2002年01月の記事


世論
今回の田中真紀子外相更迭劇には,
多くの国民が不満をもらしている。

ヤフートピックス(共同通信提供)では,
二人の更迭は英断の3700票に対して
小泉がやめるべきが5200票となっている。

冷静になって考えてみるといい。
彼女が外相になってどれほどのことをしてきたのか。
まず人心を掌握して,人材の適材適所をどうして考えようとはしなかったのだろうか。

旧態依然とした役人根性まるだしの外務省を
徹底的に改革しようとしたことは
日頃不満だらけの国民にとっては一つの清涼剤のようなものだった。
数々の外務省の不祥事が露見するたびに,
国民は真紀子大活躍と拍手喝采を送った。
そう改革に乗り出したまではよかったのだ。

だが,実務の外交にはあまりに知識不足だった。
さらにわがままで好き放題言わなければ気がおさまらなかった。
口も軽く失言が多かった。
秘密事項をもらしたことなどあって,
アメリカは外相を通さず,直接内閣に連絡を入れていた。
すでに日本の外交は機能不全に陥っており,
その機能不全は国会審議にまで悪影響を及ぼしてきていた。

彼女の父,故田中角栄元首相は日本の高度成長期に頭角を顕し,
日本列島改造論をぶち上げて首相にのしあがった。
そのころから日本は経済大国の名を欲しいままにし,
欧米からはエコノミックアニマルと揶揄されたほどである。
日本の経済は極めて貪欲だった。
ハイテクや自動車など輸出企業は向かうところ敵なしほどに成長を続けていた。

列島改造論により地価は高騰し,
多くの株式や土地を持っている人が大金持ちになっていった。
いわゆる1980年代後半のバブルの先鞭をつけたのが彼だった。

田中氏自身もロッキード汚職疑惑で退陣させられるまで,
絶え間なく暴利をむさぼっていた。
必ず儲かる新規公開株や転換社債のかなりの数量が彼のもとへとどき,
その売却利益は計り知れないものであったという。
議員たちは田中詣でを続け,それは札束詣でとも言われたという。

田中角栄氏の疑惑は解明されないままだった。
あのとき,どれほどの国民が事件の解明を期待していたことだろう。
彼は地元だけの英雄になりさがり,
国民の多くは汚れた元首相を恥じていた。
衆議院選挙では田中氏の当選を阻止すべく,
野坂昭如氏が新潟選挙区で立候補したほどである。

その彼が死んで,真紀子氏がその遺産相続をした。
自身の政策によって彼が得ていた財産は膨大なものであり,
真紀子氏は他の議員のように資金の心配も,
選挙区での支持の心配もいらなかった。
地元での支持者の相続ですらしていたのである。

もとより真紀子氏は恐いもの知らずだった。
まわりの環境が彼女をそのように育てていた。
国民が彼女を支持する歯に衣を着せない発言は、
彼女が育ってきた環境に起因している。

田中角栄氏が絶頂期のとき,
国民は彼の列島改造論を支持し,
彼の歯に衣を着せない発言は,一時は彼を英雄のようにした。
道を踏み誤らなければ名相の名を欲しいままにしたことだろう。

むろん親の失政を娘が背負うことはない。
だが,国民の多くが、彼女いたからこそ小泉内閣を支持していたというのなら,
世論なんてものに聞くべき耳を持つほうがおかしいのであって、
世論などという大衆迎合的なものを無視して,
正義の戦いを継続する政治家こそが大切なような気がしてくる。

為政者とは誰であれ好き嫌いで決めるべきではない。
人々のために何をしようとしているか、何をやってのけたかが肝心であり,
我々は大所高所から為政者を見つめなければならない。

田中真紀子氏の捲土重来を期待する。
批判するだけでなく,今一度勉強しなおして,
周辺の人々に信を得られるような政治家になってもらいたい。

鈴木宗男氏,彼はもとより政治家としての資質に欠けている。
論外である。
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所詮政界も人気投票
田中真紀子外相が更迭されて,
小泉内閣の支持率が38パーセントに下がったようである。

小泉内閣はその支持率低下を回復すべく,
前国連難民高等弁務官、緒方貞子さんを
外務大臣にと打診しているらしい。

緒方さんは先のアフガン支援政府代表を
難なく務めあげ,その存在感を諸外国にも知らしめた。
彼女の難民支援における世界的貢献は大であり,
のちのノーベル平和賞に推されても然るべき人だと思っている。

彼女が外務大臣をやってくれるのなら,
今の日本にとって誰よりも適任かもしれない。
教養があり,賢明で,何より高潔な人である。

しかし,彼女は72歳である。
さらに彼女の人間としての美的生きかたを思うと,
彼女の余生をあの汚れきった日本の政界で
泥にまみれさすには忍びない気持ちを感じてならない。

田中真紀子はあまりにヒステリックだった。
お嬢さん育ちで人間の気持ちを理解しようとはしなかった。
正しいことと間違ったこと,その自己判断一つを武器に,
内部での人的交流も少なく,人心を把握することもせず,
やたら命令ばかりしていても人の心はついてこない。
彼女は官僚たちの反感を買いつづけた。
敵は自らの掌中にいたのだ。

大橋巨泉が議員辞職をした。
たった半年で自分の思うとおりにならないと辞めてしまった。
一年の半分を外国に住んでいて,
自由気ままな生活をしていた彼にとって,
苦労をせずともなれた参議院議員など、
お遊びの一つでしかなかったのだ。

大橋巨泉は元祖11PMの司会で名を売ったタレントである。
テレビでお色気とヌードを売り物にした先駆けの番組である。
彼の司会などというものは下品で見てられなかった。
傲慢な考えを言いたい放題言い,
気にいらない政治家や役人たちを虚仮にして楽しんでいた。

考えると所詮政治家もタレントと同じ,
人気投票だけのものである。
前任の大阪のセクハラ知事に東京の無責任知事,
彼らを選んだのは民衆だ。
束の間のお遊びのめがねの太っちょを
参議院議員に選んだのは国民だ。

いっそ大統領制を作って国民投票にしたら、
誰が一番票を集めるだろうか?
そりゃあやっぱり長島さんがいちばんになるだろうな。
彼が立候補するとしての話だが・・・・・・・。

日本の国民の政治レベルはそんなものなのだ。
経済二流国,政治三流国のレッテルはもう貼られている。

小泉内閣の支持なんていくら落ちたって構わない。
願うことは緒方貞子さんを倒れさせないでということだけである。
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ムーブ・オーバー
月は窓に一条の光を投げかける
そのうちに闇の中から
かつての肖像画が現れてくる

ナイトガウンに包まれて
夢みるようにジャニスは
壊れたピアノを打ち鳴らす

曲の調べにつれて
若き日が想い出される
過ぎ去った夢は,恋は還ってこないのか

肖像画が蒼ざめた色をした
光の枠で覆われていく
ムーブ・オーバー,それはジャニスの祈り
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『あばかれた影』  
イエスは壁から見守っている
けれどその顔は石のように冷たい
もしも彼女がいうように
イエスがわたしを愛しているのなら
なぜわたしはこんなに孤独なんだろう?

   / キャリー・ホワイト  

     by Stephen King
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アンドレルチアーノ
 アンドレルチアーノというブランド名には、懐かしい思い出がある。あまく切ないといったほうがいいのかもしれない。

 現在の彼女の年齢を指折り数えてみたら,すでに三十路に入っていた。私が彼女と初めて会ったのは,彼女が愛媛大学英米文学科三年生のときである。

 二月の寒い季節だった。私は仲間たちと松山に旅行に来ていて,夜の宴会で彼女と知りあった。アルバイトのコンパニオンの中で彼女だけが学生だった。ひとまわり以上年齢が離れていたというのに,私たちは意気投合した。宴会がすんでから,私はみんなから抜け駆けをして,一番町の女性自身というスナックで彼女と落ち合った。

 そのスナックは取引先の社長のいきつけの店で,私は何度か飲みに来ていた。私はその社長のボトルを拝借し,熱いお湯わりを作ってもらった。温子は服装を変え,化粧をしなおしてきていた。コンパニオンのユニフォームを脱いだ温子は,まだ初々しさが感じられた。温子はそのとき二十一歳だった。

 アルコールが入ると陽気な娘だった。流行の歌を彼女なりにアレンジして歌い,ソプラノのような高い声は誰の耳にも響きわたった。どこかのグループのボーカルとしてもやっていけそうだった。うまいというより個性があった。

 松山では愛媛大学のことを「愛大」というらしい。高松から来ている温子は,一人ワンルームに住んでいた。いろいろなアルバイトに精を出しながら,お金をためて秋からのロンドン留学をめざしていた。

 温子は一重瞼だった。すべてが小作りな顔立ちで,おちょぼ口がとても似合っていた。二重瞼のほうが目がくっきりとするので,二重瞼の美容整形は最も一般的だが,温子はその切れ長の一重瞼が似合っていた。

 宴会ではロンドンの話をよくしていたように覚えている。私は三度ばかりイギリスを旅行していたし,大学では温子と同じ英米文学を専攻していた。私の話は半分作り話のようなものだったが,温子は熱心に耳を傾けて,友人たちが中に割り込んでくると,さっと身をかわして,また私のところへ戻ってきていた。

 その夜,私はタクシーで温子を送った。午前一時をすぎていたころである。温子のマンションの名前は「葡萄館」だった。温子を送り届けたあと,タクシーが奥道後に向かって走り出したとき,私が名残を惜しんで振り向くと,温子は私が見えなくなるまで手を振っていた。そのことに私は感動を覚えた。

 旅行が終わり、家に帰ってしばらくしてから、私は温子に手紙を書いた。どんなことを書いたのか,それは全く記憶に残っていない。ただ,色恋でなかったことだけはまちがいなかった。私は一番町のスナックをでて,温子と歩いているすでにそのとき、彼女との恋はないと直感していた。それでも、私と温子はとても話が合っていた。

 しばらく手紙のやり取りが続いた。まだあのころはお互いにポケベルしかもっていなかったので,電話で話すことはごく稀だった。夏のある日,私は温子を神戸に呼ぼうと思った。その提案をすると,温子は行ってみたいと返事した。温子二十二歳、四年生の七月である。私は松山伊丹の往復航空券を送り,やってきた温子に神戸の街を案内した。

 宿泊はそのころの神戸でいちばんいいホテルを選び,神戸の夜景が一望できる部屋を選んでいた。私はツインの部屋をとっていた。その夜は温子と眠るつもりだったのだ。あのときの直感を忘れ,温子を抱くことを期待した。

 神戸のしゃれたナイトスポットで楽しい時をすごし,ホテルに戻ったとき,意外にも温子には警戒心が生まれていた。酒に酔い,開放感いっぱいだった温子の表情が一変した。「いっしょに寝るなんて思ってなかった」

 その夜,私は温子の肌に触れることなく睡眠をとった。温子がすやすやと眠る寝顔だけを早朝に見た。次の朝,私は午前中港を案内し,それから空港まで送っていった。私はたいしては落胆していなかった。あのときの直感が思い出されたからである。

 その後,温子のイギリス留学をはさんで,五年間ほど交流が続いたと記憶している。以後、三度の出会いがあり,それは再び松山の一番町だったり,岡山だったり,京都だったりした。温子は郷里高松でOLになっていて,家族と一緒に暮らしていた。

 私は妻子ある身だから、温子の縁はいつ切れてもおかしくはなかったのに,手紙のやりとりや電話での会話は長く続いていた。私と温子は,情を交わすうえで相性がよくなかったのだろうと,今になって思う。友人でいられたなら,兄と妹のようでいられたなら,今でもまだ温子の消息を知っていただろうと思っている。

 私と温子の縁の切れ目は,アンドレルチアーノのコートだった。秋の終わりのころだった。四条河原町の百貨店に入ったとき,イタリヤードの店があった。温子は一目散にそのコートのそばへ走っていき,何度も試着しては欲しい欲しいと言っていた。決して私に買って欲しいといったわけではなかった。しかし,私は買ってやった。

 ホテルまでの帰り道,手提げ袋にアンドレルチア-ノのコートを持った温子は,私の左腕にしがみついて,「ありがとう,ありがとう,うれしい、うれしい」を連発した。そのとき,温子の胸のふくらみが私に触れて大きく弾んだ。

 私はその夜,アンドレルチア-ノのコートを着て喜ぶ温子を抱こうとした。しかし,温子は激しく拒絶した。「私には好きな人がいるの。あなたには奥さんがいるでしょ。無理やりするならこんなものいらない。あっちへ行ってよ」 

 「嫌なら嫌で,言いかたってものがあるだろう。僕はどうしてそんなひどいことをいわれなきゃいけないんだ。もう帰るよ」 私は地下の駐車場から車に乗ってまっすぐに家に帰った。私は車を運転しながら,「はじめの直感を忘れていた。縁があるなら男と女は自ずと結ばれていくもんだ。無理はよくない。これで終わりだな」そんなことを考えた。

 翌朝、携帯には留守電が入っていた。「ごめんなさい。ひどいこと言っちゃって。あなたにはいつもやさしくしてもらってたのに・・・・・,許してくださいね。さよなら」

 それから私たちは一度も連絡を取り合わなかった。震災のとき,心配をして電話してきた温子の声が思い出される。初めて会った夜の温子の歌声が聞こえてくる。必要のない欲望を抱いたがために,一人の女性の友人を失ってしまった。

 あれから六年が過ぎた。温子はきっとどこかへ嫁いでいるだろう。あの夜にはすでに、温子は好きな人を失ってしまっていたのだった。アンドレルチアーノ,その名前をついこのあいだ耳にした。温子はまだあのコートを持っているだろうか? そして,元気でいるだろうか?


 三日前,京都のアパレルメーカー,イタリヤードが自己破産を京都地裁に申請,同日破産宣告を受けた。負債総額は五十八億円,イタリア調のカジュアル衣料など婦人服の販売低迷が続き,資金繰りが悪化した模様である。

 1976年に設立された同社は,若い女性向のブランド「アンドレルチア-ノ」「フロリダキーズ」などの販売で急成長,1995年に大阪証券取引所第二部に上場した。

 しかし,その後の消費低迷で人気が衰え,1996年7月期に175億円だった売上高は,昨年同期には70億円にまで落ち込み,上場から六年余りで自己破産申請に追い込まれた。申請時点では43億円の債務超過だったという。
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企業公害
人災ならぬ企業災害は,
数々の歴史をもっている。

代表的なものにチッソによる水俣病災害,
森永乳業による砒素ミルク中毒,
ミドリ十字薬品による薬害エイズ事件がある。

チッソが水俣湾に流しつづけた有害物質(メチル水銀)について、
水俣湾の魚を食べる住民の多くに奇病が発生し,
その原因はチッソの廃棄物にあると指摘されはじめてからも
行政指導を受けるまでやめられることはなかった。
企業と国を相手取って長年続けられた水俣病訴訟は、
環境公害訴訟の先駆けである。
あまりに痛ましい災害で,
多くの人々が治癒することのない奇病に苦しみながら死んでいった。
発病者およそ17000名,死者1408名,
いまだに難病に苦しむ人の数は計り知れない。

森永砒素ミルク中毒については,
昭和30年、西日本を中心とした地域で原因不明の奇病が発生した。
罹患していた乳幼児のすべてが森永のミルクを飲んでいることが判明し,
岡山大学医学部の調べで砒素が混入していることが発見された。
翌56年,厚生省は被害児の数を12131名と発表した。
そのときすでに130人の乳幼児の命が失われていた。
そして,厚生省の後手後手の対応によりさらに多くの子供たちの命が奪われていった。

その後、厚生省は一斉検診と治癒判定基準に基づく判定を指示、この結果被害者のほとんどが「全快」の判定を受け、「後遺症の心配は無い」「原病の継続である」との判断がくだされた。
検診に当った医師の中には経過観察の必要性を強調した者も少なくなかったが、その体制はとられず、69年の丸山報告に至るまで被害児は医療から見放され、追跡検診を受ける事はなかった。この14年間に適切な治療、手当てがされてたら、或いは人並みに生きていけたかもしれない。その罪は計りしれない。

森永乳業の不十分な対応に対して,
18年間に及ぶ訴訟,裁判が継続され
怒りの消費者からは森永不買運動が起こった。
このとき,弁護団を率いていたのが中坊公平氏である。

薬害エイズ事件についてはみなさんご存知の通りである。
人間の生命よりも企業の利益を優先させた
なんとも痛ましく許し難い人災である。


ところで昨年から上記ほどにはひどい災害ではないが,
雪印グループが昨年に続いてまた世間を騒がせている。
消費期限をすぎた牛乳を再加工して,
インチキ販売して食中毒を起こし、
スノーブランドが長年積み重ねてきた信用を失墜させ、
雪印乳業は創業以来の赤字転落となった。
チーズやバターなど雪印商品にファンは多かったのだが,
理解に苦しみ失態であった。
経営陣に驕りがあったとしか考えられない。
それでもなんとか国民に頭を下げまくって、
小売店には従来よりもずいぶんと安い原価で提供し,
どうにか元どおりに商品が店頭に並ぶようになっていた矢先のことである。

今度は子会社の雪印食品が業績不振をどうにかしようと,
国の和牛優遇処置を利用して,
オーストラリア産の牛肉を国内産と偽って業界団体に買い取らせていた。
これは食中毒は起こらないから人体に影響はないものの,
苦しんでいる国内の畜産業者に追い討ちをかけるものであり,
まあ,よくもやったりの悪質な詐欺事件である。

こうなってくると,雪印グループの企業理念は
まやかし同然であり,
再び失墜した信用を取り戻すことは至難の業だといわねばならない。
失墜した信用は,消費者のみでなく,金融機関にまで及び,
早晩資金ショートをきたす恐れがある。
それでさえ,昨年の事件で業績は悪化しているのである。
万が一会社再生法の適用となればまたまた社員が路頭に迷うだろうし,
取引先や畜産農家は甚だ迷惑をこうむるだろう。
大手企業が潰れれば連鎖倒産は必ずおこる。

だから,敢えて言いたいことを言わずにおこうと思う。
「雪印不買運動を推進しよう。
消費者を、国民を馬鹿にした雪印ブランドを追放しよう」 などとは言わない。
みなさん知らんぷりしてあげてください。
今回は刑事事件なんです。
判決は代表取締役並びに役員、及び現場責任者に西宮冷凍庫禁固刑,
期間は程よく凍りつくまででいかがでしょう。
むろん罰金刑はもちろんのことであります。

皮肉なことに、かの森永乳業の株価が上昇し,
雪印乳業の株価は上場来安値を更新するばかりである。
雪印グループの存続は結果的には消費者が決めることになるだろう。
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愛が走りぬけるとき (1975〜1976)
努力すれば真昼の星が見えるという  4/14〜6/30

何ものでもありうる故に,なにものでもない生の季節  7/1〜9/30

青春は,己が額に流星をうけとめると信じていた頃  10/1〜12/31

恋のはじめの日,堕落のはじまりかも  1/1〜2/22

     /藤野 玲  十七歳の日記目次より
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もしも
もし空想や情熱が
その果てしない魅力をもって
宇宙のようなパワーの中に私を掌握し
絶え間ない現実から私を追い払ってくれるものなら・・・・・・・
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JGAハンディーキャップ
JGA認定ハンディーキャップが
10から11に下がってしまった。

シングルプレーヤーにあと一歩のところまで行っていたのに,
逆に一歩遠ざかってしまった。
11は3年ぶりのことである。

一つ上がるのにどれほど時間のかかることか、
いいスコアを連続して出して早くて半年後である。

競技では悪くとも82まででラウンドしなくてはならない。
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無料掲示板
無料掲示板にしたのが悪かった。
HomeはMY HPへリンクだと気づいたとき,
すでに知るものには知られていた。

せっかく写真集を作りあげたというのに,
同窓会掲示板の削除,変更を申し入れた。

ホームページは同級生には知られたくない。
決して,何故だか・・・・・・・。
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伝家の宝刀
ごへ君が賭けをしようかなどと言ってはいたが,
まさかあの宝刀が抜かれるとは思いもかけなかった。

ダイエーの存続は年末年始を挟んで,
政府高官による大手銀行への支援要請によって,
倒産の危機は回避できることとなった。

大きすぎるから潰せない,
そんな屁理屈のようなことがまかり通り,
ダイエーだけが至れり尽くせりの救済劇となった。

大手四行からの金融支援は,
4200億円になんなんとする。
金融機関からは厳しい再建計画が求められているが,
潰されてしまったマイカルのことを思えば,
なんという幸運であろうか。

株価は本日急騰し,二週間前の二倍以上に跳ね上がった。
証券マンたちにも全くの予期せぬシナリオとなってしまった。
実質的な判断で損切りをしてしまった投資家にはさぞ無念なことだろう。

かつて,金融不安が日本列島を震撼させたとき,
外資の圧力に屈した日本政府は山一證券を生贄のようにして倒産させた。
山一證券の株式自体は全くの紙切れになってしまったが,
顧客の預かり資産や額面割れしていた社債などは全額返済され,
倒産のおかげで利益が出たところもあったのだ。

債券を全額返還できる企業が倒産するはずがない。
山一倒産の後,すぐにメリルリンチがやってきて後を引き継いだ。
その悪徳メリルが日本ではうまくいかないと、
大幅な店舗削減と人員削減を発表した。
これはビジネスミスで,ざまあ見ろと言いたいが,
やっぱり旧山一の社員がリストラの悲劇にさらされる。

当面ダイエーは安泰である。
よけいなことをせず,本業一筋にやっていれば,
早晩業績は回復してくるだろう。
これだけ至れり尽せりなのだから。

どうしてダイエーだけが・・・・・,そう思われる方がいるはずである。
むろん倒産が回避できて,
関係者には喜ぶ人がありこそすれ,喜ばない人はいないはずである。
しかし,どうも腑に落ちないことも事実である。

伝家の宝刀の意味を語ることはタブーである。
しかし,まちがいなくそれは抜かれたのである。

日本国憲法第十四条 「すべての国民は法の下に平等であつて、人種,信条,性別,社会的身分又は門地により,政治的,経済的又は社会的関係において,差別されない」
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七年前
あの夜は日付が変わって日曜日だった。
あと三時間早く地震がきていたなら,
僕は車の中で死んでいたことだろう。

地震に気がついて目が覚めたとき,
引き違い書棚がもう少し傾いていたなら,
僕は逃げ遅れて押しつぶされていたことだろう。

震災の後の神戸の街,
僕が神戸で下宿をし、
大学へ通いつづけた街並はもう残ってはいない。
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ノスタルジア  そして次の時代へ
一月三日に行なった○○年ぶりの同窓会の
世話をした三人が集まって写真送付やら会計等のあとかたづけをした。

さて,来年もやることになるのだろうか?
今日も三人だけでも話はなかなか尽きなかったので,
やる羽目になるかもしれない。

今年は参加したくても出来なかったメンバーもいることだし,
そのことを考えるともう一度という気にもなってくる。

あの子とまた会えるならやってもいい,
そんな邪まな気持ちがないでもないが,
楽しかったのはまちがいのないことである。

☆☆さん,来年こそ来てくれるよな。
あしたは郵便局へ行く日である。
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みぞの鏡
ハリー,夢ばかり見つめていると,
現実からとり残されてしまうぞ。

私はそんな者たちを多く見てきた。
そろそろこの鏡を取り外してどこかへしまっておこう。
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六波羅蜜寺
何のことはない,単なる思いつきの場所が,
検索を余儀なくさせられることとなった。

連載中のお話につい出てしまったための辻褄合わせ、
うまい具合に平家が結びついていた。

こんな偶然てあるだろうか。
数ある京の寺の中から思いついたのが六波羅蜜寺。

以下は検索に精を出していたときに知り得たことである。


 六波羅蜜寺の「本堂」に密接して南側に「阿古屋塚」がある。

 この塚はかつて五条坂に住んでいた遊女「阿古屋」の菩提を弔うために鎌倉時代に建てられたもので、下の台は石棺の石蓋といわれている。

 阿古屋については浄瑠璃『阿古屋の琴責め』で次のようにかたられているという。

 平家の残党である景清の行方を探すため、代官畠山重忠は景清の恋人である遊女阿古屋を捕らえる。阿古屋は景清の所在を知っていたが、阿古屋が弾かせられた三味線や琴の調べに一点の乱れもなかったことに畠山重忠は感動し、彼女は釈放される。


ものを書くことは いろいろな勉強をさせてくれる
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再度 マイカルとダイエー
昨日マイカルの八割引セールがテレビのニュースで話題になったが、
なんら驚くことはない。
全店の残りかすのような在庫を片付けようとしただけで、
金額にして百億円あったということは、
全品売り切れば八十億円損をするということである。
売れ残りが出れば廃棄処分だからもっと損が出る。

スーパーがいかに利益を出せるかということは、
衣料品の販売力にかかっているといって過言でない。
衣料品が最も粗利益率が高いからだ。

大手スーパーの中で衣料品が得意分野だったのは、
イトーヨーカ堂とニチイだった。
ダイエーは画一的な戦略をとるものだから、
食品と日用品はずば抜けて強かったが、
衣料品がずいぶんと苦手だった。
だから売上は業界ナンバーワンでも、
経常利益でははるかにヨーカ堂に及ばなかった。

マイカルは、社名がニチイの頃は
いい衣料品を安く販売して、衣食住の三部門がバランスよく展開できて、
めきめきと頭角をあらわしていた。
しかし、その後サティとビブレなどという百貨店志向を強めたため、
バブル崩壊後の消費者のニーズに対応しきれなくなっていった。
挙句に、集客のためと娯楽施設に膨大なお金を投入したりして、
見返りのないビジネスに明け暮れてしまった。
気がついたときは後の祭りである。
不良債権を膨大に抱えるゼネコンとまったく似たようなものだ。

目立たぬようでバランスがよくとれていたのがジャスコだった。
ヨーカ堂ほどではなかったが、
合併しながら大きくなっていたため、
創業者の影響度が少なく、
身の程をわきまえたビジネスに勤しんでいた。
都会ではそんなに強力ではなかったが、
ローカル都市では持ち前の柔軟さで、
お客様の声を大切に品揃えをするということに重点をおいていた。

マイカルの八割引セールでは、
夏物も多く見受けられた。
どう見ても2〜3000円にしか見えないメンズシャツに
9800円の値札がついていて、
その下に1000円の赤い割引シールついていた。
そして、そこから八割引すると、200円の売価となった。

9800円という初めの価格がインチキなのである。
割引用に作られた商品は、前以って二重価格になっていて、
安さを煽って衝動買いを誘うのである。

だが、バブル崩壊以降、消費者も賢くなって、
そんなインチキにだまされなくなってきた。
いいものとそうでないもの、
安いものと高いもの、
品質と価格のバランスを欠いた商品には
消費者の不信を買うだけになっていった。
 
そして、定番商品の粗利益は、50パーセントを優に超えていたことだろう。
少なくとも原価の二倍では売っていた。
そうしないと季節中頃からのバーゲンができなかったからである。
最終利益は30パーセントを目指してはいたが、
その目標数値も在庫一掃もできなくなってきた。
客離れが起きてきたのである。

その状況の最も顕著な企業はダイエーだが、
取引先のグループでは、返品のダイエーとまで異名をとっていた。
ダイエーからの返品でどれだけの問屋が潰されたことだろう。
だから、よけいダイエーにはいい商品が少なくなっていった。

ヨーカ堂は理由のない返品をしない。
綿密なバイイングと品揃えによって、
一品たりとも残さずに売り切ってしまう。
たとえその商品で損が出たとしても、
売り切ってしまえば次にはまた新たな商品を揃えることが楽にできる。
その姿勢が取引先の信頼を得、
ヨーカ堂には滅多なものは提供できないという土壌ができていたのである。

ヨーカ堂も最近はユニクロなどの専門店に押されて、
いささかジリ貧気味だが、
ユニクロブームなど一過性のものだと思う。
百貨店、総合スーパーの中では、
衣料品を制するところが利益をあげている。
だから、衣食住、この三分野では衣料品を扱うことが最も難しく、
最もやりがいがあるのである。
たぶん、ヨーカ堂は転んでも起きないだろう。
ユニクロに負けてばかりではいないはずである。

福岡ダイエーホークスの身売りが取り沙汰されている。
1993年に福岡ドームができ、
1999年には念願の優勝を果たし、
2000年には連覇を達成した。
昨年は惜しくも二位に甘んじたが、
観客動員は新記録となり、
ようやく営業利益も黒字となってきた。
福岡の市民球団として愛されてもいる。

しかし、大手四行から球団売却の指摘が出ているのも事実である。
ダイエーが福岡にドームを作ったのには、
市とダイエーとの密約があった。
それはバブル期に博多湾埋立地ができたとき、
当時では破格の価格でダイエーが購入していたからである。
現在においては、恐ろしく高い買い物になってしまったのだが・・・・・・・。

ダイエーはその埋立地に市との約束どおりツインドームを作り、
球団のフランチャイズを福岡市に移し、
さらにシーホークホテル&リゾートを建設した。
ダイエーの思惑はさらにそこに隣接して、
ファンタジードームと一大娯楽商業施設を構築することだった。
しかし、その目論見はバブル崩壊が継続することによって、
頓挫を余儀なくされる。

ダイエーが、福岡に投じた金額は
大手四行によると1700億円とも報じられているが、
地元の金融機関からの借入や子会社の投じさせられた額を合算すると、
ダイエーがかかえる2兆3000億円という有利子負債の
20パーセントにも喃々すると伝えられている。

創業者の道楽がもたらした悲劇だ。
すべてを売却するとしても、
300億円が関の山だろう。
そんな切羽詰った状況でもオーナー一族は身の保全を考えている。

東京証券取引所では、
大手四行の債権放棄が伝えられた日、
ダイエーの株はストップ高したが、
翌々日の今日、ふたたび100円を割り込んだ。
投資家はダイエーを信用していない。
小銭を稼ぎたいわずかな投資家が右往左往しているだけである。

本日再び、ダイエーの格付けが引き下げられた。
どん底まで残りわずかとなっている。
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子規の野球殿堂入り
草茂みベースボールの道白し

正岡子規が昨日、新世紀特別表彰により、野球殿堂入りをした。

俳人、歌人で有名な子規は、
アメリカから伝わって間もなかったベースボールに熱中。
明治十七年(1884年)に入学した東京大学予備門時代にそれを知り、
左腕の投手、捕手としてならした。
幼名の昇をもじって、『野球』(の・ぼーる)のペンネームを使ったことから
野球の名付け親と呼ばれたことがあるらしい。

実際は『野球』と名付けたのは、
子規の後輩、中馬庚で1970年に野球殿堂入りを果たしている。
ただ子規も野球ルールの紹介記事を書き、
「打者」「走者」「飛球」などの訳語を編み出し、
草創期の野球普及に大いに貢献した。

上記は日本経済新聞のスポーツ欄のコラムからではあるが、
私は松山の子規記念館に三度ほど足を運んでいて、
そのことを知っていた。

彼の没後、今年でちょうど百年になる。
正岡子規の名前がスポーツ欄に掲載されることは、
彼の健康だった頃に思いを馳せると、
何かしら子規と共に喜びを分かちあいたい気持ちになってくる。
プロ野球は面白くなくなってきたようだが、
まだまだ草野球の面白さは捨てたもんじゃない。
「フィールド・オブ・ドリームス」は野球の夢と楽しさを語ってくれる。

今やかの三つのベースに人満ちてそぞろに胸の打ち騒ぐかな
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ウィルスメール
メールの受信中表示、
ずいぶんと長い、
たぶん添付ファイル付メールだろう。

その表示が消えたとき、
受信トレイの中には残らず、
そのままPCの外へ放り出されていく。
二日に一度ほどこんなときがある。

ウィルスバスターとバージョンアップ、
それに添付付ファイルの受付拒否、
むろん削除済みアイテムもだ。
念には念を入れている。
セコムはパソコンのウィルスの警備まではしてくれない。

添付付ファイルは
また別なメールアドレスで受けとることにしている。
情報化社会では自己防衛が肝要である。
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マイカルとダイエー
マイカルとダイエーは昨年当初より経営不安がささやかれていた。
バブル期以降の両社のずさんな経営体質は似たようなものであり、
利益に見合わぬ拡大路線を突っ走っていた。
本業以外のことに手を出して失敗を繰り返しても
創業者(オーナー)に取巻き(役員)は意見具申することなど皆無だった。
御機嫌ばかり窺っていた。
ダイエーには大久保彦左衛門的存在がいたことはいたが、
後を継ぐわが子かわいさに左遷されてしまった。

両社の有利子負債の額は売上総額に匹敵するものであり、
少々の利益が上がっても金利の支払いに消えるのがおちだった。
近年の低金利がどうにかこうにか借入金の膨大な企業を支えていた。

けれども本業が赤字に転落し、
借入金を増やさないと支払いができない状態になると、
銀行も黙っていられなくなった。
いくら返済○○年計画を打ち出したところで
売上が前年比を下回りつづけてきたら
どこもその計画をあてにはできないと確信した。

瞬間的に売上が純利益にとって変わらぬ限り、
借入金は永遠に返済不可能に陥ってしまった。
それはとりもなおさず自力での経営再建は不可能ということである。

両社共に優良子会社の売却を進め、
負債額からいうと一割程度を返済したが、
それは自分の手足をもぎとって身動きできないダルマさんになっただけだった。
優良子会社は親会社と相互扶助の関係にあったからだ。

今日のニュースでは大手四行が、
ダイエーの債権放棄をしたとかしないとか。
東京証券取引所ではそのニュースにより、
ダイエーの株式はストップ高となり、
大手銀行の株式は下落した。

ニュースのほどは確たるものではないので、
まだまだ紆余曲折があるだろうが、
三井住友銀行のコメントでは
現経営陣の取り組みは評価できるということだった。

しかし、国民の税金でもって資本注入された銀行が、
それだけのことで二兆円を超える負債をご破算にして許されることだろうか。

マイカルは民事再生法から会社更生法に切り替えられた。
ジャスコを核とするイオングループが、
倒産させて新たな一歩を踏み出すということでなければ、
再建には協力できないと主張したからである。

トップ企業のイトーヨーカ堂グループ等は、
欲しい店舗の切り売りだけを望んでいた。

マイカルとダイエーに大きな差はなかった。
違いは四番手だったマイカルが追いつけ追い越せで無理をしすぎていたという点、
ダイエーに比べて人材が不足していた点である。

マイカルが民事再生法を申請したとき、
社長は小売業にはずぶの素人の元警視庁のOBだった。
マイカルの子会社の警備会社からの転身であった。
そこには大手メインバンクの思惑が働いていた。
むろんそれは先行きを見越した人事だった。
社長は銀行の傀儡の如く動き、
後に取締役たちが反乱を起こして、
彼を解任に追い込んだが、ときすでに遅しだった。

果たしてダイエーの再建は果たせるであろうか?
オーナー一族の退陣により、
創業時からのつわものが帰ってきたが、
彼らとてはや還暦を迎えた。

このままだとかつて三越の売上を抜いて小売業トップの座に躍り出た
主婦の店ダイエーの名前が早晩消えていく。

ダイエーの商品は駄目だ,と風評が立ちかけてからどれほどたつのだろう。
いつかしらメーカーや問屋では、
いい商品を納品する企業の順序ができあがっていた。
ダイエーにとってその序列は売上はトップでありながらも
ずいぶんと後塵を拝していた。
その理由は簡潔明瞭である。
納品された商品を売り切ることに精力を注がず、
残った物は問答無用で返品していたからである。
そんな会社にいい商品は納めたくなくなるのは当たり前のことである。
いい商品がなければ、いくら掛け声をかけてもお客さんは見向きもしない。
商品部のお歴々には物の道理がわかっていなかったのである。

私はがんばれダイエーとは言わない。
今後を見ているだけである。
ただ、マイカルもそごうも長崎屋もヤオハンも、
すべては経営陣の愚劣さと無能さと身勝手さと傲慢さから倒産した。
先見の明までは望むべくもない。
身の程を心得て本業に勤しんでさえいたなら、
倒産するまでは至らなかったはずなのである。
規模や知名度など気にせず、
ヨーカ堂の歩みのようなものを手本にしていたならと思うのである。

たくさんの従業員が泣いている。
その家族が泣いている。
小規模だったテナントが泣いている。
そして、多くの取引先が泣いている。
それは少なくとも数十人の死につながってもいる。

債務を免除して一企業を救う、
その意図するものがわからない。
昨年十月、青木建設は一旦債務免除をとりつけておきながら、
銀行の支援が受けられなくなったと十二月に倒産した。
マイカルもそんな時期があった。

今日のダイエーのニュースは、
束の間の喜びかもしれない。
いつもの手で銀行がインチキしようとしているなら、
やっぱり私はこう言おう。

がんばれダイエー
社員のみんなへこたれるな!
自分たちの店は自分たちで守れ!
家族を守るために立ち上がれ!

社是 店はお客様のためにある
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緋色
緋色
それは情熱と罪の色
残り火が放つぎりぎりの色
滅んでいくものがもつ狂おしいほどの色
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Book & Cinema
この二つのコンテンツに書く内容は、
とても気まぐれである。

本を読んでも、映画を見ても
気が向かないと更新しない。

それは作品の良し悪しではなく、
そのときの自分のバイブに影響されている。
そのことを怠惰だといってさしつかえない。

気がついたとき、そこに自分が残しておきたかったものの形はなく、
書棚の片隅かTUTAYAクラブの陳列棚に飾られているだけである。

あれは決して回顧して書くものではない。
書くときが新鮮でなくてはならない。
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在りし日の
最近剃刀負けがひどいので、
口髭を剃らずにいたらずいぶんと伸びてしまった。

学生の頃、肩まで髪を伸ばして
口髭をたくわえていたら、
ビートルズに在りし日のジョージ・ハリスンみたい
といわれて悦にいっていた。

いまはもうあのときのジョージより
はるかに若くない。
それでもあの時と同じようにしてみたなら
誰かがちょっとばかりでもそう思ってくれるだろうか?
「似合ってる」その一声さえあればいい。

試しにあと二週間、
このままにしていよう。

そうして薄汚いだけならば、
剃刀負けしても剃ることにするつもりだ。
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余韻
掲示板に集合写真を貼り付けておいたら
カウンターの数がどんどんふえてきた。

あの夜は興奮してなかなか眠れなくて、
初仕事はあくびばっかり(僕と一緒だ)というメールがきたり、
来年もまたやって欲しいとお願いされたりで、
今日はたくさんのお礼のメールがきた。

メール以外にも掲示板、
これは2年3組のクラスメートだけの秘密の部屋なんです。
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同窓会
開始時間はあっても終了時間のないエンドレス。
卒業以来一度も会ったことのなかった同級生たちがいる。
一目見て誰とわかるものとそうでないものがいる。
十八歳の写真から○○年後をシュミレーションしてみても
決してそんなはずはないと断言できるほど変わってしまったものもいる。

しばらくは様子をうかがいながらも徐々に会話を交わしていくうちに,
それぞれの記憶の断片が重ね合わされ,
一つの時代を再現していく。

おとといのことは忘れていても,
あの頃の記憶は鮮明に焼きついている。
それは自分だけの世界のときもあり,
共有していた相手を見つけることもある。
そして,ある一つのことだけは、誰もが忘れていなかったのだと気づいてくる。

集合写真を撮ってから、一人減り,二人減りしていくが,
最後に残った十数人だけがもう一度濃密に記憶の断片を重ね合わせて,
一つの「時代〜ノスタルジア」が完成する。

できあがったアルバムを見ていると,
あまりな時間の経過を目の当たりに感じてしまう。
でも、あのころと少しも変わりなく、
楽しく懐かしく過ごせたきのうの束の間のほうが,
私たちの永遠の真実であったと思いたい。

記憶は前へ進みながらも後戻りを繰り返し,
自らが意図するでもなく,
大切なはずのことだけをひそかに脳裏にとどめている。
記憶は実に身勝手だが,
ふと呼び戻されたとき,素敵なほどに正直なのだ。

私の初恋の人のことを彼らはよく覚えていたが,
私の記憶はそれとは別なことをかみしめていた。
私がほんとうに好きだったのは誰なのかを・・・・・・・。
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大学箱根駅伝
箱根駅伝の歴史は古く,
第一回大会は大正九年,1920年のことである。
あの頃は現在に比べて大学の数も少なく
どれほどの規模のものであったのかは想像の域を出ない。

それから82年,太平洋戦争で中断されていた時期はあったろうが,
長い歴史のある大会である。

今年は今日の復路になってしまったが,
私は毎年二日の往路を見ている。
どこの大学を応援するでもなく彼らの走りだけを見ているのだが,
全国高校駅伝で都大路を激走したことのある
母校の隣の工業高校出身の選手を見るとやはり応援したくなる。

時々思うのだが,
箱根駅伝はどうして全国の大学に門戸を開かないのだろうかと。
そうすれは真の大学駅伝日本一を決めることができるのだし,
関東だけでなく日本中が注目してそれを見ることになると思うのだが。
きっともっとテレビの視聴率だって上がるだろうに。

ちょっとばかり関西人の僕にも意地らしきものがある。
関東関東と奢るなかれ。
もうすぐ出会う日刊スポーツ競馬デスクに
なんとかしろと言ってやろうと思っている。
近い将来彼が編集委員になるかもしれないのだから。

彼は今新幹線に乗っている。
二時過ぎに最寄の駅について
同窓会の時間まで郷里の町を散策するのだという。
今夜はうちに泊まっていく。

有馬記念では彼の予想した「マンハッタン」が勝った。
おかげで僕は一万円が八万円になった。
彼に立て替えてもらっていたので,
一万円謝礼を渡して六万円もらうことにする。

連複では有馬記念史上最高の大穴が出た。
馬連は「マンハッタン&ニューヨーク」 
去年は最後までテロの影響下にあったようだ。
文句を言うわけではないが,
そっちを教えてくれていたなら八十三万円儲かっていた。
タラレバの世界では誰でもが金持ちになることができる。

暇なもんで話がそれすぎた。
どうか近いうちに関西のわが母校K大にも
箱根を走ってもらいたいものである。
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雪景色の朝
昨日の束の間の銀世界は,今朝の雪景色の前兆だった。
家の周辺では午前十時ごろ,粉雪がちらついただけだったようではあるが。

おそらく昨日のゴルフ場はかなりの雪が積もっていて,
きっとクローズしていることだろう。
でも,天候は今日のほうがずっといい。
風もないし暖かい。

クローズは僕の期待である。
今日は新年杯の日で,
僕はディフェンディングチャンピオンだったのだ。
同窓会があって出場することが叶わない。

通年なら昨日は家族と過ごす日であり,
今朝起きたときに腰痛がぶり返すことはなかったはずなのだ。
摂氏二度ほどの気温での六時間のプレイは長すぎた。

それにしても太陽に輝く白銀の光景はなんと美しいものだろう。
窓から差し込んでくる暖かな陽射しの中にいると,
何かしら充足した気分に満たされる。
南東からの太陽がパソコンに向かう僕の大腿部にまで届いて心地いい。
ティーカップから立ちのぼる湯気が,穏やかなときの流れを感じさせる。
ふと見ると,刈り込んでいたはずのバラの木から
弱々しいピンク色の蕾が一つ花を咲かそうとしている。

物音一つ聞こえない静かな午前だ。
何もせずにいると,光の中を埃が舞うのを見ることでさえ,
幸福な時間のように思えてくる。

コンポをオンにして,
ケイコ・リーの「ローマからの手紙」を聴く。
こんな優雅な時間が一年のうちでどれだけあるだろう。

そろそろ子供たちが起きだしてくる頃だ。
明日は仕事だ。
そう思ったとき電話が鳴った。

「おい,スタートできるぞ。まだ新年杯には間に合う。すぐに出てこい」

「悪いが今日は四時から同窓会なんだ。去年から言ってるだろう」

「そんなの遅れて行きゃあいいじゃないか。頼むよ」

握りができるメンバーが足りなくなったに決まっている。
僕は今年も懲りない面々と付き合わなくてはならないようだ。

「行かない!」

今日だけは断固としてそう言った。
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雪のち強風
ティーショットを打った途端,雪が降り始めた。
見る見る間に辺り一面銀世界になっていった。

競技ならまちがいなく中止なのだが,
アマチュアのプライベートゴルフは
ティーショットを打った時点でプレイ料金が全額成立する。

僕はそれでもやめて帰りたかったのだが,
他の三人が承知しなかった。
グリーン上で雪だるまを作りながらのゴルフなんてやってられなかった。
長いパターをしたときほどボールは大きな雪だるまなった。
あほらしくてじわじわ腹がたってきた。

スパイクには雪でヒールができてしまって,
滑って、ショットをするときに神経が集中できなかった。
握りではひどく負けはじめていた。

5番ホールを過ぎた頃から雪がやみ,
晴れてきて、寸時に雪が溶けてきた。
しかし,その代わりに風が強くなってきた。
昼食を取ってからの午後のハーフは
スィングもままならないほどの強風が吹き荒れた。

いやぁ,寒かった。
初打ちの今日は散々だった。
スコアはぼろぼろだし,握りは天井越えの負けとなってしまった。
実についてない一日だった。

明日は同窓会,ほんとにいいことあるんだろうか?
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Happy Birthday
今日は娘の二十歳の誕生日である。
年齢では大人の仲間入りである。

けれども当分学生で、まだまだ子供だ。
といって親が思っているほど幼くはないのかもしれない。

今年もまた初詣には行かなかったし,
新年の挨拶にどこにも行かなかった。
毎年のことではあるが,
我が家にとって元旦は娘の誕生を祝う日である。

いや、我が家ではなく私だけに訂正である。
寒波が襲ってきているようだが,
明日は毎年恒例の初打ちの日である。

徐々に子供たちが私たちの頃に近づいてきている。
あさっては同窓会,郷愁を誘われる年齢になってきたものでもある。
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