欲しいもの
自由自在にボールを打ち分けられる技術がほしい。
トッププロのように歩数で測ったようにその距離を打てるほどじゃなくていい。
飛距離だって今のままでかまわない。

ダフったり、トップしたり、
フックしたりスライスしたりしなければよい。
クラブの番手のままの距離が出、まっすぐに飛んでいって欲しい。

たいしてないけど、ぼくはたぶん小金持ちだ。
ありきたりなものなら買おうと思えば何でも買える。
だけど、あんまり物質的な欲しいものはない。
満たされているからだと思われるかもしれない。
けれど、今着ているセーターは十五年も前に買ったもので
そんな時代のものを交互に着たりしている。
ソフトスーツだけは野暮ったく感じられてきて、
とりわけダブルのものは着ないようにしている。

欲しいものは手に入れられないものだ。
きっとなにもかも。
ぼくの持っているお金で買えるものなどたかが知れている。
お金でたとえ買えたにしろ、それにはたぶん飽きてしまうだろう。
強く欲するものはたいてい空想の中のものだ。

年々過去が多くなってくる。
あしたになると、きょうはきのうになり
過去の仲間入りをする。
あさってもしあさっても同じことだ。
人生を半分以上生きてくると、
過去というものが一年前も十年前も二十年前も同じように位置づけられる。
遠い記憶も最近の記憶も同列に並んでしまう。
そして、瑞々しい鮮烈な印象を持ったものが真っ先に浮かぶようになる。

あのころという言葉がよく出るようになると人は年をとっている。
それは自分が生きているという証しなのだけれど、
過去ばかりを顧みる自分をふがいないと思ったりもする。

ひとそれぞれに未来を志向するものと、過去に回帰するものとがある。
洋々とした未来へ飛んで行きたいと望むこと、
なつかしいあの時代へ戻ってみたいと願うこと。

ぼくのほんとうに欲しいものはなんだろう?
健康だとか海辺の別荘だとかそんなものじゃなく。
窮屈だが、買おうと思えばメルセデスくらいは買える。
でも、とりたてて欲しくはない。

束の間、束の間の歓びを自由自在に味わえたなら、
過去に戻って、あのときのことをこうしていたなら、
分不相応になり始めた若い女性と恋に落ちることができたなら・・・、
ううむ、切実な欲しいものとはどう考えてみてもよくわからない。

たぶん、永遠に確かに欲しいものなどぼくには存在しないのだろう。