アイスランド・ポピーだ。北アメリカやユーラシアの亜北極原産で、カラフルで花が大きく、花壇のみならず切花にも用いられている。

 「芥子粒のように・・・・・」と、小さいことのたとえに用いられるが、ケシ類の種子は、ベゴニアその他の微小種子と比べて大きく、よく発芽する。露地に直播してもよいが、播種用土、ジフィーポットなどに蒔いて苗を育てると確実である。耐寒性は強く、9月蒔きにして秋または早春に定植する。



リシリヒナゲシ

 日本に自生する唯一のケシ属の種で、北海道の利尻島原産。ケシやヒナゲシとは異なり、葉は根出葉だけで茎につかない。北海道では山草愛好家によって栽培される宿根草である。

 花言葉・・・もろい恋。はかない恋。実らない恋。
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足の指の体操
 足の指が長い。だから、靴のサイズは26.5、身長のわりには少し大きい。甲の低い細くて長い足だ。靴の中の両サイドはちょっと余裕がありすぎる。幅だけであれば24.5のサイズで十分なんだろう。特別に親指が長い。だから、靴下の先がすぐに破れる。

 靴の中の足は全身の体重を受けている。靴だけは安物を選ばず、自分にフィットしたものを持たないと、動く際の疲労度がとてもちがう。で、ぼくの足はこんなだから、自分に合ったウォーキングシューズとゴルフシューズを探すのがなかなか大変である。現在はナイキとアシックスの製品を使っている。

 ぼくには特技がある。両足の指を同時にすべて開くことができるのだ。きのうの風呂上り、かみさんと息子の前でやって見せてやった。二人のあっと驚くこと、どうしても真似ができないこと。親指と人差し指のほうは簡単にできるが、なかなか小指や薬指、中指のほうはいうことをきいてくれない。手の指を使って無理やりどうにか開くといった有様で、右足ができても左足にまでは及ばない。手を離すともとのもくあみ、二人ともじれったそうであった。

 足の指を開く運動は末梢神経の活性化によい、とぼくはふたりに自己理論をのたまわる。たまたま器用にできるだけのことなのであるが、いまだかつて水虫にだけは縁がないのは、自由自在に動かせる指のせいなのだろう。みなさん、一度お試しあれ、ほんとうに末梢神経の運動になる、とぼくは思っている。
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プリムラ (サクラソウ科)
                         さくらそう

     サクラソウ

 サクラソウは、日本から中国東北部にかけて自生する宿根草である。サクラソウとは、「桜」によく似た花を咲かせる「草」という意味。かつて、埼玉県から東京にかけての荒川原野一帯には、江戸時代から昭和の初期にかけて、上流から流れついて繁殖したとみられるサクラソウの大群生地があって、江戸、東京の人々の行楽地として有名であったらしい。前の浦和市の西郊外にある田島ヶ原だけが「サクラソウの原野」として国の天然記念物に指定され、保護されている。かつてはその下流の浮間ヶ原や戸田ノ原が有名だった。が、関東大震災の復興のあおりで、この肥沃な泥土が壁土として掘り取られ、このときにサクラソウのほとんどが失われたという。

 サクラソウの栽培が始まったのは江戸時代に入ってからである。江戸市民の園芸熱の興隆に伴って自然的に発生し、人々は浮間ヶ原や戸田ノ原から変わり花を見つけては大切に育てたという。そして、やがて種子まきによる栽培が盛んになり、次第に観賞価値の高いものを選抜する方法で園芸草花としての発展を遂げるに至ったのである。

     プリムラ

 厳しい冬をじっと耐え、春の気配の到来を告げる清らかな花は、古くから多くの人々に親しまれ、愛されてきた。この仲間は主に北半球の温帯に約400種が分布し、前述のサクラソウも含まれるが、園芸上でプリムラと呼ばれるのは、明治の初めごろ日本に入ってきた、いわゆる洋種(西洋)サクラソウである。プリムラという属名の語源はラテン語の「初め(プリマ)」あるいは「最初の(プリムルス)」で、春一番に咲く花の意味だろう。

 日本で栽培される主なものは、次の七種である。うち1〜3が特に一般的に園芸店で販売されている。
 1.プリムラ・ポリアンタ
 2.プリムラ・マラコイデス
 3.プリムラ・オブコニカ
 4.プリムラ・キューエンシス
 5.プリムラ・シネンシス
 6.プリムラ・デンティクラータ
 7.プリムラ・アウリクラ

 ポリアンタは日本で育成された品種がジュリアンとも呼ばれ、プリムラの代表のように普及している。その鉢花のかわいさは、いたるところで目にすることができる。
 やや季節感が消失しつつあるポリアンタに対して、マラコイデスは品種改良が進んだ今日でも、早春を彩る草花として人気が高い。中国・雲南省の原産で、中国名を「報春花」といい、和名は株全体に白い粉があることから「化粧桜」とよんでいる。
 オブコニカは、プリムラ類には珍しく、室内の弱光に長く耐えて花期が長い。これに加えてボリューム感があることが人気の秘密だろう。しかし、株全体にある腺毛に毒素があり、体質によってはひどくかぶれるという難点がある。

 プリムラは水切れに弱く、特に開花期に水を切らすと咲いた花は傷み、あわてて水を与えてももとにはもどらない。なかでもマラコイデスとデンティクラータは、常時水が十分にある状態を好むので、大苗から水栽培に移すこともできる。自然光に当てることはどの品種にも大切だが、寒中に購入した鉢花の場合は、暖かい日を見計らって屋外で日光に当てる以外、ガラス越しの光でよい。冬も週に一回ほどのわりで液肥を施し、咲き終わった花殻をつむなどの手入れをしてやれば、長く楽しむことができる。

 

 幼き日の希望。恵まれない功績。悲しみをもつ。うれい。

 赤い花・・・青春の希望
 黄色い花・・・豊かである。
 白い花・・・可憐な、かわいい。
 紫の花・・・堅実である。
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そんなつもりじゃなかったのに・・・
 こんな繰言をよく口にする。
 
 ひとはいろんなつもりで生きている。失敗することも誤解を招くこともそんなつもりのひとつなのだろう。

 人生という言葉が似合う年頃になってしまった。これまでのことを考えると、すいすいとことが思い通りに運んだことがどれくらいあっただろうか。その一例が即座に浮かばないほどに少ない。

 でも、他人をまきこんだ、まきこまれた事例で「そんなつもりじゃなかったこと」はとても多いような気がする。

 今日も「そんなつもりじゃなかったのに・・・」と思いながらいつもの道を歩いた。これからもなんべんその言葉を胸に抱くのであろうか。

 パスカル曰く「人間は考える葦である」
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着床前診断
 神戸市灘区八幡町のあの産婦人科医院を目にしたとき、すぐに記憶はよみがえった。神大生のFがあの病院のすぐ裏手の電柱にもたれていたときのことを。彼はギタリストをめざしていて、ヨーコと四畳半のアパートで同棲していた。

 ぼくが通りかかると、Fはぼくの目をさけて空を見上げた。今にも雨粒が落ちてきそうな暗い空を。あそこは近所でも腕のいい病院と評判だった。神大生の連中には勝手のよい産婦人科医院の筆頭だった。Fはいったんその場を離れ、六甲道駅のほうへ向かったけれど、もどってくる目をしていた。ヨーコが中にいることがぼくにはわかっていた。Fがお金を集めまわっていて、そのことの理由をHが言いふらしていたからだ。

 ちょっとだけ心の奥底に残っている傷跡を感じることがある。顕微鏡でしか見えないほどの、薄い薄いかさぶたのついている一筋の傷跡を。そのころのドクターはたぶん、先代だったのだろう。

 着床前診断という最先端の医療技術を違法に使って、かの病院は脚光をあびた。そのテレビ放送を見て、幾多の人々がそれぞれの思いに浸ることだろう。その多くは生命の歓びを、その少なくは痛みのような哀愁を。
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アイドルタイムに
 お金のためにあくせく毎日を生きていると、澄みきった青空が別世界に見える。こんなことをいわなくても別世界なのだが、窓からさんさんと注ぎこむ太陽の光が、あそこからやってきているのだと思うと、TAKENに出てきたアリーみたいに光の輪の中にとけこんで、昇華していけたらと思わぬでもない。

 かのひとの声が聞けたら話したいことがいろいろあった。尋ねたいこともいっぱいあった。でも、たぶん、そんなとき時間だけが過ぎていって、何をどう話したのか、どんなことを聞いていたのか、茫洋たる記憶が残るだけのような気がする。はて、さて、実際に出会うことがかなうならば、怖気づかずにいられるかどうか・・・、アリーに尋ねてからにしたほうがよいかもしれない。

 片道切符か、往復切符にしたほうがよいかも尋ねてみよう。それは直接かのひとに・・・。
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テレビ
 近頃、テレビを見なくなった。束の間、ニュースを見るだけである。スポーツがオフシーズンだからでもある。嫌いなバラエティーはむろんのこと、ドラマも見なくなった。

 パソコンの画面を見る時間が長くなった。仕事でパソコンを使わざる状況が頓に多くなったからだ。そのついでにヤフーのニュースを読む。だから、翌日の新聞を読む時間も減ってしまった。テレビとパソコンとは使用時間の相関関係にある。

 変わらないのはコンポから流れる音楽だけだ。なぜか、このごろユーミンを流している。スローテンポなので、かったるくてあんまり好きじゃなかった。ツタヤで5枚1.000円でレンタルしてたとき、ついでに借りたのがユーミンのベストアルバム2枚組。なんべんも聞いていると、ほんわかしみじみしてくるから不思議だ。少し人気があるわけがわかった気がする。

 さて、テレビだが、リアルタイムで見られないから、見るものはたいてい有料放送若しくは衛星放送の映画のビデオになる。だから、ここ1年でいっぱい映画のビデオがたまった。全く見ていないのもある。007とダーティー・ハリーのコレクションができた。アメリカの連続人気ドラマCSI(科学捜査班)は、50ストーリーがそろっている。

 そろそろパソコンをシャットダウンしよう。パソコンはテレビより目が疲れる。まばたきせず、一点を凝視するからだ。樹木希林みたいに網膜剥離症で失明するのはいやだから、パソはそろそろこのへんにしとこう。新聞のテレビ欄では、今日は見たいものがない。風呂をあがってから、このあいだ買った、京極夏彦の小説でも読むとするか。
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教育
 小泉首相は2日、宮崎県の高校3年の女子生徒がイラクへの自衛隊派遣に慎重な対応を求める首相あての請願書と署名を提出したことについて、自衛隊がイラクで平和的貢献をすることを学校で教えるべきだと指摘、教育現場に異例の注文をつけた。

 小泉首相の弁である。「自衛隊は平和的貢献するんですよ。学校の先生も、よく生徒さんに話さないと。いい勉強になると思いますよ。この世の中、善意の人間だけで成り立っているわけじゃない。なぜ、警察官が必要か、なぜ軍隊が各国で必要か」

 内閣府によると、署名は女子生徒が集めた5358人分で、2日に生徒が提出した。請願書は「自衛隊派遣でない方法でイラク支援にあたってほしい」との内容という。


 署名は、なぜ女子生徒だけだったのだろう。男子生徒も教諭たちも加わっていなかった。いつもこの手の行動を耳にし、目にするたびに思うことがある。情緒的で付和雷同的なことが実に多いのだ。マスコミの取り上げかたにも問題は多いが、たいていが自己満足的なものと諦めに終始する。

 教育現場には団塊の世代、全共闘の世代の数が最も多い。彼らは未だにあの時代の名残をとどめていて、儀式に否応なく流される国家、「君が代」に口パクで反抗するだけだ。早晩、定年退職ということで彼らも徐々に姿を消していくだろうが、彼らのまき散らした拠り所のなさが教育界を被っている。

 イラク問題を、ベトナム戦争を、あの忌まわしい太平洋戦争の幾多のことを、教育の現場では膝を突き合わせて、生の声を聞き、真実に迫って、語り合うことがあるのだろうか? 太平洋戦争時代、戦争反対を唱えることは、即死刑を意味した。朕は国家であり、国民はすべて天皇陛下の御身のもとに命を捧げて当然と教育されていた。

 敗戦ののち、時代は変わり(アメリカに変えてもらった)、好き放題に戦争反対を叫べるようになった。が、彼らていどが反対しようがしまいが、1945年以降、日本では戦争は起こりえなかった。自衛隊という就職口ができ、希望者だけが自衛隊に入隊をする。現在のところ、世界各国にある徴兵制はわが国には存在していない。が、自衛隊員の活動がにわかに多忙になり、その責務が増大し、自衛隊員だけでは処理しきれない事態になったらどうなるだろうか?

 もっともっと深く歴史を学んで欲しい。毎年物議をかもすヤスクニの意味を知り、わだつみの声を聞き、欧米とわが国に植民地化された近隣諸国の歴史とその真実に目をそむけてはならない。広く浅く教育をすることはまちがっている。ひとの心を学ぶのに、うわべばかりではどうしようもない。
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Jieitai
 戦争を知らずに育った世代が、「戦争反対」を唱えて学園紛争をした。いわゆる団塊の世代の全共闘の時代。果ては連合赤軍浅間山荘事件、よど号ハイジャック事件へと及び、20世紀末にはほぼ崩壊した。あの連中は雲散霧消したといってよい。夢破れ、年を食ったのである。

 自衛隊は見る限り、Army である。日本だけが軍隊ではなく、自衛隊と呼称しているだけである。戦争を体験した人々、戦争の時代を生きた人々の目には、自衛隊というものはどのように映っているのであろうか?

 戦争とはどんな奇麗事を並べたてようと殺戮だ。人の命を奪い合う、最も人類の汚れたむごたらしい歴史だ。自衛隊員の殉職は一人二億円だそうである。命をお金で計ることは、昨今に適合したものであるのかもしれない。一兵卒の命の値段が、赤紙のはがき代としか思われていなかった太平洋戦争のころよりは進歩しているのかもしれない。

 自衛隊のイラク派遣が何事もなく無事終わり、帰還すればめでたしめでたしなのであろうか? 否。いったん、アーミーが動き出したということは、改憲への道しるべになる。軍備を整えることが暗黙の了解事項ともなる。

 戦争を知らない世代が、戦争のない時代に戦争を反対した世代が、自分たちより若い世代の自衛隊員を戦地へ送っている。敵から攻撃があったとき、自衛隊員は反撃できるだろうか? 人を殺したことがないものが敵を殺せるだろうか? 彼らの神経が疲弊し、麻痺したとき、怖ろしいことが起きていくような気がする。

戦争を知らない子供たち
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トレーシー・ローズ
 美人だ。一見して、ブリトニー・スピアーズレベルのアイドル的存在にも見える。が、写真で見る印象と実像とははるかな隔たりがある。何を隠そう、このぼくも当時のファンであり、裏ビデオの通信販売から入手しては、トレーシの肉体美と限りない猥褻さを楽しんでいた。が、その彼女が、当時15〜17歳だとは思いもかけることができなかった。どれほどの熟年になろうとも、あれほどの迫力ある生々しいシーンを演じることはまずできない。おそろしく淫らで、我慢できないほどに性欲をかきたてられる。が、汚らしさはそんなに感じさせない。

 このティーンエージャーの美人は、1980年代半ば、ハリウッドの裏舞台、アダルトポルノ界のクィーンだった。ブロンドの髪の小悪魔的な可愛らしい顔とメリハリのある豊満な肉体を目一杯使って、全身で欲望をむさぼる大胆なファックシーンで人気があり、一世を風靡したポルノ女優だ。

 アメリカのみならず日本にも来てポルノビデオに出演したこともあり、本番女優愛染恭子とレズプレイ対決をしたり、日本の男優を何人もイカせたりと、大活躍していた。
 
 が、18歳未満でポルノに出演していたことが発覚したため、ポルノ界から永久追放されるにいたる。その後、ポルノ界からは足を洗い、現在では一般映画に出演しているようである。


 以下はトレーシーが語る自伝からである。「その日、正体不明の料理とゼリーというランチが乗ったトレーを前に、私は学校のカフェテリアに座っていた。背後のテーブルで笑い声を立てる男の子たちのことは気にしないようにしていたけれど、そのうちの1人がヌード雑誌を手に近づいてきた。バン! という音を立てて、雑誌が私のテーブルの上に放り投げられた。プリーツスカートをはいて、手で胸を隠している女の子の写真が表紙だった。食べ物がのどに詰まった。なんとそれは私だった!」

 10代の少女がいかにして、一夜のうちに高校生から世界で最も有名なポルノ・スターになったのか。そしてなぜ? ノラ・クズマは12歳のときに母親と3人の姉妹とともに、安定した生活を求めて南カリフォルニアにやってきた。しかし長年にわたる性的虐待と親の育児放棄は、彼女をハリウッドの裏世界へ向かわせ、ヌードモデルエージェンシーの扉を叩かせることになった。

 生きるために苦労を重ねながら、彼女はトレーシー・ローズという名を使い、ペントハウスのトップモデルになった。15歳で世界的なポルノ・クイーンとなり、セックスと麻薬と嘘の世界におぼれ、18歳の誕生日を迎えた数日後にFBIが自宅を急襲するまで、それは続いた。

 著書『Traci Lords: Underneath It All』では、一人の若い女性が過去と和解し、勝算のない戦いに大勝利をおさめ、女優やレコーディングアーティストとして、そして、最も信じがたいことに、健康的で幸せな女性としての生活を手に入れた過程を描いている。また、強烈で、赤裸々かつ心を揺さぶる物語になっている。

 一昨年、プロ野球ドラフト会議直前、自由獲得枠で横浜への入団が確定していた、立教大学のエース多田野数人投手が、突如指名の回避をされた。その後、ドラフト注目選手であったにかかわらず、他の球団においても一切獲得の意思はなく、彼は一人渡米し、インディアンズ傘下の1A とマイナー契約を結んだ。国内では肘や肩の故障による見送りともっぱら噂されていた。

 が、アメリカに行って、昨年はめきめきと頭角を現し、今年はメジャー昇格も手の届くところへきている。有望株になっているのである。なんと一昨日、衝撃的なニュースが流れた。彼は大学時代、お金ほしさにゲイのポルノビデオに出演していたことが公表されたのだった。何を今さらと感じないわけではないが、日本球界はそのことを知っていた。スポーツという健全な世界で、ゲイのポルノに出演した選手を獲得するわけには行かないからだ。が、およそ一年余り、どうやって周知の事実に近かったその秘密をマスコミに封印することができたのだろうか?

 15歳の少女が大胆きわまりないファックシーンを演じることを、人間は知らぬふりをして、見逃すことができるものだろうか? いろいろな過ちがある。下降する気なら、人間は信じられない場所へまで行くつくことが可能だ。

 すでにアダルトビデオを見ることは苦痛になっている。あんなものを見ることに卒業したんだと思う。禁制の品物でなくなった今、どんな新手のものを提供されようと、辟易することはあっても高ぶりを覚えることはないだろう。でも、トレーシー・ローズだけはちがう。生半可な役者ではなかった。徹底的に性を演じていた。彼女は妖精のような悪魔で、ほろ苦い倒錯の味を教えてくれた。あの若さとみずみずしい肌が、エログロのしつこさをを緩和していた。かつてのトレーシー・ローズは、アダルトビデオの世界で永遠に不滅である。
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星々の舟
 村山由佳作「星々の舟」を読んだ。彼女の小説は読み易い。たぶん、文体の波長が自分に合っているのだろうと思う。が、全体的に稚拙さを禁じえない。箇所箇所において、重箱の隅をつつくようなものではなく、小説というものの流れの中で、作家というものに徹しきれていないような―――(未熟ということかもしれない)。概して、最近の人気作家にそのことをよく感じるのではあるが。

 村山由佳は決して、句読点の短い、コミックのような小説書きではない。ぼくは彼女の感性が好きだから、よいほうへ成熟していって欲しいと願ってやまない。で、ぼくのことは、作家じゃないから、稚拙云々はおかまいなしということでご容赦を。
 
 一応あらすじとして、帯の言葉をそのまま記す。

 禁断の恋に悩む兄妹、他人の男ばかり好きになる末っ子、居場所を探す団塊世代の長兄、そして父は戦争の傷痕を抱いて-。愛とは、家族とはなにか。こころふるえる感動の物語。

 戦前生まれの厳格な父、家政婦から後妻に入った母。先妻の子供も後妻の連れ子も、分け隔てなく育てられた。そんな一家に突然、残酷な破綻が訪れて――。
 家族とはいったい何なのか。性別、世代、価値観もそれぞれに違う彼らは夜空の星のようにばらばらに瞬きながらも、「家」というひとつの舟に乗って、無限の海を渡っていく。

☆☆☆
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