2002年08月の記事


I'm so busy
ということでしばらく休むかもしれません。
今夜だけかもしれません。
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スティング
 撮りおきのビデオが延々24時間に及ぶほどたまっている。Gコード予約ができて録画が簡単だからであるが、3倍録画をしているため、なかには何が入っているか確認しなくてはならないものがある。なんでもかんでも予約するのはやめたほうがよい。このままにことを続ければ、どれもこれも見る間など失ってしまう。

 そんななかから昨晩「スティング」を見た。「明日に向かって撃て」のポール・ニューマンとロバート・レッドフォードのコンビの傑作だ。10数年ぶりだったが、その娯楽性は時代に少しも色褪せていない。役者としてポール・ニューマンの最盛期を見ることができるし、ロバート・レッドフォードにはブラッド・ピットよりハンサムな青年を見ることができる。むろんその演技力は折り紙つきだ。ご覧になっていない方はぜひ見て欲しい。とても痛快な映画なのだ。ちょっと検索したあらすじを貼り付けておこう。

 1936年。シカゴの下町で、詐欺師の3人組が通り掛かりの男をヒッカケて金をだまし取る。しかし彼らが手にしたその金は、いつもとは段違いの思わぬ金額だった。悪い予感は的中。その金は、ニューヨークの大物ロネガンの手下が、賭博の上がりをシカゴへ届ける為の金だったのだ。怒った組織は、仲間の一人であるルーサーを殺害。彼の復讐を誓ったフッカーは、助けを求めて、賭博師ゴンドルフを訪ねた。最初は嫌がっていたものの、ロネガンの名を聞いて目を光らせるゴンドルフ。2人は、ロネガン相手に一世一代の大バクチを企てるが……。二転三転するストーリー展開、リズミカルな脚本、テンポ抜群の演出、驚嘆のラスト・シーン、そしてポールン・ニューマン、ロバート・レッドフォード、ロバート・ショウら名優たちが繰り広げる、華麗で巧みな名演技等、そのどれもが文句なく素晴らしい娯楽映画の大傑作! ゴンドルフが列車の中でロネガンにポーカーを使ってイカサマを仕掛けるスリル満点のシーンや、ラスト近く、ロネガンがノミ屋で馬券を買う迄のくだりなど、まさに名シーンが満載。

 以下のURLで「スティング」のBGMが聴ける。映画を見たことがない人でもどこかで聴き覚えがあることだろう。

http://www.parada.com.br/cinema/files/thesting.mid
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賭けること
 これは一幕の三人芝居のタイトルだ。下北沢『劇』小劇場で何度か演じられている。大阪近鉄小劇場でも一度だけ上演された。その三人のうちの一人の俳優が同級生だ。

 その俳優の凱旋記念芝居を市民会館へ見に行っていた。共演はNHKの朝ドラ「さくら」でおなじみの河西健司と阿知波悟美のふたりだった。ユーモア溢れる絶妙な会話と、出口探しのストーリー。

 ここは宮本のマンション。横にいるのは逃走中の強盗。しかし凶悪な感じはしない、イイやつかもしれない。「遅くなるけど必ず帰るから」なんて電話で言ってる。時間だけが過ぎていく・・・・。宮本はふと気が付いた。これを企んだのは女房じゃないか、悪いのは女房のマスミだけじゃないのか・・・・。絶賛された「賭けること」、待望の再演。吉と出るか、凶と出るか、上手くいくのか、この三人。

 彼は終わりの挨拶で昔のことを覚えていた。「高校二年生のとき、この場所で芝居を演じたのが私の俳優へのはじまりでした」

 そう、よく言った。「義理の任侠花」 で僕は彼に斬られてやったのだ。市民会館はさながら同窓会の様相を呈していた。
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翻訳者
 スティーブン・キングの「デッド・ゾーン」を読んでいる。この作品もこれまでとたがわず、僕を楽しませてくれている。

 ところで翻訳者だが、吉野美恵子さんという女性だった。彼女の年齢は現在58歳だが,翻訳したときは40歳を過ぎたばかりのころと推測される。

 そのときの彼女の容貌を知らないのでなんとも言えないのだが,ある日本の女性がキングになり代わって語っていると思うと,一言一言に何かしら微妙な楽しみを抱いてしまう。話が進むにつれ,一行一行に興味津々となってしまうのだ。

 作品の中で彼女は,世間の男の汚らしい,猥雑で、性的な文句を、実にうまく日本語に表現している。それには男友達の適切なアドバイスがあったのか,それともこれまでの人生の耳学問で覚えたのか,僕は100ページほどを読むまでは、翻訳者が女性だと気づいていなかった。
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スティーブン・キング
 最近,テレビはスティーブン・キング漬けである。「ローズ・レッド」「悪魔の嵐」「IT」、テレビドラマ版の「シャイニング」。「IT」の180分以外は,270分である。2〜3夜連続をビデオに撮っておいて,まとめて見ている。

 おかげで寝不足がひどくなった。午後のティータイムでは居眠りをするし,朝の目覚めが悪くなったようだ。でも、朝食時,しんどそうにしていると,「あんな怖いビデオを見るからよ」と言われそうなので,暑さにも負けず空元気を装っている。

 日曜日のゴルフの月例杯は,スコアなんてものじゃなかった。雨は降らなかったが,台風の影響で暴風が吹き荒れ,お気に入りのブラックのターミネ―ターの帽子が、波打つ池へ飛ばされてしまった。あれは「悪魔の嵐」を見たせいだった。フェーン現象による高温が、睡眠不足の脳にひどい影響を及ぼしていた。僕はターミネ―ターの帽子を追って、危うく池の中へ身を投げるところだった。あの場所は10年前,三菱ギャラントーナメントの観客席設営で,潜水夫が溺れ死んだところだった。とにかくここ10年間のワーストスコアを叩いてしまった。

 「IT」はピエロが悪魔だ。昨夜ピエロの夢を見た。ピエロが風船をあげようと近寄ってきても,少年の僕は怖気づいて逃げ惑うばかりだ。「おいで、おいで、いいものあげるよ。怖がることなんかないんだよ」 そう言われれば言われるほど,ピエロの赤い鼻が恐ろしく見えてくる。僕を押しのけて,幼なじみのSちゃんが風船をもらっていた。Sちゃんは得意満面の笑みを浮かべて,僕を見下ろしていた。

 「どうした,きみはいらないのかい? K君。わっはっは」ピエロはピエロのように笑っていた。

 「なんで僕の名前を知ってるんだい?」

 「ピエロは何でもお見通しだよ、K君」

 今朝,僕がどんな目覚めかたをしたのか、それは言わないでおこう。夢にうなされたかどうか、それは僕自身が知るすべがない。目覚めたとき,僕の体は凍りつくほどに冷たかった。

 明日の夜は「シャイニング」だ。これは映画で見ているから内容はわかっている。スティーブン・キング自らが脇役で登場するらしい。あさっては映画の再放映,「スタンド・バイ・ミー」 しあさっては「痩せゆく男」。番組のデザートは徐々に秋に近づいていく。「スタンド・バイ・ミー」は恐怖の四季、秋冬編である。

 長い夜まなこ見開き恐怖見る
       眠り忘れてキングのとりこ
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Band of Brothers
 「プライベート・ライアン」のスティーブン・スピルバーグとトム・ハンクスがコンビを組んで製作総指揮した、2001年ゴールデン・グローブ最優秀作品賞に輝いたテレビドラマである。

 が、十時間以上に及んでやたら長い。第二次世界大戦に参戦した、アメリカ陸軍空挺師団のエリート部隊の過酷な戦闘のプロセスを、兵士たちの人間模様を軸に描いたものである。ナチスドイツ相手の、いわゆるノルマンディー上陸作戦がそのドラマのはじまりであり、その後の戦いの激しさは歴史が示すとおりである。

 テレビドラマとしての制作費,約150億円はべらぼうなものであり,アメリカ国民の多くがこのドラマにくぎづけになったことは,昨年9月11日の貿易センタービル自爆テロ事件の経緯を勘案して想像に難くない。かの戦争とテロとは全くに関係ないことだが,アメリカ人の愛国心は,一時的に猛烈な広がりを見せた。

 「Band of Brothers」とは、シェークスピアの「ヘンリー5世」から引用されている。これは『戦いで血を流した者同士が兄弟の絆を感じる』という言葉に由来している。私たちは「戦友」という言葉を知ってはいても,その繋がりや絆というものを知ることは決してできない。

 戦後57年を経た現在でも,太平洋戦争の生き残りの戦友の会が各地で催されている。彼らのほとんどは80歳を超えているだろう。終戦の年,20歳だった若者がすでに77歳を迎えているからだ。そして、あと十数年過ぎれば、日本では現実的な戦友という言葉が死語となる。日本が二度と戦争をくりかえさない限り。

 「バンド・オブ・ブラザース」を見ながら,戦友というものを考えた。彼らは互いに凄まじく生死の境をさまよって生きている。仲間の死を目の当たりにし,日々死の恐怖に喘ぎ,命を賭した戦闘をくりかえし,生のために助けあって生きてきた。バトル・ロワイアルの只中で数少なく生き残ってきた仲間たち,それは兄弟の絆以上だろう。彼らがともに通りすぎた過去には,心の中に悲痛な傷が残されている。自分たちを殺戮に駆りたてたもの,無残な死を何度となく受け容れなくてはならなかったこと,そして生と死に無感覚になったこと。生きのびるためにはなんでもしたこと・・・・・。

 戦友に比べて,日常に使う親友という言葉はなんと軽いものだろうか。いつでも親友は自分の中で作ることができるし,反故にすることもできる。単なる友だちなんてのは軽くて風船のようだ。でも、戦友は自ら望んでできたわけじゃない。やむなく戦場で生死を共にし,生きるために敵を殺し,憎悪と恐怖にとりつかれ,神の掟を破って作りあげられた悲劇だった。殺さなきゃあ殺される,アドルフ・ヒットラーは実のところ、ウィリアム・シェークスピアの遺作だったのかもしれない。
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男と女
 女は恋をしたいという。男は女が抱きたいという。もちろんそれなりの経験をつんだ大人のことだ。言葉の表現にちがいこそあれ,両性の気持ちにちがいはあまりないと思う。

 なぜなら,概して男は女を求め,女は男を求めるようになっている。女が婉曲な表現をし、男が露骨な表現をするのは,女がロマンチックで男がそうでないと思うなかれ。究極的に現実を選択し,先にロマンスから逃れようとするのは女のほうが多いからだ。

 でも、最近は能動的な女が多くなった。とりわけ年齢層が若いほど,男より女のほうが意思表示がはっきりしてきた。黙って抱かれるのを待っているより,先に女のほうが男を抱くケースが増えつつある。傍観者の僕には,それがいいか悪いかなどと言える立場にない。めくるめく恋の渦中にある男と女が眩しいだけである。
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いまだから風に吹かれて
 最近の五木寛之は悟りを開いたようで面白くはない。「大河の一滴」がベストセラーになって以降,彼の人生訓じみたものはかなりの人々になるほどと思わせるほどだから悪いもんじゃない。彼は少年時代に生と死を賭して生きてきて,その呵責を背負った彼の言葉は軽くはない。戦中戦後を目の当たりに生きた人には,身につまされるものだろうし、今を生きる若い人たちに聞かせたい言葉が数多くある。

 でも、面白くはない。早稲田の露文科を中退して,しゃにむにエンターテイナーの道を歩んでいた30年以上前の作品のほうが,ずっとずっと向こう見ずな作家としての五木寛之らしい。太宰治の「走れメロス」について、同性愛物語だと語ったこと。三島の死について,同じ個人の死なら,同じころ早稲田の穴八幡で死んだ帰化朝鮮人学生の死のほうが比較にならない重さで感じられると言ったこと。面白い話がいっぱいある。

 五木寛之は来年古稀を迎えるという。僕は思う。いまだからこそ、エッセイ「風に吹かれて」を読もう。青年の五木寛之を奨めるのだ。そこには、彼の素晴らしい世界が漂っている。
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タイガースがきらいなわけ
 地元球団阪神タイガースがきらいである。アンチジャイアンツではあるのだけれど,ジャイアンツとはまたちがった意味でタイガースがきらいである。

 少年のころ,僕の親父は家の中で傍若無人な権力者だった。一台しかないテレビのチャンネル権は,常に親父にあり,夜の画面の映像は阪神タイガースの野球中継が多かった。親父は超阪神ファンだった。好きだったアニメ、「ハリスの旋風」や「あしたのジョー」を見ることができたのは、親父が帰っていない日か雨で野球が中止になったときだけだった。僕は親父が家にいないこと,雨が降っていることを喜んだものだった。

 野球中継を見たくなければ,見なけりゃいいと誰もが言うだろう。だが、そう簡単なものじゃなかった。夕食の時間が野球中継のときであり,親父は晩御飯を食べながら,選手の一挙手一投足をつぶさに見ているのであった。相手のチームのピッチャーが投げるたびに,上半身が前に乗り出し,結果、やんややんやの喝采をしたり,ほっとため息をついたり,罵声を浴びせたりしたのである。

 僕ら母子,兄弟は親父をヒヤヒヤ、ハラハラして見ていた。できるだけ早く食べて,キッチンを離れたかった。緊迫した場面がやってくると,親父は僕たちに沈黙を強いた。野球の状況を無視して,自分たちのことをしゃべっていると,やかましいと怒鳴りつけられたものだ。

 それだけなら僕はタイガースをきらいになっていない。親父は、タイガースが凡ミスで負けたり,逆転さよならで負けたりすると,ひどく機嫌が悪くなり,八つ当たりをしたのだった。とりわけ母には当たり具合がひどかった。阪神が負けたとき,親父の機嫌を損なうと母はビンタを食らったりした。僕らが楽しくしていているとき、何度もやかましい,静かにしていろと怒鳴られた。そんなとき,親父の血相は変わっていて,見ているだけで恐ろしかった。だから,あのころ僕たちは親父共々阪神タイガースが大きらいになった。

 そんなわけで僕たち母子は,ひそかにタイガースが負けることを喜ぶようになった。プロ野球を知らない時代から,母は野球というものがきらいになり,僕たち兄弟はタイガースが眼下の敵になった。恐怖の親父とよわっちい阪神,僕たちには坊主憎けりゃ袈裟まで憎いだった。

 そんな時代が十年あまり続いたろうか。僕は高校を卒業し,大学へ行くために家を出た。それから弟や妹が二年おきに家を出,僕たちはタイガースのことを忘れていった。テレビも家に二台,三台とふえ,チャンネルの奪い合いもなくなっていたときだった。

 現在では、親父は健康に悪いからとタイガースの野球中継を見なくなった。母はタイガースがきらいなままで死んでしまった。1998年,横浜ベイスターズが38年ぶりの優勝を遂げたとき,西武ライオンズとの日本シリーズを見に行くために,わざわざ横浜スタジアムのチケットをとっていたのに,彼岸のときに心不全で突然死んでしまった。

 プロ野球会では,巨人と阪神を伝統の一戦というけれど,タイガースはジャイアンツと肩を並べられるほどに強くはない。三度のリーグ優勝は,横浜ベイスターズの二回の次に少ない。先輩に聞いた話では,タイガーズがジャイアンツと優勝を争って,優勝したのは1980年のバース,掛布,岡田のホームラントリオの時代だけである。ほかの二回は昭和30年代,かなり昔である。二度とも横浜ベイスターズの前身,大洋ホエールズと優勝を争って,大洋のミスで拾った優勝である。阪神対大洋最終戦,3対4で大洋リード,9回裏阪神の攻撃,2アウト満塁、ピッチャー投げた。バッター打った。ああ,万事休す,セカンドへの凡フライ・・・・・,誰もが大洋の優勝を確信したその瞬間,セカンドが落球,阪神のさよなら勝ち,初のリーグ優勝となったのだった。阪神のリーグ優勝は,巨人,中日,大洋に次ぐ四番目のことだった。

 僕はその無様な負け方をしたチームを応援している。その時代のことを知るべくもないが,王者ジャイアンツを倒して,優勝をほとんど手中に収めていたチームが,二度優勝を阪神にさらわれていた。爾来,そのチームは38年間優勝をすることができなかった。

 そんな由来は,にっくきタイガースをさらに僕に植えつけた。子供のころの恨みは僕にとりついていて,ここ数年のタイガースのよわっちさは爽快でさえあった。でも、そんな思いも徐々に失せつつある。母が死に,弟が事故死し,親父が齢を重ねているのを見ていると,全ては通りすぎた過去になってきた。横浜は佐々木が抜け,ローズが去り,ついこの前のV戦士たちがほとんどいなくなった。ひょっとして,また38年待たねばならないのかもしれない。それまで自分が生きていられるかどうか,そう考えると,勝った負けたじゃない海の向こうのスポーツを見ているほうがよくなってきた。

 僕は独走を続けるジャイアンツも低迷を続けるタイガースも好きじゃないが,もっときらいなのはレベルの低いプレイだと思うようになっている昨今だ。
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エンジェルス・エッグ
 僕の本の買い方は、実にアンバランスで気まぐれだ。高校生の女の子が手に持っていた本の題名を見て,一冊つけ加えた。合計五冊,「デッド・ゾーン」「連合赤軍 あさま山荘事件」「フォークランド館の殺人」「旅のガイド イタリア」と「天使の卵」である。

 昨夜衛星放送で、エルトン・ジョンのライブコンサートを聴きながら,おそよ二時間あまりで読んでしまった。きっと,エルトンのバラードがとてもよいBGMになっていたのだろう。何を読んでいたかって,もちろん女子高生が持っていた「天使の卵」である。

 天使の卵は実在のジュエリーの名前であり,銀色の卵に金色の翼がはえたデザインの小さなピアスだった。主人公の19歳の少年が,年上の精神科医の女性に激しく恋をし,切なく,苦しい胸のうちを吐露していくストーリーだ。クリスマス・イヴの夜に、少年が恋する女性に贈ったプレゼントが「天使の卵」。ここであらすじを書くつもりはないので、ストーリーが気になるかたは書店での立ち読みか、作者の印税収入にご協力を。

 作者村山由佳さんは,この恋愛小説によって,スバル文学賞を受賞し、文壇に登場することになるのだが,このどこにでもあるような恋物語について自らこう語っている。「・・・・・格調高い文学でなくていい。全ての人を感動させられなくてもいい。ただ,読んでくれた人のうち,ほんの何人かでいいから心から共感してくれるような,無茶苦茶せつない小説が書きたい。・・・・・」

 僕は無茶苦茶にせつなくはならなかった。けれど、あの女子高生のほうは、きっとせつなく涙していると思えるのだ。石膏のアリアスの胸像ほどには端整でなかったが、こじつける気ならイメージは幼くして似ていた。

 一年以上前のことだ。僕のところへ angels egg というHNの女性がしばしば現れていたことを思いだす。期間はわずか1〜2ヶ月ほどのことだったと思う。今になって思うのだ。彼女もまた「天子の卵」を読んで,無茶苦茶せつなくなったひとりなんだと。曰くはあった。実に信じられないような曰くが――。

 僕は女子高生や女子大生が愛読する「天使の卵」を読んで,ちょっぴり自分の時代に想いを馳せている。あのころに「天使の卵」を読んだなら,無茶苦茶せつなくなっていただろうかと。ほろっと涙しただろうかと。

 ありきたりなストーリーだが,後味は悪くない。めくるめく情愛に身をこがし,性愛に衒うような恋愛小説よりは,こざっぱりしていて心地よい。

 今夜の衛星放送はエリック・クラプトンだが,きのう買ったほかのどの小説も似つかわしくない。イタリアへの旅を夢想しながら,旅のガイドを読むとしよう。

 ちなみに作品中に登場するピアス「天使の卵」は,(株)スペースクリエーターが創造したジュエリーシリーズの一つであり,登録商標「天使の卵」は同社に帰属している。まあ,つまりは市販されているということで,いい頃合いができれば,誰かへのプレゼントに使ってみようと思っている次第である。それは,小説「天使の卵」の作者の弁に対して適切でないかもしれないが,プレゼントとしては、とてもロマンチックなのである。
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年老いたエルトン
 エルトン・ジョンの最も長くて切ない曲 Funeral For A Friend/Love Lies Bleeding (葬送〜血まみれの恋はおしまい)ではじまった2001年の来日公演ライブ。いまBS11でそれを見ながらこれを書いている。

 バンドを従えての通常の公演は27年ぶりというから,僕が大阪の厚生年金会館の27番目の席で見たとき以来ということになる。エルトンは1947年生まれだから今年で55歳だ。よく見れば哀しいほどに年をとった。顔貌や体型じゃない。ピアノの横に,その日の演奏曲目が貼ってあったからである。

 ロケット・マンが聴こえてきた。さて,パソコンを閉じて,昨年のコンサートの仲間に入りこむことにしよう。
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ミリオンゴールドの花
 夕立のない日の夕方は、毎日花壇の水遣りをしている。前から順にスィートアリッサム,日々草,インパチェンス,メランポディウム、マリーゴールドと咲いている。今年の夏は暑いのだが,毎日の水遣りのかいあってか、インパチェンス以外は見事に咲き誇っている。アフリカ原産のインパチェンスは,雨には強いが,むし暑い夏の日ざしに弱い。あざやかさのわりには夏の日蔭を好む。

 マリーゴールドは種子を買う際に,わい性のメキシカンを買ったつもりが,まちがってアフリカンを買っていたようで,草丈が一メートルを超え、茎葉も大ぶりで、花径も十センチほどになってしまった。支柱を立てるのが面倒だったが,結果的に花壇が立体的になって,道行く人の目を楽しませている。

 今はお盆である。近所の人たちが,菊に似たこのマリーゴールドに目をつけ,繁りすぎた部分を手折ってお墓に持っていく。根ごと抜き去らない限り,常識を逸脱しない限り,花を手折る人は花泥棒という罪には問われない。

 今年の夏の収穫は,メランポディウム(ミリオンゴールド)である。発芽して育った苗はとても小さかったのだが,六月に花壇に定植して驚いた。その後二週間ほどしてから、株は成長をはじめ,二センチほどの一重の花が日々次々と咲きつづけ,今では五十センチ四方に盛り上がり,株がゴールドの花に覆われてしまうほど見事になった。酷暑に耐えて咲きつづける姿は,一糸の乱れもなく,一見してほかの草花とちがう。タキイ種苗で販売されているので,来年の花壇にはぜひお薦めである。

 エリーちゃんがイタリア旅行の報告をくれたが,僕も来年の八月はイタリア行きである。さしずめ,オリエント急行の旅を考えてはいるが,目当てはまだ模索状態である。ローマがいちばんなつかしいし,フィレンツェもすてがたい。ヴェネチアは外したくないし,一度も行ったことがないトリノにも行ってみたい。そう考えると,一週間ではとてもとても。いずれにせよ,来年の花壇には、今年のように夏の花は咲かせられない。
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ライブ
 ビデオレンタルショップからライブビデオが姿を消してよりどれくらいたつんだろう。おそらくは著作権や肖像権の問題が端を発したものだとは思うが,爾来、かのミュージシャンたちのライブを見るには,コンサート会場へ足を運ぶよりしかたなくなった。ビリー・ジョエルのレニングラードのコンサートやサイモンとガーファンクルのセントラルパークでのラストコンサートなどは,ダビングしたものがビデオラックに並んでいる。

 今週,NHKの衛星放送が久しぶりにライブ放送をする。12日,エアロスミス,13日、エルトン・ジョン,14日、エリック・クラプトン,15日,セリーヌ・ディオンだ。レッド・ツェッペリンをやって欲しいのだが,いまだ彼らは登場したことがない。WOWOWでは浜崎あゆみや井上陽水,南こうせつをやっているがあまり興味はない。特に陽水は魅力がだんだん失せていく。

 まあ,セリーヌ・ディオンはともかくとして,はじめの三人はビデオとMDにとっておくこととしよう。11月来日のポール・マッカートニーのコンサートはどうしようかなあ? あの子に電話して,行くといったらチケットをとろうっと。僕は未だかつてビートルズの面々とじかに接したことがないのである。きっとラストチャンスになることだろう。
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ギャラリー・ワンアップ
 適当なイラストを捜してきてMY HPの中の一節をつけ加える。今日の「裕子の休日」は,裕子シリーズ1からのものだ。

 少々手抜きといえなくもない。が,この暑さ、継続には体力がいる。脳の細胞が機能しなくなってきた。今日のミステイクは,ちょっとばかり神経を摩滅させた。とり返しがつかないほどではないが,一週間分ほどのダメージにはなった。束の間のジャッジメント,性急すぎたのかもしれないが,傷は浅いほうがいい。
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蝉の声
 「ミーン,ミーン,ミーン」 銀行へ行く途中、街路樹いっぱい,ところ狭しと蝉が鳴いている。

 やなやつがやってくるのが目に入った。知らんふりして行き過ぎようとしたが,そんなときに限って声をかけられる。

 「暑いな。ちょっとそこでお茶でも飲もうか?」

 「いや、銀行に用があるんでまた今度」

 「仕事の話だ。先に行って待ってるよ」

 昼飯どきだ。アイスコーヒーだけですむわけがない。けど,仕事の話といわれるとむげに断るわけにもいかない。

 案の定,ホテルの一階の食堂に入ると先にランチを食っていた。やつの前には僕の分もならんでいた。しかたない,食べるとしよう。ゴルフの話をして,例の飲み屋にきれいな女の子がきたという話を訊いて,それからそれから・・・・・。仕事の話なんて,ぜんぜんでてこない。

 「ミーン,ミーン、ミーン」 硝子越しにまで蝉の声が聞こえる。

 「今年に夏は暑いなあ。やけに蝉の声がうるさく聞こえるぜ。ミーンていうんは、会いたい会いたいって鳴いてるのかな?」

 珍しく粋なことをいうじゃんか。だが、ちがってるよ。ボキャ貧だ。おまえにケチ,ケチ,ケチって鳴いてるんだよ。

 やつは細かいものの持ち合わせがないと言って先にホテルを出ていき,ランチ代を払ったのはやっぱり僕だった。

Mean =けちな、いやしい
meet =会う、知り合いになる
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背後にあるもの
目の前にはNECのパソコンが二台,
エプソンのプリンターとスキャナーが一台ずつ,
パイオニアのコンポが一台ある。

画像は背後にある書棚の一部である。
その蔵書数は数えたことがないからわからない。
が,たいしたことはない。
よく見てもらえればわかるとも思うが,
蔵書の約九割はNOVEL(小説)だ。

僕は教養ものやハウツーものを好まない。
残りの一割は美術,歴史,園芸など百科事典系統,及び辞書系統である。

つまらなかったものは引き違い書棚の後ろに詰め込んでいる。
以前はそこで裏ビデオなるものを隠し持っていたが,
子供の成長と共に見つかったらバツが悪いと、好きなやつにやってしまった。
ベストセラーになった「金持ち父さん貧乏父さん」は退屈極まりなかったので,
半分も読まないままそこへお蔵入りである。

小説は想像力の産物だと思っている。
空想を働かすことは楽しい。
ちがった世界が目の前に現れ,
タイムトラベルをしたり,
登場人物に感情移入をする。

必ずしも書物で教養が身につくとは思わない。
また生きていくうえで教養は邪魔なことさえある。

僕は活字を読むことより行動することのほうが好きである。
願わくば映像の世界に浸りきることより,
現実の世界に充足した日々を送りたいと思っている。

僕は本が好きだ。
本を読むことよりも本というものが好きである。
とりわけ小説というものが・・・・・・・。
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ナツバテの巧妙
 ナツバテによる食欲不振に陥ってから約二週間になる。相変わらず誘いを断れなくて,今日もゴルフに行ってきた。スコアはそんなに悪くなかった。握りもプレイ代ほど買ったし,腰痛と肉体疲労を除けば,気分は上々である。

 が、プレイ後の入浴の後のことである。体重計に乗ると,まさか60kgを切っていた。プレイ前,マスター室にいる女性に痩せたねと言われていたし,79のズボンがゆるくなっていたし・・・・・,ベルトのほうも緩々だった。

 よくよく見ればずいぶんとお腹がへこんでいた。椅子にすわっても腹のたるみがなくなった。体力はたいして落ちていない。このままだと76のズボンが必要になるだろう。体重が60kgを切り,ズボンのウエストが76になるということは,20代の体格に戻ったということである。

 顔のほうまでは戻るべくもないが,うしろ姿,遠方の姿だけでも20代であれば,喜ぶべきことだろう。時代遅れのスーツを着ることは適わないが,今のならベルトを絞めれば何とかなる。大は小を兼ねるということだ。

 ナツバテの巧妙,スタイルは戻った。あのときのように声をかければ,誰か立ち止まってくれるかなあ?
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マルヴェッツィ館の殺人
 久しぶりに読みごたえのあるミステリーに出会うことができた。ミステリー好き,歴史好き,イタリア好き,音楽好き,オペラ好きの人には堪えられないだろう。北イタリアの風光明媚なコモ湖とミラノの社交界がその舞台となっている。
 
 上巻は時間がなくて進み具合が悪かったが,下巻のほうは今日の午後だけであっという間に読み終えてしまった。時代背景は19世紀初頭。ナポリ,ピエモンテ,ロンバルディアなど各地方が独立した一国をなしていて,イタリアとしての統一はされていない。とりわけ北イタリアでは,フランス,オーストリアの侵略をたびたび受け,ナポレオンに同調する自由主義者たちが暗躍する混乱の時代だった。

 「マルヴェッツィ館」はミラノの北,コモ湖のほとりにある豪奢な別邸である。ある夜,マルヴェッツィ家の当主,ロドヴィコ侯爵が殺害される。しかし,ロドヴィコの死は病死として隠され,四年半を経たのち、突如殺人事件として発覚する。ロドヴィコの死の前後,ロドヴィコに庇護を受けていた謎のテノール歌手オルフェオが、行方をくらませたとして、重要容疑者として手配される。
 
 別邸に集まる登場人物のほとんどが殺意を持っていた。ロンドン社交界一のダンディー、ジュリアン・ケストレルは,ミラノ警察捜査指揮官グリマーニに対抗して独自の捜査を開始する。美しき未亡人ベアトリーチェへの恋に苦しみながらも、一人の男ジュリアンとしてよりも,探偵としてのケストレルを優先させ,冷静に犯人を追っていく。そこには驚くべき真実が,次々と・・・・・・・。

 絶体絶命のピンチ,ジュリアンが唯一犯したミスが事件を迷宮入りさせようとする。が、ジュリアンが死を賭した賭けが、すべてを解明に導いていく。

 また、犯人探しもさることながら,作者が綴る19世紀の北イタリア、コモ湖の情景、時代描写、音楽(とりわけオペラ)なども読者を楽しませてくれる。

 残念ながら,ジュリアン・ケストレルという素晴らしいキャラクターを生み出し,当作品で1998年度アガサ賞最優秀賞を受賞したケイト・ロスは,その年の3月,癌のため41歳という若さで逝去している。「マルヴェッツィ館の殺人」は彼女の第4作にあたり,以後ジュリアン・ケストレルの活躍を見ることはできなくなった。

 講談社からすでに刊行されている「ベルガード館の殺人」 「フォークランド館の殺人」 を読むばかりである。
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新しい電話番号
NTT西日本から電話番号の変更の連絡があった。
来週の金曜日、8月9日の午後からになるらしい。
以前の所有者の番号は嫌だから新規の番号を依頼していたのだが、
インターネットの都合上,新たな局番は使用できないという。
市内局番は変更できないということだ。
少々突っ込んでみたが,
返事はISDNおよびADSL回線工事を
端からやり直してくれるのならというのでしかたない。

NTTの職員は番号を五つ提示してきた。
その中から気に入った一つを選べということだ。
むろん先の所有者の名前は教えてくれない。
それで五分間だけ猶予をもらった。
最後の四桁だから会社四季報を調べてみた。
いちばん気に入った,もしくはいちばんましな銘柄コードを選んだのであった。

みなさんには内緒だが,
いい頃合いを見計らってその株を買ってみようと思っている。
いい頃合いとは市場全体が暴落をしたときである。
むろんその会社は優良企業である。
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しばし
体調不良のため休息をとっています。
過去の校正やギャラリーのアップをしています。
この程度のことなら負担は軽くてすみそうです。

「マルベッツィー館の殺人」はなかなか面白い作品です。
19世紀のイタリアに遡って,
コモ湖のほとりの別邸が舞台で情緒あふれる物語となっています。
主人公のジュリアン・ケストレルはちょいとかっこよすぎる人物です。
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