2003年09月の記事


坂道
 いつもは車で行くところまで歩いていった。小学校、高校時代にいつも通学していた道を通った。狭くて、車が通れないようなところもある。小学校は当時の場所にあるが、高校はかなり以前に市の学園都市計画によって郊外へと移転している。

 高校は丘陵地にあったため、通学の半分は坂道だった。橋を渡り、坂道を登りはじめるところに稲荷神社があった。記憶の彼方へと忘却していたごく小さな神社だ。それから少し行くと金木犀の匂いが風に運ばれてきた。すごく大きくなった金木犀。黒住教なる教会の敷地に植わっている。通りは樹木の枝々が覆いかぶさっていて、晴れていないと薄暗いほどだ。夏は涼しくて、冬は北風が吹きすさんだ記憶がよみがえった。犬の糞を踏んづけたのもこの辺りだった。だから、金木犀の匂いに対して、ぼくの触覚に微妙なずれがある。過去と現在とが交錯して、不快なときと爽快なときがある。

 少し進むと、左手に空き地がある。高台なのでその空き地から川の流れが見える。ぼくの家の屋上が見える。それは記憶にない光景だ。ここに何が建っていたのかを思い出そうとした。もうすぐ秋祭りがヒントだった。ここにはT町の太鼓倉があった。T町の子供の数は激減していて、あの緑の神輿はとっくに他町へ売却されていたのだった。

 坂道の中ほどの電柱に『自転車はブレーキを』と赤い文字の看板が立っていた。そう、入学して二ヶ月足らずの五月、ぼくはこの坂道で、同級生の自転車の荷台に乗っていて、その自転車のブレーキが切れて、ジェット・コースターが下降するときのように、坂道の一番下に停まっていた貨物車に激突した。膝の半月版損傷、打撲、内出血で全治三ヶ月の重傷だった。あれで成績はガタ落ちし、体育は見学ばかり、高校一年生のぼくは、見る見る間に落ちこぼれの様相を呈していた。楽しかった高校時代で、唯一、苦しかった一時期。

 いったん坂道を登り終えたところ、そこにはE子ちゃんの家があった。中学時代、一年上の先輩と恋をしてたっけ。ぼくは一度だけ遊びに行って、おかあさんにサイダーをご馳走になった。E子ちゃんはおませだった。先輩は工業高校へ進学して、ぼくと普通高校へ進学したE子ちゃんは、なんどかぼくに先輩との連絡をとってほしいと頼んだものだ。でも、ぼくはその先輩が嫌いになっていた。E子ちゃんの身体の隅々のことを聞かされてうんざりだったから。先に先輩がE子ちゃんを好きになって、先に先輩がE子ちゃんから逃げていた。E子ちゃんはよりをもどすのに躍起だった。けっして、ぼくはE子ちゃんを好きじゃなかった。ぼくには別に好きな人がいた。

 それからのE子ちゃんと先輩がどうなったかはわからない。現在わかっていることは、E子ちゃんがロンドン在住だということだけだ。今考えると、あの二人はとても好色だった。

 右へ曲がって、もうひとつの最後の短い坂道にかかるとYの家だった廃墟がある。Yはほんとうにアホだった。見てくれはハンサムっぽく、かっこよさそうで、それが返ってアザになり、女たらしの運動音痴のアホでその名を馳せていた。が、下級生には見破れなかったようで、彼の毒牙に引っかかった女子生徒がいたようだ。

 この地に住んでいながら、こんなふうに十年以上目にしない場所を歩いていると、いろいろなことを思い出す。帰りにいつも寄っていた本屋さんは今はない。あのころ10個以上食べることができると無料だった回転焼(今川焼)屋だけが、どうにかその姿をとどめていた。ぼくはいつも3個しか食べられなかった。柔道部のSは18個も食べたので、一回きりで出入り禁止となった。先代の親父さんはとても記憶力がよかった。

 今日の小さな秋は河原キキョウだった。空き地から見下ろした川の流れのそばへ下りて、そのそばの橋の下から北の橋の下まで歩いていった。夕日が水面に反射して、眩くて目をそらしたとき、つやのある紫紺の花の群れを見つけた。すがすがしい色だった。この花は、ぼくの記憶には残っていなかった。
コメント (0)

マッチプレー (クラブ・チャンピオンシップ)
 一切の煩悩を振り払って、次週のクラブ選手権予選に備えます。今日のような調子だと予選落ちは免れないと悲壮感を持っています。だから、夜のネットは極力ひかえ、体力と気力の充実を図ります。ストレッチ、イメージトレーニング、夜間練習、けっして付け焼刃ではなく、かつての感触を取り戻すためです。『力が落ちた』などと言わせてなるものか。4週間の長丁場、生涯、一度はチャンピオンになってみたいものだ。
コメント (0)

小さな秋
 彼岸がすぎてよりめっきり日が短くなった。ちょっと前まで午後七時ごろまで明るかったというのに、このごろでは六時をすぎると暗くなりはじめてきた。欧米のサマータイムも今月いっぱいで終わりになり、時差は通常通り、現在より一時間遅れることになる。そうしてあと一ヶ月もすれば、日々夕闇の迫りくるのが早く感じられ、いわゆる『秋の日はつるべ落とし』を実感する。

 中秋の晴天は一年中で最も爽快な気候だ。天高く、澄みきった青空の下、レジャーにスポーツに最適の季節である。が、一雨降るごとに気温は肌寒さをまし、冷たい風に吹かれるたび、人は冬の到来を間近に感じ、束の間、寂寥感にこころ奪われるときもある。

 そんな季節に我々は、それぞれに小さな秋を見つけてすごす。今年はマンジュシャゲの開花が遅いようだが、稲穂の金色と対をなすような真っ紅な花。田園での柿の実り。河原に群生するススキの穂。野原に自生する秋桜(コスモス)、山道でのアケビの実、森林でのドングリ、クリの実。偶然にも発見するマツタケ。ナデシコ、オミナエシ、ハギ、キキョウ、キクの花。夜、季節のメロディーを奏でてくれる虫たち。そして、次々に色づく紅葉。

 これから50日たらず、落葉とともに秋は終わる。今年は、毎年何気なく見すごしていた「小さな秋」を見つけようと思う。季節は何度も巡りくるものだけれど、2003年の秋は一回きりだ。けっして感傷的ではなく、なつかしのサトウ・ハチロウの歌のように、ときめきを感じながら・・・。

 小さい秋
コメント (0)

冷ややかな関係
 弟妹に時を同じくして離婚騒動が勃発した。突発的な些細なことであれば、収拾がついて後で他愛もないことだったと笑えるのだろうが、いささか頻度があって、それなりの伏線を引っぱっているからことはなかなか面倒である。

 弟のほうは子供の手が離れたとき、放り出される怖れがある。全然、わかっていないから始末が悪い。いちばんかみさんが嫌がっていることを、多少奉仕じみた調子でやってのける。人に頼まれると断ることをしない。おだてられて断ることができない。かみさんが最後の引導を渡すつもりで忠告したのに、今回もまたきかなかった。

 で、「わたし、家政婦じゃないわ」と一言。昼の弁当はむろんのこと、朝夕の食事、洗濯を拒否された。それが延々一週間ばかりつづいてしごく困りはてた。母がいなくなった現在、そんなバカらしい相談事にのらされるのは、ぼくではなくぼくのかみさんである。

 弟はぼくがこわいのである。激昂される怖れがあるから、ぼくは弟妹にはけむたい存在なのである。実のところ、ぼくは他人の夫婦間のことが大嫌いなので、これまで何かあるたびに、「別れたかったら別れたほうがええ。なんべんもぐずぐずいうてるより別れて、別々に暮らしたほうがよっぽどすっきりするやろ」ととりつく島がなかった。それをきつく叱られたように思っているのであろう。むろん、彼らにとって、父がぼく以上に怖ろしい存在であることはいうまでもない。

 かみさんはあした、弟によくいってきかせるそうだ。弟のほうが悪いこと、善処しないなら、今度はほんとうに離縁されてしまうよと。今すぐでなくても、子供が高校を卒業したとき、あなたはひとりぼっちになるわよと。

 さて、弟は単細胞だから、よおくいってきかせれば良いほうへの可能性がなくもない。ぼく自身は悲観的であるのだけれども。問題は妹のほうである。大学時代の仲のよかった友達にバツイチ、バツニがおり、彼女たちが離婚を煽りたてるようである。甲斐性のない亭主なんて・・・、エトセトラというやつである。

 「ボーイフレンド作ろうと思うんだけどどうかしら?」 電話での悩み事相談のあげく、その質問にはかみさんもあきれはてた。少々叱責したとき、「おねえさんはまじめなのね」と返され二の句が継げなかった。度々の夜の長電話、このときばかりはつきあわされるかみさんに悪いと思った。寝られやしない。以後、表向きの電話は午後十時以降、鳴らしっぱなしである。

 夫婦喧嘩は犬も食わない、とはよく使われる言葉である。が、そんなトーンの夫婦喧嘩はほほえましくもある。痴話げんかのほうがまだましだとさえ思う。ぐずぐずぐずぐず、とめどなく、互いに不満をくすぶらせて、辛抱しいしい暮らしている夫婦なんて・・・、宵越しでいさかいあうことが大嫌いなぼくは、ほんとうに別れればよいと思っているのである。たとえ、親兄弟であろうとも。

 彼らにず〜っと鞘は残されているのであろうか?
コメント (0)

夏の終わり
 ぼくはからっっぽの闇のなかに、あえぎながら、きらきら輝いている。ぼくの心臓の音を聴き、通りの隔たりを越えて窓から射しこむ光を見つめる。夏がずっと終わらないことを願いながら。
コメント (0)

ブロークン・ハート
 鈴虫が鳴いて、コスモスが咲いて、秋風が吹きはじめてよくよく考えてみたら、これをはじめて三年と半年がたった。そのころ息子は小学一年生だったし、石川釣月は明治大学の三年生だった。

 近頃更新が滞りがちである。年初より書いていた小説もどきも頓挫したままである。少々面倒くさくなっていることは事実である。脳細胞が弛緩しているのかもしれない。

 青年の石川がめったに姿を現さなくなったのは当然のことだ。日々のネットの世界を眺めてみると、それを生業(なりわい)としているものでなければ、日々更新などできるわけもない。社会の只中で生きている人々にとって、あまりに時間の余裕が少なすぎる。したいこと、しなくてはならないことがいっぱいあるのだ。

 どうして、ぼくがこの場所を継続してこられたのか不思議にさえ思う。まわりの人並み以上に文字を書き、稚拙なストーリーを連載してきたのかを。この世界のいろいろな人と出逢った。メールの上、実際に出会ったこともある。だが、ほとんどの人たちが通りすぎていった。

 継続されている人たちは、そのほとんどが女性だ。普段の周辺においても女性がその多くを占めている。そのなかでもたぶん主婦が多いのではないかと思う。家での時間に余裕がある人たちでないとネットは続けられない。

 ぼくは根気がないほうである。新たなことを会得することも苦手である。どうにかホームページなるものをこさえてはいるが、ただの文字の羅列にすぎない。タグを覚えたり、フラッシュなる手法を覚えることなど面倒きわまりない。

 継続されているみなさんの多くは、日々進歩がある。マイナーなGaiaxなる場所を卒業して、メジャーな世界へ足を踏み入れている人もいる。なんどかBBSで相手をしてもらったある方は、自分のサイトで自らの惜しげもない肉体美を披露して、たまたま入り込んだ男子たちを欲情させている。モデルなみの美しくエロチックなヌードであった。

 で、ぼくはひまではない。土日祝日は必ず休みだが、といって、デスクワークがないわけではない。このデスクワークなる仕事がよくないんだろうと思ったりする。退屈するとネットにつなぎがちだから。趣味がないわけではない。ゴルフ、ガーデニング、映画(主にビデオ)、読書などの趣味は生半可じゃない。家計を助けるため、副業のほうにも力を入れている。今年は力が入りすぎでもある。

 多忙である。多忙だと、エルキュール・ポアロほどじゃないが、灰色の脳細胞が働かない。三年間、力を出しすぎて、そろそろ充電期に入っているんだとも思う。肉体美を披露できる性でもないし、そんな若さでもない。夜のつきあいをきわめてしなくなった。PTAの役など二度と受けるものか。商工会議所なる場所への出入り、○○クラブなる団体、社団法人などへは絶対に入会しない。社交辞令で費やす時間ほど無駄な愚劣なものはないからだ。ゴルフは好きだが、接待、つきあいなるものは拒否している。

 ここ数年、こんなふうに意固地を張って生きてきたからここにぼくがいると思う。ぼくの現在の状況は岐路だとは思わないで欲しい。書けないから書かない、忙しいから書けない、疲れているから書けない。ただ、それだけのことである。石川よ、たまには顔を見せろ。多忙なのは、疲れているのはわかっている。金欠なのもわかっている。が、何か書け。しょうもないことを文字にしろ。

 秋の夜に、しみじみと海の上でのことを思い出す。ついこの間の夏の夜、客船の中でピアニストの調べを聴きながら、目の前にいた人のことをいとしく思う。海からの夜景は殊のほか美しかった。そんな気になった自分を切ないとさえ思う。みじめだとは思わないが、バカだとは思っている。
コメント (0)

Harvest
 秋茄子は嫁に食わすなと、古からの言い伝えがある。実に意地の悪い言葉のようでもあるし、自給自足の貧しい時代のまれなる馳走であったかのようでもある。

 画像は摩訶不思議な自然現象である。一つの花に五つの実が揃って成った。我が家は五人家族である。ちょうど先月の20日、北海道家族旅行へ出かける前、茄子の剪定をしておいた。よい秋茄子を成らせるためには、お盆明けごろに施肥し、思い切って刈り込んでおかなくてはならない。

 北海道から帰ってきてより、残暑は殊のほか厳しかった。9月の熱帯夜、酷暑日は史上最高を記録した。台風のおかげでようやく今日、最高気温が30度を切った。コスモスの花も開き、そろそろ秋の気配がしのびよってきたようだ。

 今年の秋茄子はいつになく細身だ。つやがよく、ひきしまっているといってもよい。残暑の厳しさと土の乾き加減のせいかもしれない。トマトの双子を見ることはなんどかあった。が、茄子の双子は一度も見たことがない。それがバナナのように五房、ちょうど収穫の大きさになった。意地悪く嫁に食わすなという慣習があったとして、五人家族、誰が二つ食べるだろうか?

 ぼくはこれを幸運の茄子だと思う。自然からの贈り物だとも思う。けっして四葉や五葉が 繁茂するクローバー群のようではない。この茄子の色艶、見事に揃った形を見て、ぼくたちはこんなふうにつながっているのだと、少々気持ちが高ぶり、未来を見て生きていけそうな気がするのである。
コメント (0)

モビット
 この竹中直人の顔を見たくない。UFJ銀行のサラ金事業のバナー広告。「最短30分で審査終了、ご利用限度額300万円まで、実質年利15〜18%。全国37.100台のATMをご利用可能!」

 国民一人当たり3万円、推定総額3兆円ほどの金融支援(もちろん税金から)を受けて、あげく金儲けにサラ金業務をはじめるとは。銀行の貸出金利と預金金利とは、これまで一定の比率を保ってきた。モビットを普通預金の0.002%と比較すれば、なんと最低でも7.500倍。国民をばかにするんじゃない。

 銀行(メガバンク)には大手サラ金のような個人情報がない。うがった情報かもしれないが、サラ金にロイヤリティを払って個人情報を入手していると聞く。モビットのUFJだけでなく、三菱も住友もおんなじことをやっている。

 通常の融資業務、一般中小企業への貸し出しをおざなりにして、暴利をむさぼろうとするメガバンクにはあきれはてた。銀行はお金の通り道、ぼくは生涯定期預金を組まないことにした。サラ金に使う金預けてなるものか。
コメント (0)

カミュのノートより
 小説。この物語は青い燃えるような海辺にはじまっている。二人の若者たちの褐色の肌、水遊び、そして太陽。夏の夜の海辺の道、暗い夜の底から果樹や煙草の匂いが立ちのぼってくる。肉体と、薄い衣服に身を包んだくつろぎ。十七歳の心に忍びよるやさしいひそかな陶酔と魅惑。

 ――パリで迎える終幕。寒気、あるいは灰色の空、パレ・ロワイヤルの黒い小石にまじる鳩。シテとその陽の光。素早い接吻、いらだたしい不安な愛情。二十四歳の男の心に湧きあがる欲情と分別―― <友だちのままでいよう>

 同じく、寒い嵐の一夜にはじまる別の物語。糸杉の根元に寝ころんで、空をよぎっていく星や雲を見つめている。

 ――アルジェの丘の上、あるいは神秘的で大きな港を前にした丘の上の情景がそれにつづく。

 ――みすぼらしいが素敵なカスバ。海に向かってずらりと墓が立ち並ぶエル・ケタールの墓場。柘榴の木とひとつの墓穴のあいだでかわされる熱い柔らかな唇――樹木、丘、乾いた清らかなブーザレアに向かっていく山道、そして海に向かう帰り道。唇にのこる味、そして眼にいっぱいしみる太陽。

 これらのことは、恋ではなく生きようとする欲望にはじまる。海の上にある大きな四角な家で、二人の身体が合わさる。そして風にひるがえったあと、彼らはひしと抱きあっている。水平線の彼方から、海のしめやかな吐息が、世界のなかで隔絶されたその部屋にたちこめる。そんな時、愛はかくも遠いのであろうか? 素敵な夜、愛の希望はあの雨や、空や、地上の沈黙とわかつことはできない。外側から結ばれ、世界のこの瞬間以外のなにものにも無関心であることによって互いに魅せられてしまったこの二人の存在には、まさにある平衡がある。

 このほかの瞬間、たとえばダンスのようなとき、彼女は流行の衣服に身をつつみ、彼は舞踏の衣装に身をこらしている。


 なぜか鉛筆で囲まれていた
コメント (0)

恋をいだいたがゆえに、悲しみをもよおす。
コメント (0)

携帯メール
 携帯メールのアドレスを変更した。ここのプロフィールに載せていたからだろうか、最近よくないメールがたびたび入るようになっていた。だから、ちょっと変えておいた。アドレス帳にある方には本日中に連絡するつもりだ。

 が、プロフィールには以前のままで載せておくことにする。低レベルなアダルト系出会いサイトの連中には、少しでも無駄をさせてやればよいからだ。

 夜、お気に入りの着信メロディーが奏でられると、小学生の息子が変な顔をする。よその女性からじゃないかと訝っているようでもある。ませたもので小学校でそんな話題があるという。クラスの中で、学年の中で、携帯メールから浮気がばれ、離婚した両親を持つ子供が数人いるらしい。

 で、ぼくは根拠のない疑いを避けるため、メールアドレスを変えた。今夜より奏でられるメロディーは著しく減るだろう。真実女性からのメールならかまわない。変な、陰湿な、卑猥な、過激な用語を使った悪質なやつらのメールだけは受けとりたくない。削除するだけでも気分がよくないのだ。

 迷惑メールを着信しはじめて2ヶ月あまり、迷惑ながらによかったところといえば、少々ボキャブラリーがふえた点にあるといえようか。
コメント (0)

連続ドラマ
 今、欠かさず見ているテレビドラマは次の二つである。といって、タイムリーに見ているわけではなく、たいていはビデオ録画だ。お奨めである。

 * 蝉しぐれ 
 NHK 毎週金曜日、午後9時15分から。7回で完結。
 藤沢周平の人気小説であり、青春時代劇として年齢を問わず愛読されている。主人公の牧文四郎は、凛とした古き良き時代の青年の心を持っている。忘れ去られたかにある日本人のこころを。

 * TAKEN
 WOWOW 毎週土曜日、午後8時から。10回で完結。
 スティーブン・スピルバーグが贈るSF大作。異星人に遭遇した人々、3家族4世代のおよそ半世紀にわたる物語。物語の重要な役割を担う少女アリー、6回目からの登場だが、初回からナレーションも務め、ストーリーの折々で挿入される彼女の声は、この世の普遍のような含蓄のある言葉でぼくを引き込んでいく。リアルでミステリアスなSFの世界だ。

 いずれのドラマもあと3回で完結である。WOWOWの場合は、23日と27日とで総集編があるからまとめて見ることができる。
コメント (0)

札幌でのラーメン
 札幌にある日本一のラーメン屋。その名を「すみれ」という。「すみれ」は観光マップや雑誌などでも有名なそうで、新横浜にもその店を持つとかきいた。ウィークデーのランチタイム、偽りなく行列ができていて、タクシーの運ちゃんに尋ねると、一時間は待たねばならない状況だった。それで二時間ばかり時間をずらして、再度訪れることにした。

 その時点で、タクシーはメーターを倒して、千歳空港までの契約料金となった。それから、かの札幌五輪で、日本ジャンプ陣が金銀銅のメダルを独占した大倉山のジャンプ競技場へ行った。リフトでスタートハウスまで昇りながらK点(Clitical Point)なるところを見つめていると、大鷲のような翼がないと、どこか遠くへ命がけで吹っ飛ばされてしまうような気がした。またそこでソフトクリームを食べた。北海道はどこへ行ってもソフトクリームを売っている。富良野ではラベンダーソフトを食べた。ソフトクリームはさわやかな気候にあっている。

 次に羊が丘展望台を経由して、午後二時半に「すみれ」へ再度来た。さすがに行列は減っていて、運ちゃんが20分待ちだといった。並んでいると、はっぴのような制服を着たねえちゃんがメニューを持ってやってきた。否応なく、即座に注文を入れさせられ、先金を要求された。金を払うと、パーキングエリアの自動販売機のチケットのようなものを持ってきた。少々興ざめをした。先金をとられては、待ちくたびれて帰るわけにもいかない。

 何で並んで食べねばならないほどの味だと思った。麺は硬いし、つゆはこってりとしすぎていてえぐいほどだった。だから、スープなんて一滴も飲まなかった。ぼくの口には日本一もカップヌードルも変わらない。日本一に二言ありだ。

 また、兄貴がやってる店があって、その店は純蓮(すいれん)とかいうらしい。店をよく見ると、ここも純蓮で、音読みと訓読みのちがいだけであった。純蓮(すいれん)のほうが、好みはあるものの若干客数で負けているらしい。

 で、大阪空港からの帰りのハイウェイ、パーキングエリアで食べたラーメン、関西では中華そばという。待ち時間なし、値段半分以下のそっちのほうがおいしかったことはいうまでもない。

 北海道ではやっぱり魚と牛乳がおいしかった。層雲峡での焼きカレイの味は忘れられない。どうやらぼくも関西人で、味にはうるさくなってきたようだ。
コメント (0)

ノータイトル
 電池の持ちが悪くなったので携帯の機種変更をした。携帯文化なるものに毒されたくないと常々思っているのだが、これを持たずしては、仕事もプライベートな面もままならない。新機種に替えて、メール機能が使いやすくなった。

 先週の土曜日、ドラマ「白線流し」を見た。そのなかで園子と冬実が話していたとき、イケメンなる言葉が出てきた。そして、次にイケメンなる男がオヤジギャグをよく飛ばすといっていた。冬実が関心を抱く男はあまりいい男とも思えなかった。よくよく考えて浮かぶ言葉はメンクイ、ぼくがメンクイだったから。で、イケメンはいけてる面(つら)ということで、いい男という結論に達した。こんなあほなことを書いていること自体が、オヤジギャグなのであろうか?

 さんまの「恋のからさわぎ」というバラエティ番組が嫌いである。子供たちにまじって2〜3度見ただけなのだけれど、ブラウン管の中は爆笑の渦なのだけれど、表にいるこちとらの方はちっともおもしろくない。といって、子供たちはげらげら笑っていた。なるほど美人がいっぱい出演している。が、それだけならその手のグラビア雑誌を見ているほうがやかましくなくてよい。で、こういった番組から遠ざかるほどに、巷の話題、用語からもまた遠ざかっていくのであろう。

 時代に迎合するつもりはさらさらない。が、笑えるつもりで話したことが、オヤジギャグと冷笑されることはうれしくない。個人的なメールの相手が同級生の女の子(?)ばかりじゃつまらない。たまには不釣り合いに思われるくらいのいかした女性を、メールでピアノラウンジへ誘ってみたい。

 どうも長々とバカなことを書いている。携帯の機種変更をしたことを言いたかった、ただそれだけのことである。飢えているわけでもなく、許されざる恋の渦中にあるわけでもない。

 PS 「白線流し」の続編はもうやらないほうがいい。すでに前回で過去の多くが色褪せてしまっている。
コメント (0)

 命がけの恋ができるかと問われれば、否である。妻子を捨ててあたしを選んでと懇願されれば、胸打たれるも逃げ出すだろう。が、まずもってそんな状況に追い込まれるほどに、心とろけるような相手に巡りあえることがない。

 他人の一般的に許されぬ色恋をよく見るが、その相手のたいていが奥さんよりも見劣りがする。若さなら優っているかもしれないが、奥さんを同じ年齢にタイムスリップさせれば、それもまた同様のことが多い。

 既婚の男はわかっていながら、よその女を求めたがる。いや、独身の男もよく二股をかけたりする。人はみんな寂しいものだと、歌の文句によく出てくる。生きているだけで切なかったり、人恋しかったり・・・。いつもそばに誰かがいて欲しい。

 男と女の関係は純なものだったり、不純なものだったり・・・。長いあいだ生きていると、身勝手なことが多いことを実感する。男も女も自分の居場所だけは確保しておきたい。そうして、満たされない感情を外に求めようとする。わくわくするようなときめきは、安住の地には見出しにくいものだと思う。

 実際、切なかったり寂しかったりするのは束の間のことなのに、それが絶え間なく続いているような錯覚を感じる。憐れなタイプの人間の性(さが)だ。恋なんて二度とできないとあきらめているとき、不意に恋がやってきたりする。ほんとうはそんなことはありきたりで、無謀でもなんでもないのだけれど、シングルでないだけに、ちっぽけな恋だというのに、甘い誘惑に悶々とする。

 そうして、現代版でいえば、携帯の着信音に異常に敏感になるのである。ケータイ依存症候群、だいたいは人妻に多いのだが、最近は中高年の男性にも増えているという。

 で、ぼくが恋をしていたかどうか、切ない思いをしたかどうか、はてまた冒頭の命がけの恋の対象なる女性が存在したかどうか・・・、それは永遠に秘密なのである。いえることは、男はいつもロマンチストたるべきで、恋を忘れてはならないということ。ただし、卑怯な行動だけはやってはならない。

 経験則ではないけれど、アバンチュールを楽しみたいという女性にだけはご用心。。
コメント (0)

野取岬
 夏はのどかな放牧地帯である。

 すぐそばの東側にはオホーツク海があり、それは澄み切った茫洋たる北洋の海だ。波打ち際ではアザラシの親子が遊び、船ひとつ見えない広々とした空間に一点の和やかさがある。

 馬や牛たちがのんびりと一日の休息をとっている。鳴き声ひとつ立てず、どれもこれもが午睡をとっているかのようだ。訪れた日は風もほとんどなく、暖かで爽やかな八月の終わりだった。

 ひとたび冬が到来し、一月に入ると、この草原は大雪原に変わる。オホーツクは流氷の海となり、世界地図で最も南の「凍る海」となる。野取岬から見る流氷の光景は、日本の自然の中では最も圧巻といえるだろう。

 冬の網走の空はとても青い。気温は常にマイナスなのだが、全国的に最も日照時間が長い地域のひとつである。それは流氷と気象のメカニズムに深いかかわりがあるらしいが、詳しいことはわかっていない。

 夏の網走より、冬の網走のほうがずっと自然の観光には適している。野取岬から見る流氷はもちろん、氷原で遊ぶ動物たち、アザラシや、オオジロワシ、流氷に乗ってやってくるキタキツネやエゾジカたちを観察してみるのもいいだろう。なによりレジャーが最高だ。網走湖やサロマ湖でのスケートはもちろん、雪原をダイナミックに走るスノーノービル、氷上バナナボート、四輪バギー、流氷ボブスレー、パラセーリングなどなどスポーツレジャーには事欠かない。

 流氷の到来とともに、流氷の去りゆく海明けもまた網走のすばらしい自然だ。真っ白な海が、まばゆい日差しとともに見る見る間に青い大海原に戻っていくとき、生命の息吹ががやってくる。そうして、流氷が去ってしまった四月、五月の晴れたある日、水平線に、突然巨大な流氷群が姿を見せる。白い高層ビルが並んでいるかのようなこの正体は、「幻氷」という蜃気楼だ。網走の人たちはこの幻氷を、流氷の別れの挨拶だといっている。

 かつて、網走はさいはての地だった。この地には監獄があり、凶悪犯罪を犯したものばかりが送り込まれ、死ぬまで帰れない恐怖の流刑地として怖れられた場所だった。四半世紀前ごろには、高倉健主演の東映やくざ映画「網走番外地」が一世を風靡し、日本中で網走は恐ろしいところだという認識に至っていた。が、そのときからすでに時代錯誤的であり、現在の網走刑務所は服役三年未満の受刑者だけが収監されている。

 が、蝦夷地と呼ばれていた時代より戦前までは、網走監獄は「アルカトラズ」のような世界に名だたる監獄で、幾万人もの受刑者が強制労働、拷問などによって死んでいった。われわれは歩く場所場所で、流された血、埋められた骨などを踏んでいったのかもしれない。

 野取岬で風に吹かれながら、オホーツクの大海原を眺めていると、世俗のことを忘却してしまった。はるかかなたの水平線、青い海と緑の草原、ゆううつなとき、疲れたとき、たった五分間でいい、そこへ飛んでいけたならと感じた次第である。
コメント (0)

阿寒湖 (チュールイ島)
北国の色をした湖。

アイヌ民族のふるさと。

マリモの生息する島。

岸辺は観光地化しすぎているが
それでも自然のまっただなかに飛びこむと
湖は沈痛なほどの色を湛えて語りかける。

あと二週間もすれば紅葉の季節だよと。
コメント (0)