2004年11月の記事


迷探偵 矢吹五郎
 城崎の夜

 朋子と水入らずの温泉旅行の最後の晩だった。山陽自動車道を走って、萩に泊まり、山陰へ出て出雲に泊まり、三日目の夜だった。

 子供たちは高校生になっていて、しっかりと留守をしてくれている。俺の稼ぎでは、愛車カローラに乗って、三泊四日の温泉旅行が精一杯だ。あのときせしめた金はって? てやんでえ、それは子供たちを大学へ行かせるためにとっておいてある。学がないと俺さまみたいに浮かばれなくなっちまう。息子にこんなしがない探偵稼業をやらせられるかってんだ。

 朋子は俺にはできすぎた女房だ。こんなちんけな車でドライブしているだけで、仕合せそうに微笑んでくれる。高級旅館でなくても文句ひとついわない。ささやかな料理でもああおいしかった、ひなびた温泉でもああいいお湯だったと喜んでくれる。ただし、そんな朋子にもひとつだけ欠点がある。色っぽい人妻や別嬪さんの若い子に流し目をしたりすると、思いくそ俺のケツをつねりやがる。浮気をしたわけでも口説いたわけでもないのに、そんなとき朋子は般若のような顔になる。「いてて、おおこわ」と俺が顔をしかめると、朋子は元どおりにっこりとする。

 といって、朋子は俺の日常に詮索をすることはない。俺の仕事の依頼は色恋沙汰が多いから、誘惑はけっこうある。が、仕事に口出しはしないし、外でのプライバシーをとやかくはいわない。外で何をしていようと、家庭を守っていてくれたらいいと口に出してはいわない。それだから、どうにもこうにも朋子の手の平の上に乗っかっているような、奇妙な心地を感じてしかたがない。ここ数年で俺は煮ても焼いても食えない男から、据え膳すら食えない男になってしまったような気がする。ふと、湯に浸かりながら佳代のことを思い出した。

 朋子は「三木屋」とかいう旅館に泊まりたがった。今回の旅行での唯一のわがままだった。が、秋のシーズンは予約で満杯だった。「三木屋」は志賀直哉とかいう文豪の小説で有名になった、創業二百六十年という老舗らしい。有名なだけあって、料金が特別高い。俺は昔のダチがやっている椿野旅館に泊まりたかった。椿野は悪いことして遊んだダチだ。俺によいほうのダチなんて残っているわけがない。由々しき格調と情緒の旅館なんて、俺には及びでないことだらけだ。

 で、夕暮れ前、お日さんが沈んでいない先から湯に浸かっていた。椿野が旧交を温めようと、夜はネオン街へくりだすことになっていた。こんな温泉町でネオン街もあるまいと思っていたが、それは蛇の道は蛇、椿野なら城崎の甘い酸いは何でも知っている。朋子は三木屋を見にいきたいといった。浴衣着て、城崎の界隈を歩いてみたいのだそうだ。文学散策だとか何とか言っていた。朋子は俺の留守が多いので、ひとりよく本を読んでいる。晩飯までの間つきあってやることにした。

 浴衣着たままで、近くの駐車場までカローラで行った。緑深く囲まれた場所に三木屋はあった。庭先まで歩きながら、朋子は「或る一つの葉だけがヒラヒラ同じリズムで動いている」とつぶやいた。

 「なんだそりゃあ!」と俺が目を白黒させると、朋子はくすくすと笑った。「つまんない小説よ。あたし、この小説大きらいだった。国語の新任教師が担任で、この小説にえらく入れ込んでたの。・・・よそうっと、つまんない思い出・・・」

 つまんない思い出か、俺にもいろいろあった。ありすぎたくらいだ。朋子にだってあって不思議じゃない。これっくらいでこころのすきまが埋まりゃ、いい人生ってことよ。「朋子、寒くなってきた。そろそろ帰ろうか」

 「ありがとう。見るだけで十分だったわ。泊まらなくてよかったと思う。宿泊費高かったでしょうね」

 朋子にしてはめったにない、いい訳だった。ほっとため息をつくなんて、思えば俺はいっしょになるまでの朋子のことをほとんど知らなかった。朋子が腕を差し込んできた。振り返ると、庭先に着物姿の女がいた。女将だろうかとも思ったが、その華奢さに泊り客なのだろうと思いなおした。

 晩飯は椿野大盤振舞いの馳走だった。それまでの二晩に比べて、量の多いこと多いこと、味は似たようなもんだが、フルコースの三倍ほどの料理が出てきた。朋子は腹の底が深いほうだが、とても食べきれないと音をあげた。

 朋子をひとり部屋において、俺は椿野と飲んでいた。ちょっとしたラウンジで、年増のママが艶っぽい。若い子も三人置いている。椿野は酒が入ると女癖が悪かった。おいおい、昔みたいに一万円札並べてパンツ脱ぐのだけはやめてくれよな。

 「おい、五郎。十五年ぶりやぞお。音沙汰も全然ないし、居所もわからへん。昔の仲間やのに水臭いやないか。探偵はじめたと風の便りに聞いていたけど、やばい仕事してるんやないやろな?」

 「ちゃんと顔を見ていえよ。女の子が怖がってるやないか。俺さまは正真正銘の名探偵、明智小五郎とまではいわんが、金田一京助レベルの腕前や」

 「金田一耕助じゃないの? それとあたし、金田一少年の事件簿、好きだったわよ」 と女Å。

 「あたし、コナンのほうが好きだわ」 と女B。

 「ねえねえ、このおじさん、毛利小五郎と似てない? 口髭つけたらそっくりじゃん」と女C。

 「椿野、この店出よう。俺のいちばん腹のたつこといいやがった。悔しいというかクソ腹がたつというか・・・」

 「まあまあ、ちょっとあんたたち、お客さんを怒らすようなこと言っちゃだめじゃない。椿野さんは大事な上得意さん、そのお友だちならもっと大事、言っていいことと悪いことをわきまえてね。ねえ、ところであなたほんとうに探偵さん? 探偵さんならお願いしたいことがあるんだけど。椿野さん、いいでしょうか?」

・・・続く。。。
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