2003年11月の記事


マトリックス
 やはり居眠りをした。寝不足の上、土砂降りの雨の中を運転してきたから疲れてもいたのだろう。仮想現実のなかでの生と死、愛と無情、破壊と再生、こんなことを考えながら見る映画じゃない。

 小五の息子は前回以上に面白かったようだ。特撮技術に優れ、巨額の費用を使っただけのものではある。が、単に娯楽として見るには、ぼくは自分自身、扱いにくい人間になってしまっている。四の五の言わせず、たやすく楽しませてくれるターミネーターのほうが、面倒くさくなくていい。

 帰りはさらにどしゃぶりだった。夕方のハイウェイは走りにくい。雷鳴がとどろいて、稲光が走り、それでも150キロのスピードを出していると、さながらネロとスミスのラストシーンのような緊張感がある。斜面に激突すれば10メートルの穴があくような・・・。
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ドメイン指定
 一日遅れの石川君のご教授どおり、迷惑メールを防ぐため、携帯のドメイン設定を行った。携帯からのメールはどこからでもOK、パソコンからのメールは20通以内の指定となった。現状、その設定は自分のを含めてたったの3通。もし、ぼくへのメールがUNKNOWNで返ってきたかたは、Eメールでその旨連絡ください。ドメイン設定のほうへ加えたいと思いますので。
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薬箱
 デスクの上にトレイが三段重ねてある。爪切りやハサミ、糊や消しゴムなどの小物類、コンタクトレンズの保存液や液体ムヒ、綿棒や糸楊枝などの生活小物、そしてもうひとつ、一番下の段には医薬品が入っている。そこには薬局で市販されている薬ではなく、これまで通院してもらった調剤薬局の薬がストックされている。

 体調を崩して診察を受け、医者に処方してもらったものばかりだ。幸い大事に至った疾病はなく、全部飲むまでに回復したものだから、いろいろな薬が残っている。数年前より、薬剤師が薬の効能、副作用を記した用紙をくれるので、それぞれの薬の用途がすぐにわかる。捨てないで残しておいてよかったと、覚えのある症状がでたときに思うのである。

 風邪薬、胃薬、解熱剤、痛みどめ、誘眠剤などその他もろもろが入っている。いちばん重宝しているのが、整形外科でもらったロキソニン、関節等の緩い痛みどめなのだが、そちらにはあまり効かない。ぎっくり腰や筋肉疲労などは、横になっているのがいちばんの薬だからだ。ぼくは頭が痛いとき、のどが痛いときにそのロキソニンを飲む。それは薬の効能書を読んでぼくが発見したことだ。一錠を飲むと少々効きすぎるので、半分に割って飲むことが多い。

 次によく使うのが胃薬。ガスター10は薬局で買うと保険がきかないから高いが、処方されたものならその30%、ストレスがたまって胃がもたれたり、食欲がないとき、ほんのたまに飲む。誘眠剤も神経がさえすぎて眠れないとき、ときどき半錠だけ飲んでいる。

 で、驚いたのは錠剤が黄ばんでいるのに気がついたとき。友人の薬剤師に尋ねたら、薬品は化学製品なので消費期限があるということ。乾燥剤を入れて、冷暗所に保存していた場合でも、せいぜい四年が限度ということだった。白い錠剤は黄ばんでくれるが、色つきのやつやカプセル薬などは変化がわかりにくい。はてさてと考えてみたら、歯科の痛みどめで十年以上がすぎていたのがあった。あれは親知らずを抜いたときで、色褪せた薬袋に平成2年5月12日とスタンプされていた。

 友人がいうには、期限がすぎたもののたいていは、効き目が薄れ、毒にも薬にもならないが、なかには化学変化を起して副作用をすることがまれにあるらしい。それはカプセルのものに多いようだ。それを聞いたぼくは薬トレイの整理をした。直近の記憶にないもの、変色しているものを片っ端からゴミ箱へ捨てた。すると、薬の種類はたったの五種類になってしまったのである。コンタクトレンズで角膜に傷がついたときの目薬も捨てた。某抗生物質も捨てた。飲んじゃいないが、いかれた同級生の医者がくれた向精神剤も捨てた。

 よくよく考えると、薬なるものは本当に効いていないのかもしれない。人間には自然治癒力というものがある。精神面が安定していれば、ひどくは感じずにすむ痛み苦しみというものがある。薬箱がからに近くなって、少々気寂しくもある。医者に行くのは面倒で好きじゃない。薬にも消費期限というものがあることを知らなかった。けど、薬のどこに期限が書いてあるのか。

 薬剤師いわく、処方された薬は、その日数分を決められた期間で飲むもので、家庭に在庫するものではない。ふん、じゃあなんで、医者は要りもしない薬をたらふく処方するんだい? 机の上のトレイが寂しくなった。かみさんは脱ぐのがいやだから、いつもここへ風邪薬を取りにくる。さて、風邪の季節にこれからどうしたもんだろう?
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こぼれ種
 毎年この時期、夏の草花の片づけをしていると、こぼれ種から芽を吹いて間がない、はかなげなインパチェンスを目にする。小さなくせに、必死で蕾をつけようとしている。それは日々冷たくなる気温のせいだ。最低気温が摂氏五度を下回ると枯れ死するため、短いのを覚悟で、自然の摂理のままに生きようとしている。

 そんななかから五つほど、形のよいものを選んで、三号のプラスチックの鉢に植え替えてやる。鉢受けを用意して、居間の南の陽だまりへと持っていく。草花に太陽の光は欠かせない。そうすると、冬の間、ごくごくわずかだが成長を続け、観葉植物のように緑の葉を湛えてくる。そして、早春に花開き、三月の中旬には芽を出した場所へもどしてやる。花屋さんの店先に苗が並ぶころより、少なくとも半月は早い。

 夏の花のインパチェンスが、陽春のころにはすでに太い茎を持ち、ピークの花盛りを迎える。盛夏には剪定を施し、再度秋の開花を待つ。中秋、見事に満開となった花は、ホウセンカと似た種を結実し、はじけた種がそこかしこに落ちて、芽を吹く。こんな繰り返しを何年続けたことだろう。季節を肌で感じながら生きていけることに、夕陽を見ながらしみじみとほほえんでしまうのである。

 インパチェンス(アフリカホウセンカ) タンザニア、モザンビーク原産
 ツリフネソウ科
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R18
 一昨日から突然、携帯にアダルト系出会いメールが入りだした。ときどきEメールにえぐいのが入ることがあるが、それは多くても週に一、ニ度のことで、削除すればおしまいだった。たまには「ENTER」したこともある。すべては日本国の法律に違反したものばかり、公安当局は何をやっているんだろうかと、お上の取締りのていたらくにはあきれはてた。あえてカマトトぶったひとにお知らせする。アダルトサイトをどんなものかご覧になりたいかたは、ここのトップページのGoogle検索でアダルトとか出会いとかセックスとでも打って、出てきたものを適当にチェックすればよい。まあ、呆れかえるほどの点滅に辟易されるだろう。あれは卑猥というものを通り越して、たとえようもないエログロだ。

 今回の携帯のR18は強烈だった。やたら着メロの鳴ること鳴ること、多いときでは一時間に10通ほども入ってきた。やかましいのなんのって、小豆だとか金だとかの金融先物業者ほどのしつこさで、節度節操もなく無遠慮きわまりない。で、あとわずかでテトリスの最高点が記録できようとしていたとき、まちがいなく余裕で息子の記録を抜けるところでは腹が立った。携帯でのゲームは着信があった時点でご破算になる。かのひとからのメールなら、うれしさと相殺して記録更新は諦められる。が、出会いサイトからのおふざけでは堪忍袋の緒が切れた。ゲームでは息子に負けっぱなし、あんな絶好調は初めてだったのに、再度、再々度と挑戦しなおしてみても、指がくたびれるばかりで、肩もひどくこってきた。

 で、昨夜携帯メールのアドレスの変更をした。そして、アドレス帳にあるかたに変更の連絡をした。「R18」という書き出しでメールを受け取った友人たちは、思わず削除を選択しようとして、どうにか思いとどまってくれたようである。

 メールアドレスの変更は二度目だ。前回はここのプロフィールに載せていたため、出会いサイトにキャッチされたのだと思っていた。でも、今回はごくごく一部のかたにしか知らせていなかった。いわゆるメルトモ、友人、家族・・・。ちょっと天然のおばさんがいて、「yoursongは有名な歌だから狙われるのでしょうね」、なんてまたもやピンボケの忠告を受けたのだが、ドコモで第一希望でアドレスが通るということは、全国で唯一無二のアドレスだということをわかってらっしゃらない。k- をつけた時点で有名な歌は意味をなさなくなる。忠告は「まるっきり意味不明な言葉をアドレスにしたら?」とつづき、光のような速さで動くデジタルの時代を全く理解できていない。前のアドレス「k-yoursong@docomo.ne.jp」もいま適当にいれた「hoky15ky-56ou_lop@docomo.ne.jp」も実際のところ全然変わりはないのである。問題はどこから漏れたか、どのような交信中に遺漏したかということ。ハッカーされたかということ。

 奇しくも石川君がいたずらメールのことを不可思議そうに書いていた。モバイル関係に詳しい石川君が、「何でだろう?」と訝るくらいだから、ぼくのほうではどうしようもない。NTTドコモに文句いったところで、アドレスの変更をとにべもなくすまされるので、世界に100台しかないパソコンを持つ同志社大学工学部、知識工学科大学院の研究室へ問い合わせてみるつもりだ。

 実のところ、以前にも書いたと思うが、着メロ音には五年生の息子が興味津々なのである。ちょっとませてきて、友達どおしの話題でもあり、よくわからないまでも、どうも大人の世界を覗きこみたい心境のようだ。あんまり着メロ音が鳴りつづけるとやかましいし、痛くもない腹を探られかねない。「またメールがきてるよ」なんて子供にいわれるのはうれしくない。ときどき胸キュンのメールがみなさんもベストだろう。ちなみに、息子は夜十時に寝るからそれ以降はご遠慮なく。「着信音をオフにすればいいのに・・・」、そんなメールもいただいた。

 二日間のメールは、削除してしまったからここに貼りつけることはできないが、どれもこれも低俗で似たようなものだった。ひっかけだましのインチキ商売、近頃の世のエロ事氏たちは、電波で全国を股に掛けている。いつの時代でも男というものは色に弱いものだ。官能に飢えている。本能に抗えない存在だ。そして、近頃のご時世は、女が割り切って性の商売を買って出る。金のためならえんやこらさっさ、女の操なんて痛むもんでも減るもんでもあるまいし、てなふうに。趣味と実益を兼ねている女性だっているのだろう。遠い昔、北国から売られてきた吉原遊女哀し。

 エイズが怖くないんだろうかといつも思う。淋病や梅毒ならペニシリンで治っていた。が、エイズは不治の病だ。性行為で感染する。子供を産むことに極めてリスクを伴う。子供を産んで初めて、自分たちがエイズ感染者だとわかった若者夫婦がいる。ぼくは息子が大学へ行くとき、バッグの中にエイズ教本とコンドーム二ダースを忍ばせてやったものだ。年々エイズ患者は増え、地球規模の大問題となっている。

 いかに不況といえど、セックス産業だけは不況を知らない。元大手スーパー社長、N氏がいみじくもいったことがある。セックス産業ほどにもうかる商売はない。これほど人間の欲望を満たすビジネスはないからだ。壮青年期男子の性欲は、食べることに匹敵するほど貪欲だと。

 スポーツ新聞、三流週刊誌、インターネットなどでは、売春広告に溢れかえっている。当初は都会に集中していたものだが、今では地方都市までへも進出している。辺鄙な田舎以外ででは、ちょいと電話をかければ女性が手当てできるようになった。見ばえや料金が宣伝文句のとおりか、その女性が健康面やプライバシーで安全かどうか、そのほどは遊んでみなくてはわからない。日本人が世界のメディアにエコノミックアニマルと揶揄されていたころ、日本人は地球の裏の果てまでも売春ツアーをしていると批判されたものだ。先日の中国での売春ツアーも然り、とにもかくにも売春王国日本は永遠に不滅である。また、日本国の法にR18はあってないものであり、国民には全くのナンセンスになっている。ああ、あほらし!
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女心と秋の空
 青春期からこの言葉をよく聞かされた。そして、美しい秋の空を見たときに自分もその言葉を使うようになった。かの女性(ひと)のこころは、秋の空のように美しくも移ろいやすいもの、長いあいだそう捉えていた。

 今日新聞で、十九世紀半ばの詩人、ボードレールの「即興話」の冒頭の二行を読んだ。表題の言葉は、ボードレールのこの詩によって、爾来一世紀半、世界のあちこちで言い伝えられてきたのではないかと思った。海を渡ってこのような日本語になったのではないかと。だが、ボードレールの詩の真意は、巷でのような女心を揶揄したものではない。

 あなたは 秋の美しい空、澄んだ、薔薇色の、
 しかし、悲しみはわが胸に、海のように溢れてくる

 「即興話」は、文芸評論家、饗庭孝男氏の言葉を借りれば、恋人であった若い女優、マリー・ドブランに捧げたもののひとつといわれている。最初の一行は女の美しさを秋の空の風景にたとえ、詩人は、強く惹きつけられた女性の印象を、繊細な言葉でとらえている。しかし、夢見る度合いが強ければ強いほど、女性の官能と現実的性格に翻弄される。そこに悲しみが生じ、二行目は、パステル画のような優しい秋の空とはうらはらに、そこから始まった愛の残酷な実体を物語る。

 評論家の言葉を続ける。「おお 美よ、魂の過酷な災厄!」 としめくくる最終章に至るまで、詩人の存在は火のような眼差しと惑わしの官能の仕草に打ちひしがれ、魂は焼きつくされるに至る。したがって、一行目と二行目の間には「深淵」がある。夢想と現実の落差なのだ。

 シャルル・ボードレールは1867年に没すまで、女性を讃えながら、その快楽に支配された。愛憎のきわまったところ、男の心はさまよい、女の美しさを夢見ることと、愛を生きることの困難との間をゆききした。後年、マルセル・プルーストは、人生は、このように生きるよりは夢見ているほうがよいと語っている。

 で、いまここに一行目のような女性が現れたなら、自分はどうなるだろうかと問いかけてみる。官能のささやきを拒絶することができるだろうかと。うっとりと麗しの女性に魅入られたとき、何もかもをなげうって、その快楽に酔いつくすのではないだろうか。そして、きっと深みにはまり、愛憎の苦しみにのたうちまわる。死なんかとさえもだえるだろう。

 「女心と秋の空」、こんなやっかみともジョークともとれない、他愛ない言葉を発しながら、いみじくもプルーストがいったように、人生は、永遠に夢見ていることのほうが仕合せなのだろう、たぶん。
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ガーデニングデー
 花壇の模様替えを一気にした。まだ咲いていたのだけれど、名残を振り切って、三面の花壇をビオラとパンジー、デイジーに振り分けた。総数500本、まだ蕾も見られない苗もたくさんあるが、整列した小さな緑の葉と土肌のコントラストは初々しくある。また新たな出発のようだ。これから冷たい冬を越して、春の盛りに満開になるよう、土のなかの見えない部分から徐々に生育をしていく。

 菜園での夏の名残は、唯一ピーマンだけになった。霜が降りるときまでどうにかその命を存えている。柿の葉はすっかり落ち、花梨や木蓮の葉は日々その数を減らしていっている。紅葉した銀杏の葉が、ある朝一瞬にして落葉したとき、今年の冬が始まる。暦ではない、気候としての冷たい冬が。

 プランターの土の入れ替え、再生が、年々面倒になってくる。プランターや鉢の数が多すぎるのだ。土を空けるとプランターの下敷きにはナメクジがいやらしいほどついている。奥深く潜んでいて、夜になると這い出して緑の葉や花びらをなめつくすのだ。ひととこに集めると、その数は100を超えた。踏んづけるのも気持ち悪い。息子を呼んで塩をかけさせた。子供はこういうことをするのが好きだ。ほかの作業は手伝いたがらない。

 思い立って、プランターの数を20あまり減らした。中央をプランターで長方形に囲って、中を花壇のようにした。根や雑草を取り払ってから、苦土石灰をまき、肥料を施して、スコップでかき混ぜた。そこで腰の限界になった。

 残り半数のプランターは、未だインパチェンスが咲いている。インパチェンスの根は深くて、引き抜けば、土ごとごっそり抜けてしまうだろう。土と根の仕分けが毎年のことだが、面倒きわまりない。全部捨てて、新たに土を買うか作るほうがはるかに楽で簡単だ。が、金で何もかもすます気なら、ガーデニングの楽しみ、意義が半減する。

 かろうじて、苗を買わずにすみそうである。昨年、分けてあげた人たちにはがっかりさせてしまった。ただ、メインのスミレ科の花が減り、ふち飾りのスィート・アリッサムが極端に増えてしまった。が、ひと苗での花の数なら負けはしない。白と赤と紫が咲き乱れて、芝桜以上の絨毯を敷きつめるだろう。スィート・アリッサムは大根やキャベツと同じ、アブラナ科の植物である。

 雨が降り始めた。降るたびに冷たくなる。足元には電気ストーブ、さらに冷え込むとファンヒーター、今日は疲れ果てた祝日だった。勤労感謝の日なんて、ぼくには毎年ガーデニングデーである。来週は息子といっしょにマトリックス、全部の片付けは来々週である。

 雨降りになったから、やっぱり今夜はミステリーだ。
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テロの時代
 権力はいつの時代にもある。それに対して蹂躙される民が限りなくいた。これまでの時代、その抵抗勢力は、方法こそちがえ、直接権力にたち向かったものだった。そして、矢折れ刀尽きようとも最低限の正義は守った。時に権力が敗れることがあったが、もがき苦しんだ長い年月を忘れることはできない。世界各地の民族の苦難の時代はいつ終息を見るのだろうか。

 自爆テロによる無差別殺人などという発想は悪魔の思想だ。彼らには決して神など存在せず、またこんな貧富の差がある世界を作った神は、ご都合主義の人間による虚構の存在なのだろう。神の名のもとに兵士を戦場へ送り、敵対する人々を殺したのがこれまでの戦争だった。ひとの心には神なるものと悪魔なるものが棲んでいる。神を信じるものはまさしく無神論者とイコールなのかもしれない。

 キリストとイスラム、創世記より共に血で血を洗ってきた宗教だ。地球規模で情勢が変化する二十一世紀の今日、絶対権力と力で対等に争う方法は皆無に等しい。テロは混乱を狙っている。罪なき人々を殺すことによって、権力者の失墜を狙っている。不毛な殺戮が不毛な殺意を呼び、今世紀は終わりなきテロの時代となってしまうみたいだ。

 未成年の大学生男子と高校生の女子が、計画通り家族の殺人を行った。「人を殺してみたかった」、警察の取調べに対して、異口同音にこう語ったという。反省の言葉らしきものは見られないようだ。殺人の対象に血を分けた肉親を選んだこと、人の命をいともあっさりと断ち切れたこと、あまりにも不毛な人心ではないか。そんな暗いニュースが毎日のように伝わってくる。

 テロリズムは地球の個々の人間にも伝播しているのではないかと思う。アナキストでもなく、過激派でもなく、カルト集団でもなく、ごくごく身近にいる人間たちにテロのウィルスが感染している。

 ブッシュもブレアーもプーチンもフセインもビンラディンも北の国の誰かも、み〜んなひっくるめて、南太平洋の小さな島の楽園で、ランチキパーティーでもさせたらどうなるだろう。

 そして誰もいなくなった、ならいいのかもしれない・・・。
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落ち葉
晴れている日の落ち葉はカラフルでかわいい。
風に吹かれてそこかしこに模様を作る。
落ち葉を踏んで歩くとき
かさかさかさと聞こえてきて
えもいえぬ秋の風情を感じる。
枯れた葉っぱを集めて籐かごに入れると
なんだかハーブのようでもある。
リビングルームのテーブルの上を
黄色いかりんの大きな実と色づいた落ち葉で飾っている。

雨に打たれ、濡れている落ち葉は季節の残骸のようだ。
地面にはりついて、汚れてしまって、
道ゆく人々の気分をふさぐ。
落ち葉にもこころがあるかのようだ。
冷たい冬、落ち葉は腐食し土にもどっていく。

今年の紅葉は去年ほどにきれいじゃなかった。
植物は季節に正直で
暑さ寒さ、乾湿をそのまま受け入れる。
来年はどんな季節になるんだろう?
気持ちはそろそろ冬模様。。
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仮面の顔
 ロック界のスーパースター、マイケル・ジャクソンが児童虐待の罪で逮捕された。人気の裏側で、マイケルの異質さは10年間あまりくすぶりつづけていた。検察が絶えず目を光らせていたといっても過言ではないだろう。個々の罪が確定すると、アメリカではそれが加算されて懲役年数が決まるので、最悪では200年くらい食らう可能性もあると、ある筋では推定している。むろん、無罪の可能性だってある。マイケルは金持ちだから、とびっきりすご腕の弁護士を雇うことができる。

 ロック好きだが、ぼくはマイケルの音楽を聴いたことがない。知らずと耳に入ったことはあるかもしれないが、彼と知って聴いたことはない。聴かないように努めてきた。

 人の顔はいろいろとある。美しいとか面白いとか平凡だとか。好き嫌いの好みもある。そんななかで、ぼくはいままでマイケル・ジャクソンほどの気色悪い顔を見たことがない。彼を初めて見たとき、ホラー映画の主人公のような、仮面をかぶっているんじゃないかと思ったものだ。あんな顔は天然にはできるもんじゃないと、そのおぞましさに衝撃を受けたほどだった。そして、ぼくには見るだけで気持ちが悪いマイケルが、なぜ世界中から人気を集めているのか理解できなかった。

 イスタンブールで同時爆弾テロがあった。世界中は毎日ニュースソースには事欠かない。ユダヤ教会堂や英国系銀行が爆破されたことを考えれば、犯行グループが何者であるか想像に難くない。でも、彼らの顔、フセインであれ、ビンラディンであれ、マイケルほどに信じ難い顔じゃない。どこにあっても不思議じゃないふつうのアラブ系人種の顔だ。

 整形手術をしているせいもあるのだろう。が、それだけじゃない。10年前の顔だって、ふつうの生身の顔だとはどうしてもぼくには思えない。きわめてアブノーマルで、自然とは程遠い有機質だった。フライデー13のジェイソンと変わりないのである。そんなぼくにマイケルは激白する。

 そんな暮らしをしていてわかるはずがない。ひとりひとりの人間がそれぞれの神をもっている。誰もが世界からも隣人からも切り離されている。自分の心以外の何がわかるというんだ。自分の苦しみ以外の何を感じるというんだ。むろん歓びもな!
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普通の暮らし
 車検をかねて修理に出していたアリストが帰ってきた。ここ半年、キーの自動ロックが不具合だったのも直っていた。懸案のカーナビは、近いうちにオートバックスでつけるつもりだ。

 車くらいなくても暮らしていける。まだ車が買えない時分、よくそんなふうに思っていた。ぼくは借金をするのが嫌いだった。ローンを組むのがいやだった。お金が貯まるまでと辛抱しながら、そう自分をいいきかせていた。

 ちょうど一週間、車に乗らなかった。その間、チャリも使ったが、たいていは歩いていった。日曜日のゴルフは迎えに来てもらった。何ごとも周辺が便利になっているので、そんなに不自由さは感じなかった。いざとなりゃあかみさんのターセルがある。うちは以前からトヨタビスタとつきあいがあって、ぼくはTOYOTA車しか持ったことがない。

 便利だとか自由だとか、人はそれに慣れてしまうものだ。慣れてしまうと、そのことがたいして便利でも自由でもなくなり、その逆ばかりが気になるようになる。たとえば、レコードに針を乗せて音楽を聴くことなど、懐古趣味のひとでない限り、面倒きわまりないだろう。ノイズを防ぐために、表面の埃をクリーナーで丹念に拭き取ることはいわずもがなである。便利なCDに慣れてしまって、リモコン操作に慣れてしまって、視聴覚の世界までもが便利さに毒されているともいえなくはない。
 
 たいしたお金を持たずとも生きていけるひともいるし、いっぱいお金を持って生きるひともいる。が、そのことと幸不幸とはあまり関係がない。お金で物は買えるが幸福は買えない。物を買って味わう幸福など束の間のものだ。

 お金は魔物だという。あればあったで、いくらでも増やしたいと思うものだ。概して年をとるほど吝嗇になり、棺桶にまでお金を持って行こうとさえ考える。そこで骨肉の争いが起こり、ミステリーの始まりがある。遠い縁戚において、いかれた養子夫婦が財産に目がくらみ、遺言書に署名捺印しないと釜ユデでの刑に処すると義父を脅したとか脅していないとか。その義父は頑固者で、健康なうちに財産の配分を決めておかなかった。家族は慈善団体へでも寄付されるのではないかと訝っていた。そのため体を壊してのち、ひどい不遇に見舞われた。すでに夫人は亡く、心を込めて身の周りの世話をするものがいなかった。欲の皮の突っ張った親族に、世話と称してあの手この手で痛めつけられたのである。体が不自由になりはじめると、ひとは藁にもすがる思いになる。家という限られた場所の中で、ただただ食をさせてもらって、息をするために、やむなくすべてを養子夫婦に委ねるに至った。義父の死後、養子は好き放題やって、とどのつまりはいったん全財産を相続したかにあった。だが、思わぬところから反乱があり、ある日突然国税庁が押しかけ、追徴課税のあげく、脱税その他諸々の犯罪で一ヵ年の懲役刑に処せられたのである。欲ボケ連中のなかでも末端の口が軽いことはいうまでもない。それからおよそ七年、彼は未だ民事裁判を抱えていて、東奔西走の毎日となっている。刑務所で六法全書を貪るように読んで、さながら法律家気取りである。義父の死はバブル期だったから、法に則ってさえいれば、彼は少なくとも三十億円を手にしたといわれていた。法を犯した結果、三億円プラス一ヵ年のブタ箱入りだったのである。バカといえばバカ、彼ほどのバカはいない。が、バカですまされないことが残っている。係わった連中のほんとうの罪のあがないだ。できれば彼の死後、播磨焼煎餅殺人事件として、真相を明らかにしたいと思っている。沈黙は金、いやさ、沈黙は生命、我が身が大事だ。彼の存命中には真実を語ることは許されない。

 ぼくにも父があり、兄弟が四人いる。が、父の財産など当てにはしていない。父が残してくれるものがあったとして、それは四等分すればいいわけだし、たぶん、この住んでいる土地はぼくが相続するだろうから、キャッシュがあれば弟妹に三等分だ。だから、我が家は骨肉の争いにもミステリーにも縁がなさそうである。

 寄り道が長くなった。えらそうに金で幸福が買えないといった。が、やはりお金は欲しいのである。できればお金を自由に使いたい。ところで、青春期に比べて欲しいものがあまり流行のものではなくなった。切に欲しいもので、特別な物質というものが即座に見当たらない。強いて考えてみると、優雅なもの、広い空間、広い車内、ゆったりとした時間、美しい光景、美しい人、できれば表面だけではない美しい女性・・・エトセトラと、夢のようなことばかりが浮かんでくる。また、風呂敷を広げる気でいえば、ゴルフ場、湖の畔の温泉つきの別荘、豪華ヨット・・・と少々の成金ごときでは買えないものになってくる。

 あしたからまた、六年目に入るアリストに乗る。車検を受けたことであと二年は乗るはずだ。ぼくの普通の暮らしが戻ってくる。自由でもなく不自由でもない毎日、便利でもあれば便利でもない暮らし、そんなふうにぼくたちは生きている。たったひとつのもの、マシーンに揺り動かされながら。
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海外ミステリー
 いろいろと取り寄せて海外ミステリーを楽しんでいる。近頃、ネットでの下手な物書きから逃れて、わくわくはらはらの夜を楽しんでいる。

 クックが好きになってしまって、彼の初期の作品を読み始めた。ちょっと文学っぽいミステリーだから、ぼくにはちょうどいい具合なのかもしれない。いまは、「過去を失くした女」(文春文庫)を読んでいる。

 これまでぼくが読んだ海外ミステリーのなかで、ベスト20を考えてみた。読んだ時期、時代が交錯するので、なかなかベストというものが選びづらい。ず〜っと過去か直近のものが、なぜか印象に残っている。でも、一作家に一作でとしてあえて選んでみよう。絶版になっていないものという制約だけは守って。ご参考になれば幸いである。各作品のあらすじは検索によって見つかるものと思う。

 1、さむけ ロス・マクドナルド
 2、幻の女 ウィリアム・アイリッシュ
 3、Yの悲劇 エラリー・クィーン
 4、緋色の記憶 トマス・H・クック
 5、長いお別れ レイモンド・チャンドラー
 6、死の接吻 アイラ・レヴィン
 7、羊たちの沈黙 トマス・ハリス
 8、キドリントンから消えた娘 コリン・デクスター
 9、奇妙な花嫁 アール・S・ガードナー
 10、検屍官 パトリシア・コーンウェル
 11、アクロイド殺人事件 アガサ・クリスティー
 12、マルヴェッツィー館の殺人 ケイト・ロス
 13、薔薇の名前 ウンベルト・エーゴ
 14、サイレントジョー ジェファーソン・パーカー
 15、ゼロの罠 ポーラ・ゴズリング
 16、時の娘 ジョセフィン・ティ
 17、凍りつく骨 メアリー・W・ウォーカー
 18、樽 F・W・クロフツ
 19、レベッカ ダフネ・デュ・モーリア
 20、デッド・ゾーン スティーブン・キング
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頬杖をつきながら
 宴席にいた。別にしらけていたわけじゃないけれど、何度か頬杖をついていた。七〜八人の円形テーブルが十五ほどあった。百人以上の宴だったのだろう。

 社交がますます苦手になってゆく。まるで映画の一幕で、孤独な、もしくは場違いなところにいる男に、スポットライトが当てられているようだった。

 その男が宴の終わりの謝辞を述べた。述べさせられることになっていた。気分は空虚だったのだが、なぜか声を発しはじめると、次々と言葉が連続してきた。男は少々高揚していた。決して、酒の勢いを借りたわけじゃない。

 言葉を結ぶと拍手が起こった。お付き合いではないそれなりの拍手が。家路について、机の上でまた頬杖をついている。末席にいて、誰のテーブルをも訪ねなかった。まちがいなく冷めていた。何を話したのか、なぜあんたふうに熱を込めてしまったのかを考えている。

 頬杖はロダンのように熟慮をしているわけじゃない。なぜか、よく頭(こうべ)が重くなる。あごを支えていないと、思考が四散する。男の頬杖はあまりカッコがよいとはいえない。が、頬杖をついていないと考えがまとまらない、悪い癖がついてしまった。
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最初の死のあとに 死はもはやない
 クックの「誰も知らない女」は久々の当たりの予感がする。200ページほど進んで惹きこまれはじめた。

 三人の顔が少しやわらいだ。初めてそこに若者特有の自己中心的なもの以外の何かがあらわれたのをフランクは感じた。それは同情であり、恐怖だった。
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秋の日の
 秋が深まってきた。朝夕の気温は冷え込み、ときおり暖をとるようになってきた。空の色は透明感を増し、夜空の星々がいっそうきらめいている。いつも歩くウォーキングロードからは、市の清掃作業によりセイタカアワダチソウやススキの姿が消えた。後は並木の落葉を待つばかりである。ツバメの巣は空家となり、川には渡り鳥がちらほらと見えるようになった。

 11月の雨は冷たい。梅雨の長雨よりもずっと精神的に暗い影を投げかける。先の日曜日からの三日連続の雨にはうんざりした。傘を差して自転車を運転していたおばさんが、突如よろよろと道路の真ん中へ寄ってきて、後ろから走っていたぼくのアリストは、彼女をかわそうとして路上駐車していたワゴン車に激突した。道路幅が狭かったので駐車違反には違いないが、ぼくの100%責任の物損事故である。

 雨が降っていなければ車に乗らずに歩いていた。よろけたおばさんは何食わぬ顔で走り去るし、ぶつけられたワゴン車の主は警察に違反切符を切られることなく、もとよりへこんでいた後部を無償で取り替えてもらえることとなった。ふんだりけったりのおとといの月曜日だった。

 菜園では実りの秋である。来年三月半ばまで新鮮な野菜を供してくれる。白菜、大根、キャベツ、ブロッコリー、人参、サニーレタス、春菊、パセリ、細ネギ、バジル・・・。いまだピーマンだけが赤と緑の二色の実を湛えている。赤ピーマンのカラフルな味わいをベストに食することができるラストシーズンだ。残された柿は、そろそろ腐った果実となりつつある。

 九月の猛暑のおかげで例年になくスミレ科の花の生育が悪い。発芽したものの、移植したものの、高温のため枯死したものが多く、花壇のほうは三分の一しか春の準備ができていない。マリーゴールドとインパチェンスが、いつになく長く咲き存えてくれているが、それもあと二週間がせいぜいだろう。今年だけは苗の足りず分をホームセンターの世話にならなくてはならないかもしれない。

 秋の日はつるべ落とし、星見ヶ原の丘から流れる「家路」のメロディーと共に夜のとばりが下りはじめる。冬至までまだ一ヶ月以上あるというのに・・・。今日は疲れた。長く自転車に乗らなかったので、自転車の調子も僕自身のバランスも悪かった。片手運転がうまくできたので、調子に乗って両手を離したとき、あわやバスに激突しそうになった。ぼくにチャリとウォークマンは似合わない。

 修理したアリストよりモデルチェンジしたメルセデスが欲しい。でも、メルセデスが買えたとして、成金趣味のようで似合わないのではないかとも思う。黒のアリストを買ったとき、友人たちはぼくを中年暴走族と揶揄した。アリストは修理のついでに五年目の車検を受けている。五年間でスピード違反は二回、クレスタに乗っていたときより違反回数も減点数も罰金額も信じられないような減少ぶりだ。

 車がない秋の夕暮れは憂鬱だ。寒くて、侘しくて、自由が利かない。「ちょっとそこまで」という嘘八百を何度口にしたことだろう。夜のネオンが遠くなった。星空は夜のネオンと共にありき、ベルレーヌの「落葉」をひとり思い浮かべているようでは、ヴィオロンの ためいきの 身にしみて ひたぶるに うら悲しである。
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マキ子の脅し
『年金もらえないなんて誰が言った?』
江角マキ子がドスを効かす。
社会保険庁の国民年金保険料納付推進CMだ。
まるで国民を脅しているかのようだ!
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茶番劇
 マニフェスト論争は茶番だった。マニフェストというカタカタこそが茶番でもある。今年の流行語大賞の受賞は間違いなし、社会的風潮のようなレベルである。

 高齢の議員が減り、青年期の議員が増えたのも単なる社会的風潮である。本来の争点となるべき実力、主義主張よりも、見映えがよく、好感の持てるタイプの候補者が優位になった。

 民主党が躍進したかのようである。が、吸収合併した自由党の議席と、共産、社民、保守新党の減少分が上乗せされただけである。支持基盤を労働組合に持っていたのは、過去の社会党である。が、現在の主たる労組の支持は民主党である。土井たか子氏は、党名を女性党と変えるべきであろう。20世紀末より共産主義などは時代錯誤もいいところだ。どこか離島へでも移り住んで、自分たちだけのユートピアを作り上げたらいいと思う。予想どおり保守新党は消滅した。

 自民党の減少分は公明党の議席増で、与党としてはチャラである。何もかも予想通り、喧々諤々の政権論争を期待したが、机上の論理と絵空事ばかりで、与党の体質も野党の体質もさほどちがっちゃいない。かっこよく振舞って、できるできないは結果論でおしまいだ。で、いちばんあほらしく笑えたのは、民主党が仮想内閣を公表したことである。その最たるものは竹中氏と同じ慶応義塾大学の榊原氏が入っていたことと、長野県知事、田中康夫氏が含まれていたことである。菅直人総理、小沢一郎副総理・・・etc、これは民主党のポリティカル・ドリームスなのだった。勝ち負けなどは、はじめからわかりきっていたのとなのに・・・。ニュースステーション(久米宏)はつむじ曲がり(左傾ぎみ)であると、ときどき感じる。

 今回中曽根が去り、宮沢が去り、野中が去り、三人の重鎮が去った。良きにつけ悪しきにつけ、戦後を支えてきた人物たちだ。彼らには色があった。それが栄光の色であったのかどうかは疑問だが、無色透明で七色のレインボー内閣とも呼ばれた日本新党の細川氏らよりも、はるかに重く政治の責任を担ってきた。一句、「くれてなお命の限り蝉時雨」と詠んだ85歳の中曽根康弘の面構えは、水木しげるの漫画にでてくる時空を超えた妖怪のようでもある。

 菅直人よりは小泉純一郎のほうが気風がいい。経済音痴ではあるが、いまのところ不正がないことと毅然と振舞えるところがまだましだ。厚生大臣当時、大阪のかいわれ大根業者をOー157の犯人にしたてたミスは償われていない。法は、疑わしきは罰せずだが、かいわれ業者は彼の指示のために辛酸をなめた。マスコミの一時的な報道は、当事者には決して一時的ではなくいつまでもついてまわる。疑惑が晴れてからも、菅直人の謝罪の言葉を耳にしたことがない。

 で、ぼくが与党、自民党寄りかというとそうではない。関係ないことだけれど、ぼくはあんまり日本国歌の曲が好きじゃない。あの曲は蔵前国技館の歌のようだと常々思ってきた。いわゆる儀式の歌だ。ぼくは右翼が嫌いだ。もちろん左翼も嫌いなのだけれど。どちらにも寄りたくはない。政党というものは烏合の衆を避けるためにあるものだと思う。身勝手な派閥や仲良しグループがあってはならない。与党は国家の繁栄のために、国民の幸福のために、信条と信念を併せ持ち、新しい世紀の希望の星でなくてはならない。が、どこにも希望の星はいなくて、誰も彼もがやたら茶番をくりかえすばかりである。

 マニフェストのメインがあんな高速道路論争だなんて、いかさま師の殺し文句にもなっちゃいない。
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マトリックス レボリューションズ
 しきりに息子は見に行きたがるが、ぼくはあんまり気が乗らない。週末が混んでいるからでもあるが、あの手の映画の続編にはたぶん辟易すると思うからだ。1999年に公開された第一作の「マトリックス」、娯楽的には楽しめたものの、その無機質さにうんざりしたことも事実だった。そして、今年の「マトリックス リローディッド」は、前作を上回る大ヒットだった。が、四年足らずを経て、ぼくはその連続性を忘れてしまっていた。ネロとトリニティにくらいしか覚えていなくて、聖地ザイオンや救世主の預言のことなどは初めて知るストーリーのようだった。かなり頭を使いながら、娯楽という映画を一生懸命に見た。スミスとネロの戦闘シーンの繰り返しには、いい加減うんざりした。

 これまでの常識を覆すかのストーリー、驚愕の視覚効果がこの映画の持ち味なんだと思う。レボリューションは革命の意味で、独創的イマジネーションと哲学的思想を盛り込んだ人気SFシリーズ完結編というのがこの映画のうたい文句だ。が、そんなむずかしいことなんか考えず、理屈ぬきでスクリーンに映し出される映像を楽しむことができれば十二分なんだろう。

 テレビCMで少し見たネロとスミスのカンフーのような戦闘シーンは、本番では、再度ぼくにはしつこすぎるだろうし、無限に増殖するスミスを見るのに辟易するだろう。そして、きっと元来SFというジャンルがあまり好きではないことを実感する羽目になる。でもこれくらい、よそよりもずっと少ない家族サービスである。来々週の土曜日あたり、神戸国際松竹へ行かなければと観念している。ついでに北野坂辺りで、うまいものでも食わしてやろう。かみさんには大丸かそごうでカシミアのセーターかヴィトンのバッグでも買ってやろう。亭主元気で留守がいい、財布の紐弛めて贅沢三昧がいい。うん、そんなこと誰が言った? すべからく幻想の世界であるというのに・・・。
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ミステリー
 ミステリーが好きだ。ミステリーの中でも海外のもののほうが好きだ。かつて、アガサ・クリスティーやエラリー・クィーンを愛読していたときのように、本格的な探偵小説、ミステリーが好きだ。レイモンド・チャンドラー、コリン・デクスター、メアリー・W・ウォーカー、そして今は、パトリシア・コーンウェル、トマス・H・クックの作品が好きだ。

 宮部みゆきや島田荘司、乃南アサなど日本の作家もよく読んでいる。読破した作品の多さでは和洋を問わず、横溝正史を上回る作家はいない。

 なぜ海外のミステリーが好きかというと、それは厳選されたものしか翻訳されないという傾向にあるからだ。文学にしてしかり、古典を除けば、面白くもなく売れそうもないものを店頭にならべようと出版社はしないだろう。それでさえ、年々海外作品の売れ行きが減少傾向にあるのだから。

 毎年アメリカでは、アメリカ探偵作家クラブ(MWA)賞、(最優秀長篇賞、最優秀処女長篇賞、最優秀ペイパーバック賞、最優秀短篇賞)が発表される。またイギリスでは、英国推理作家協会(CWA)賞、(ゴールドダガー賞(最優秀)、シルバーダガー賞、ジョン・クリーシー記念賞)が発表される。その歴史にはアイラ・レビンの「死の接吻」、チャンドラーの「長いお別れ」などがあり、「ホッグ連続殺人」「推定無罪」「十二人目の陪審員」「検屍官」「処刑前夜」「緋色の記憶」など娯楽大作の宝庫でもある。読みはじめたら眠れない、そんな作品に何度となく出会ったものだ。

 いま、2002年のMWA最優秀長編賞「サイレント・ジョー 」(T・ジェファーソン・パーカー 早川書房 )をひもとくところである。海外の面白いミステリーを読みたいと思ったとき、どうやったらそれを探り当てられるのか。人の好みはさまざまだから、本当に面白いものを読み逃がしてはつまらない。しかも、どんな作家の作品にも、いいものとそうでないものとがある。とすれば、歴史あるMWA賞ならびにCWA賞の年譜を検索してみるのもいいだろう。もしくはハヤカワミステリー・ハンドブックなどを参考に、読者やミステリー作家が選ぶベスト100なるものの解説を読んでみるのもいいだろう。レイモンド・チャンドラーとコリン・デクスターはハヤカワミステリー・ハンドブックで知った。パトリシア・コーンウェルとトマス・H・クックはMWA賞で知った。ミステリー好きのぼくにとっては大正解であったのである。

 秋の夜長にどきどきはらはらのミステリーを。
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片思い
いつでも会えるようになると足が遠のきはじめる。
好きだといわれればいわれるほど返す言葉に窮するようになる。

たぶん、歯がゆさ、もどかしさ、やるせなさを感じたあのときの自分は、こんなふうに思われていたんだろう。初めは片思いではなく、あとから片思いがやってくると、とても切なく苦しい。失恋はしたくはないし、させたくもない。男と女は、かくある如きには、なかなか持続できない。遊びは簡単で、恋を続けることはとても難しい。そして、ピュアな片思いなど絶対にできなくなった。それは思春期のころの名残り雪である。
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倦怠(けだい)なるままに
 バナー広告が嫌いだ。とりわけ消費者金融のそれが嫌いだ。年利20%以上の金利をとって金を貸すことは、うわべをソフトなイメージにしていたところで、実際はあくどい高利貸しと同じことだ。

 ゴルフツアーなどスポーツのスポンサーになったり、スポーツ新聞や週刊誌、テレビのコマーシャルで常にイメージアップを図ろうとしている。

 この不景気な時代に、消費者金融だけが年々最高益を更新していくというのは、国民が消費者金融をよく利用しているということだ。デフレの時代でも、超低金利の時代でも、消費者金融を利用する人々は年々増えている。

 ぼくは買い物のほとんどをカード決済する。ポケットにじゃり銭を入れるのが嫌いなのと、記帳によって家計簿代わりになるからだ。が、決して金利を取られるリボ払いなんかは使わず、一回払いオンリーだ。

 いまもこの上で「当日融資も可能です!」と清潔なイメージの女性が声をかけている。UFJのモビットが終わって、アコムさんの登場である。毎日こいつを見てキーを打っていると、そろそろガイアックスも潮時かなあと思うのである。
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本末転倒
ホークス小久保のジャイアンツへの無償トレードは、
青二才の中内正の弱みにつけこんだ読売のナベサダの陰謀。
今回の騒動はかの江川卓事件よりもたちが悪い。
王監督や主力選手の激怒は当然のことで、誰が聞いても納得できないいやなニュースだ。

ダイエーは経営再建のため、国税による財政支援を受けている企業である。6.000億円ともいわれる福岡三点事業(ホテル・ドーム・球団)は負債額の四分の一を占めていると聞く。中内一族は潔く身を引き、ダイエーは素早く負債のかたをつけなければならない。先送りするほど事態はますます混迷の度を深めていく。三ヵ年のダイエーの再建は進むどころか、目標未達成が続くばかりで、資金投入を決定した与党の責任問題にもなりかねない。野球で四の五の言える企業ではないのである。立場をわきまえ、早く球団および福岡事業を売却して、事業を軌道に乗せて、国税の支援を受けた成果を一日も早く白日のもとへと示さねばならないのである。
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家庭の幸福
 一人暮らしもまたにはいいものである、と思っていた。この三日間、自分の意思だけで自由に生きた。食事を作るのも風呂を入れるのも面倒だったから、友人を誘って、三日連続でゴルフをした。家には寝に帰るだけ、朝食は近所のホテルのモーニングで済まし、昼食と夕食をゴルフ場のレストランですませた。もちろん、ゴルフ場の豪奢な風呂の湯にのんびり浸かって、命の洗濯をしたつもりだった。

 が、体力の限界が来た。先ほど駅まで家族を迎えに行って戻ってきたら、目の前がくらくらした。足元がよたよたした。三日目の本日、雨のせいもあったけれど、スコアは最悪だった。三日間で約30キロ歩いた。三日間で素振りも加えると、300スィングほどした。

 三日間、全く女っけがなかった。情緒あるときもなかった。叙情を感じる数分すらなかった。考えてみれば、浮世を忘却していただけで、体を痛めるだけいためていた。家では寝間で探偵小説ばかり読んでいた。あまり優雅な暮らしとはいいがたい気がする。考え方を変えれば、かみさんに逃げられたチョンガーの暮らしをしていたともいえる。ふとんは敷きっぱなし、パジャマはそばでくしゃくしゃ、肌着はビニール袋に入れたままである。

 「おとうさん、しんどそうやな。風邪でもひいたんとちがうか?」と息子がいう。「うんにゃ、眠たいだけや。京都、楽しかったか?」「おとうさんもいっしょに行ったらよかったのに・・・」

 と、また普段のように家族の風が戻ってきた。パジャマはたたまれ、ビニール袋のものが洗濯機へ放りこまれる。あしたからはまた多忙な日々がはじまる。疲れている間なんかありはしない。家族との暮らしが身にしみついている。よすががあってこそ、すさんだ暮らしから逃れることができる。ちょっとしたことにも叙情を抱き、人々との交流での機微がある。

 太宰治はいった。「家庭の幸福は諸悪の根源」と。その意味が分かるような気がする。彼自身の生き様を鑑みて言葉のとおりとするか、その逆説の当たりまえのものとするか・・・。ある意味、家庭の幸福は、一家族のエゴの上に成り立っているといえなくもないのだが・・・。
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寝取られ亭主
 寝取ったことを自慢する亭主族がいる。が、彼らは自分たちもまたその存在であることを疑ってかかったことがない。自分の女房だけはと信じきっているのかどうかは知らないが、自分がドジな亭主でないと確信を持っているようである。

 寝取られた亭主がドジな存在なら、寝取る側の亭主の女房もドジな存在である。が、そんなに人生は甘かない。能天気でいつものほほんとしている男女がいれば、目聡く配偶者の不行状を見てみぬふりをして、マイペースで好き放題なことをやってのける男と女がいるものだ。

 当然、そんな関係には多少なりともひびが入っている。子供がいて、ひとつの家族が形成されていれば、それは積み木のようにもろくも崩れやすい。うまくやってのけているつもりでも、いつか必ずしっぺ返しがくる。

 Aさんは安定した大会社の勤勉なサラリーマンだった。Aさんは結婚以来、10年以上、妻の浮気に気づかなかった。妻を信じて疑わなかった。総合病院の看護婦という仕事の性質上、三交代制のため、生活のすれちがいは仕方がないものと思っていた。

 Aさんの妻が誰彼とはなく遊んでいる間は、たいした問題は起こらなかった。彼女は多情で淫乱だったが、家を滅茶苦茶にするようなことはなかった。子供の世話をきちんとし、家事炊事はそれなりにこなしていた。

 ところが、Iの紹介でKを知ったとき、彼女は変わった。夫婦という関係の倦怠期に来ていたのかもしれない。のちのIの話によると、Kは精力絶倫だったので、彼女は未知の世界にたどりついたような夢見心地になったという。

 それから数ヶ月、近所ではミニベンの男が出入りしているという噂がたちはじめた。元々男関係の噂が絶えない夫人であったのだが、今度ばかりは常軌を逸していた。むろんAさんの知るところとなり、Aさんは浮気をやめてくれと懇願したらしい。血しぶきあがるほど頬でもひっ叩き、三行半でも叩きつけるような御仁なら、納まる鞘に収まったのかもしれない。Aさんの懇願によって、Aさんは離婚を要求された。ミニベンの男と切れなくなったからである。

 といって、ミニベンの男はAさんたちの夫婦関係にまで立ち入ってはいない。情に溺れ、自我を忘却していただけのことだ。二匹の溺れた魚は水槽の中を飛び出して、分水嶺のところでもがいていたんだろうと思う。

 その二ヵ月後、Aさんは縊死をした。町内ではミニベンの男が殺したんだと、葬儀のさなかにも口々に噂された。さすがに彼女もショックだったらしく、しばしKとの関係を絶っていた。家族や親戚との詳しいことは聞かされていない。面倒なことであったのは当然であろうし、彼女がそれをどう乗り切ったのか、乗り切れるのかはよくはわからない。

 時がすぎ、ミニベンの男は自らがやばくなった。御内儀の堪忍袋の緒が切れたのである。いくら威風堂々を気取っていても、数十年間寝起きを共にしていたなら、亭主の一挙手一投足で何もかもお見通しだった。これまでの洗いざらいが、数十倍になってはねかえった。

 Kは現在、豚箱へ入りたい心境のようである。ミニベンを売り払い、中古のカローラに乗って、カタログ販売、健康食品の行商を続けている。片や求婚、片や離婚訴訟、身ぐるみ剥いで追い出され、寝取られ亭主の亡霊のいるうちで暮らさなければならない逼迫した状況なのである。

 寝取りも寝取られもしたくはない。深みにはまり込み、自らの人生を粉々にしてしまうなんて・・・、お遊びがお遊びでなくなることがあるものだ。立つ鳥後を濁さず、人生はきれいな終わりかたをしなければと思うのである。
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慢性疲労症候群
 診療外の時間のことである。たまたまその言葉を口にしたら、医者が答えるにはなかなかの難病のようである。ぼくはいつもしんどいのでそんな言葉が浮かんだのだが、その病気はしんどさの度合いが著しいらしいのである。ひどいときは動くことさえままならず、横になっているしかない。全身倦怠感、疲労感を主とする疾患で、介助が必要な場合もあるようである。多彩な症状が6ヶ月以上多岐にわたり、再発を繰り返し、回復に3〜5年もかかるようである。ウィルス説があるものの、いまだ原因不明で治療方法が確立されておらず、悩ましい現代病となっている。

 で、その診断を下すまえ、医者は検査の結果、諸症状が当人の自覚症状だけのとき、自律神経失調症を疑うのだそうである。自律神経失調症とは、いわゆるうつ病のこと。ひとは自分がうつだと気づくまえ、理由のない疲労を感じはじめるのだそうだ。理由のない悲しみとはちがう。めぐるましく錯綜する事象、悲しみ、苦悩、絶望、疲労などが原因となるときはある。

 「じゃあ、先生、ぼくはうつ病なのでしょうか?」 こう尋ねると、「ふ〜む、うつは煩悩が多いひとや神経質なひとがよくかかる。精神が強靭でないひと、律儀すぎるひと、責任感が強すぎるひとがよくかかる。ちゃらんぽらんなひとはまずかからないね」。

 ちゃらんぽらんとはぼくのことであろうか? 心外な。「ぼくもいろいろと悩みを抱えているんです。人並み以上に煩悩もあるし、責任という気苦労だって毎日山のようにしているんですがね」

 「よくいうわな。ゴルフの握りでひとの財布から抜きとる根性しといて、どこが慢性疲労症候群なんや。うつは薬物療法と休養とで治るけど、そっちのほうは永遠の難病や。あんた、このごろいい子にめぐりあえないからストレスたまっているんとちがうか?」

 彼は医者とはいえゴルフ仲間でもある。ぼくはちょっぴりむっとした。それを見たドクターは引き出しの中から写真集を取り出した。スケベなドクター、はやりの美女写真集である。「どや、元気でたか?」

 「ああ、あほらし。こんなもんで元気が出るなら、ヘルスにでも行っとるわい」 あげく、医者がくれたのはただのビタミン剤、タケダのマークに329の数字がついていた。なんの効用があるのか、たぶん気休めにもならず、消費期限がすぎるまで飲まずにおいておくことだろう。

 そろそろ午後の診察の開始である。医院を辞するとき、看護婦のエミちゃんと出くわした。「うわあ、Kさんお久しぶり。お元気ですか?」 うひゃあ、こりゃついてる。エミちゃんは高嶺の花の看護婦だ。

 「エミちゃん、今夜、夕食に行かないか。この二日ほどチョンガーでね、月夜の姫路城でも眺めながらフランス料理でもどうかな?」

 「先生とおんなじこといってる。月夜の姫路城見ながらのディナーって、お二人の定番なんですか? それで、どこがお悪かったの?」
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