2003年02月の記事


なにげなく
 ひとのこころは、現実だけを見つめて邁進していくには、かなりの無理がいる。ひとはロマンなしには生きていけない。かと言って、ロマンだけを抱えて生きていると行き詰まる。とても現実と夢とのかね合いは難しい。それがうまくいかないと、世の中からはじかれて、とてもつらい目にさらされてしまう。

 現実では自分の感情を抑え、他人に合わせ、我慢して生きていることがけっこう多いものだ。そして、それはとても心身の健康に悪いことだ。ロマンを願いながら、ひとはとても矛盾の中を生きている。右往左往しながら生きている。

 だから、人生には明るくて、ちょっぴり奥深く、軽やかなスパイスの効いた、音楽や文学や映画や美術やスポーツや・・・・・、そんないろいろなものがとっても必要なんだろうと、僕は思う。
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ケイチュウ白書
 某女子大教授による「ケイチュウ白書」なるものが出版されたようである。ピカチュウ、ジコチュウに続く三番目のチュウとして、ケイチュウは今年の流行語大賞を受賞するのではと、専ら注目されている。

 最近では、携帯は、若い世代を中心に、会話の道具としてよりもメールの交換に使われている。いわゆるメールごっこ、短い言葉で、何度もやりとりする。料金が安価なことも理由だが、短い言葉で往復書簡をかわしあうことを楽しみにしている。

 で、「ケイチュウ白書」では、携帯依存症なるものが取り上げられている。夜、メールが入ってこないと、切なくて、物悲しくて、胸が苦しくて、眠れないなどという症候群が多発しているらしい。名づけて『ケイチュウ・シンドローム』、鬱々たる病のようだ。待てど来ぬメールを待ち続け、挙句、誰彼なしにメールを送り始めるという始末。

 ま、そこまでいかなくても、かなりの人々にとって、携帯なしの生活は考えられなくなった。僕はその「ケイチュウ白書」なるものを読んでいないので、ジコチュウでしか考えを言えないのだが、実際、携帯電話なるものは、ある面でタバコほどに他人に迷惑をかけている。劇場で、講演会で、スポーツの試合で、病院で、電車の中で、人々が集まるいろいろな場所で、どれだけ静寂を破り、どれだけ雑音を流していることだろう。自ら心せねばと思っている。

 公園のベンチにひとり腰をかけ、黙々とメールを打っている乙女の姿は、一面叙情的でもある。遠距離で話すことができないからかもしれない。けれども思うのだ。顔を合わせて、目を見つめあって、言葉を声に出して言わなくては、本当の心情はわからないのではないか。男女の間だけではなく、人々の交流において、肌を接さずに、真の理解は難しいのではないか、そう思われてならないのだ。時代の流れとはいえ、こんなちっぽけな道具に毒されたくはない。もちろん、出会い系などは論外である。

 ○○さん、あなたは「ケイチュウ」ですか?
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3TH
 気がつけば、2月11日は、Gaiaxというコミュニティサイトに参加して3周年だった。Eメールもままならないころ、ヤフーの検索で無料ホームページというものを見つけたのが、三年前の建国記念日という祭日。初めにdreamcity に加えてもらって、9ヵ月後 さすらいタウンに移籍した。カウンター数を合計すると、たぶん77777のストレートだろう。

 あのころ、半年間は全くのパソコン音痴で、書く以外のことは何にもできなかった。今も多くのみなさんのテクニックを見せてもらっていると、自分の拙さ、パソコン音痴がしみじみとわかってくる。いまだにジオシティーが使いこなせないのだから、推して知るべし、ホームページビルダーがなければ、何もできはしない。

 思えば、多くの人と知り合った。多くの人が通り過ぎて行った。よくもまあ、飽きずに三年間も継続したものである。ひとりっきりの世界でなら、ワードだけの世界でなら、ノートと万年筆でなら、とっくのとっく、三日坊主が三回続いたほどだろう。そう考えると、継続しておつきあいしてくれている人たちに、友人としてのお礼を言わなくてはならない。一握りの人を除いては、全くの見ず知らず、おそらく永遠に氏素性を知ることはあるまい。でも、そんな空を超えた縁ででも、気持ちを共有できる可能性、現実を素直に認めよう。そうして、「ありがとう」の気持ちでいっぱいである。

 多くの文字を残してきた。ここを知る前に書いた文章の量を推測して、たぶん、十倍以上を書いていると思う。稚拙なものばっかりだが、もし、突然ぼくが事故死したなら、ここに残されているものが遺書になるような気がしている。10日以上が過ぎて、わがHPの誕生に気づく、今夜の愚かさである。
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女性たちへ〜ロシアより愛を込めて〜
 議論なるものが嫌いである。特に最近、議論することを面倒だと思うようになった。どちらかというと短気で、少々頭に血が上りやすいたちで、また物事を冷静に理詰めに考えることが苦手だからでもある。

 が、議論にもいろいろあって、20世紀半ば、『革命か反抗か』という−カミュ=サルトル論争―は、思想的に、文学的に、歴史的にも世界的に貴重なものとして残っている。彼らの論争は、時の流れとともに、わずかにサルトルのほうに軍配が上がったようであるが、互いの主義主張、反駁は、まさに微に入り細に入る絶妙のものだったといえる。彼らは文学史上の好敵手だった。

 サルトルのよき伴侶だったボーヴォワールは、自身の回想録、『事物の力』の中で次のように述べている。
 「カミュは観念論者、モラリスト、反共産主義者だった。彼は一時<歴史>に譲歩せざるをえなかったが、一刻も早くそこから抜け出そうとしていた。彼は人間の不幸に対して敏感でありながら、その不幸を<自然>の罪だとしていた。サルトルは1940年以来、観念論を拒否し、見にしみついた個人主義から抜け出して、<歴史>を生きようと努力してきた」

 ボーヴォワールのこの言葉は、どことなくわかるような気がする。でも、ぼくは、『ぎらつく太陽のせいで人を殺した』というムルソーの告白は、自然の罪にちがいないのではないかと、『異邦人』を読むたびに思うのである。

 どうも話が飛躍しすぎたようである。国会中継における議員連中の質疑応答などは論争にあらず、野次怒号が飛びかい、のらくくらりとかわす与党に、全くもって論破できない無能な野党・・・・・。痴話喧嘩のようで、みっともなくて、レベルが低くて、あほらしくて見てられないのである。

 で、本題だが、Gaiaxというコミュニティの中で、一日300〜400ヒットを数える人気サイトのかたが、突如悲痛なクローズ宣言をしているのである。望むべくもなく、傷ついてしまって・・・。たまたま本日のぞいてみたら、以下の記述がされていた。

 「”光のかわりに闇がきた”ここはもう2度と 帰ってくることのない 大切な人々との かけがえのない思い出が 散りばめられている わたしの聖域でした 天国のMKJごめんね もうがんばれないや」

 詳細については、他者である自分のうかがい知れぬところであるが、わかる限りにおいて述べると、執拗かつ破壊的な掲示板攻撃にある。相手は偏執狂のようであり、病的でもあるのだろうと察する。面倒を逃れるためには、初めに慎重な偵察ありきなのだろうが、ネット掲示板にそこまで神経は使えない。時を経て、回復されんことを祈るばかりである。

 無用な議論、不用意な論争、無意味な言い争い、インターネットの時間の多くを、そんなことにつぎ込んでいる人がけっこう多いことに驚かされる。見えないことを幸いに、ヒーローのように立ち上がる人がいる。悪魔のように、ジェイソンのように、しつこくまとわりつく人がいる。見えない恐怖のやから、悪魔の称号666−オーメン。ちょいと悪乗りのしすぎだけど、狙われるのはたいてい女性だ。

 心のひだを見せすぎないこと、生身の自分をさらけ出さないこと、しつこい応酬にまきこまれないこと、掲示板ごっこはほどほどにが、ぼくの衷心からのメッセージである。どうか男なら、ジェームス・ボンド、もしくはハリー・キャラハンのような、甘くハードボイルドなタイプをお選びに・・・・・。
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お元気ですか?
 いつも川の流れを見ている。川の流れに乗って、遥か北の中学の校内放送が聞こえてくる。

 いつも海辺の写真を見ている。画像に乗って、海の鏡に映った空の光や波の音が届いてくる。
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映画評論家にはなれない!
 きのう、公開初日の『戦場のピアニスト』を見てきた。こんなことはめったにないことで、ここ十数年のうちでも記憶にない。映画のほうはCMにあるとおり、第二次世界大戦の当初の、ナチスドイツのワルシャワ侵攻を描いていくものだが、自分の胸のうちに『海の上のピアニスト』のイメージがあったことは否めない。

 ナチス占領下のポーランドで悪名高いホロコーストを生き延びたユダヤ人ピアニストの手記を、ロマン・ポランスキー監督が映画化したもので、映画の中でピアノ曲がサウンドトラックとしての叙情を誘う場面は、意外なほどに数少ない。これはリアリティーあふれる戦争実話だった。

 『戦場のピアニスト』の主人公シュピルマンはどんどん薄汚れてくる。これは身体が薄汚れるということでもあるが、身体が汚れると同時に心までもが薄汚れてくる。

 とにかく考えることは常に食べ物のことばかり。目の前で爆弾が炸裂しようが、銃撃戦が起きようが、人がバタバタと殺されようが、飢えた主人公はずっと食べ物のことばかり考える。そのさもしさ。そのあさましさ。音楽を愛し、家族や友人を愛し、祖国を愛していた主人公が、わずかばかりの食べ物を求めて目をギラギラさせる。だがこれこそが、この映画で描かれる戦争のリアリズムだ。戦争は人間を別の人格に変えてしまう。人間を動物並みの生き物へとおとしめる。

 ぺアシートでの鑑賞は思惑はずれのものとなってしまった。およそ二時間半、退屈することはなかったが、僕の目の前にあの「1900」は現れなかった。だが、シュピルマンは、気まぐれなドイツ将校の指示によって、最後のピアノ演奏を試みることによって、蘇生し、至高の芸術へと上りつめていくのであった。そして、戦争は終わりを告げ、シュピルマンの物語が実話であったことに驚かされるのである。

 詳しく的確な映画評はこちらのほうで。
http://dreamcity.gaiax.com/www/dreamcity/e/l/elliemadecom/diary.html
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最近携帯メールを使うわけ
1、寝転んでできること。
2、短くすんで、即レスができること。
3、短く読めて、即レスが来ること。
4、誰にも気取られないこと。
5、指の運動になること。
6、闇の中ででもできること。
7、その他いろいろ。
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一本!
 小四の息子が近頃、不倫および離婚に敏感になっている。ぼくが直接に聞いたわけではないのだが、妻に「お母さんは、絶対不倫をしないで!」と言うのだそうである。さらに「もしそんなことしたら、ボクはこの家を出て行くから」と強く念を押すのだという。

 今朝、その不可解な息子の話の次第を、わがかみさんが実に神妙に語ってくれた。息子のクラスでは、この一年足らずの間に、クラスメートのおよそ二割の姓が変わったらしい。離婚、再婚、再々婚と・・・・・、いちばん変化の激しかった子供は四つの姓を名乗ったそうである。

 その変動の一番の原因は、お母さんの不倫にあるという。いや、実に生々しい現実ではある。不景気なご時世ではあるが、稼ぎは人並みほどにしかなく、夫婦共働きで、炊事洗濯、子育ては嫁さん任せ、家にいたら寝転んでばかり、帰りは酔っ払ってばかりの亭主に愛想をつかせた女が、挙句よその男へと走っていく・・・・・、そんな光景が想像できなくもない。

 世の中が悪いのか、男がだらしなくなったのか、女が強くなったのか、そんなあほらしいわけなど知りたくもないが、可哀想なのはいつも子供たちだ。小四の子供たちが、学校の中で不倫の話をし、また常識的な出来事として感じてしまうことは、現在が決していい世の中だとは言いがたい。

 とは言っても、いやなやつと無理して暮らすより、さっぱりこれまでのしがらみと縁を切って、出直すことがよい場合も往々にしてあることも事実だ。まあ、男と女の世界だけは、東西南北、古今東西、話のネタには事欠くことはない。

 で、かみさんのオチ。息子がこう言っていたという。「おとうさんは携帯でよく女の人とメールしたり、話したりしてるけど、あれは昔からのくせなんやから」
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Black Death
 アフリカ南部の国、ボツワナではエイズが大流行しており、五人に一人ほどが罹患していると報道されている。そのため、現状ボツワナ国民の平均寿命は三十七歳ほどであり、この状態が継続すれば、さらに寿命が短縮されていく。

 およそ20年前、ホモセクシャルにおける病気として発見されたHIV(エイズ)は、血液によって伝染するウィルス病として、いまや全世界に蔓延している。各国の医療機関が躍起となって、ワクチンの開発研究を続けているが、延命効果は図れるものの、治癒の決め手となる薬品はいつ発見されるか予測がつかない。

 HIV感染者は長い苦痛を余儀なくされ、精神は常に死を意識している。21世紀におけるエイズは、ノーマルでない性行為によって、自業自得となった人々の難病ではなく、すべての人類に課せられた試練だと思う。貧困と無知と偏見が引き起こす途方もない疾病だと。

 思い起こせば、Black Death (黒死病)と怖れられたペスト菌が発見されたのは、19世紀の末だった。ペストは症状が激烈で、致死率が極めて高く、さらに伝染力が強大だった。14世紀中期には全ヨーロッパに大流行し、疫病史の中ででも特筆に値している。いわゆる先進国が、およそ500年にわたって、恐れおののいていた病気がペストだった。ペストは保菌動物を吸血した蚤による感染が主だったが、感染した患者からの飛沫感染、気道感染も多かった。ペストは、イコール死を意味し、伝染を防ぐには、感染したすべてを焼き尽くすしか方法がなかった。

 今でこそペスト菌が発見され、抗ペスト血清やワクチンが効果のほどを発揮しているが、またペストそのものが減少しているが、それまでの500年という歳月はなんという長さだろうか。現代の医学の進歩は、あの時代と比べ物にならないけれど、ペストの500年という歳月を考えると、エイズ(HIV)が早晩に片が付く疾病とはいいがたい気がする。

 あの時代のペストとちがい、医学書で述べられているように、エイズが自分たちで防げる病気なら、それを防げず蔓延させているこの世の人類は、無知と偏見と傲慢の塊であろう。そして、それを助長させているのは、人間の欲望。悲しいことは、貧しき人々に多発している点である。エイズは現代のペスト、黒死病かもしれない。いつかエイズワクチンが発見されても、永遠に人類には次の黒死病が待っている。

 ペストの流行が終焉したのは、必ずしも人々の努力の結果ではなく、自然現象だった。

 小説「ペスト La Peste」
/ アルベール・カミュ(1913〜1960)
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幻の国
 1960年代後半のアメリカ合衆国は、ある部分幻の国だ。はっきりと実態のつかめないコミュニズムに脅え、いわゆるアカ狩りのようなベトナム戦争にのめりこんでいた。それはアフリカ系アメリカ人の歴史ほどに、戦争にかかわった人々に深い深い傷跡を残している。

 少年時代のそのときの多くは、永遠に続くように思われる。齢を重ねて振り返ってみると、それはほんの一瞬だったことに気づくのだが、胸のうちにとどまっている記憶はいつの時代よりも鮮明だ。

 ときすでに2000年。『子どものころは楽しいことばかりで”幻の国”アトランティスにいるみたいだ。でも、大人になるとアトランティスは沈んでゆく』と、50歳を過ぎたボビー・ガーフィールドが、40年ぶりに生まれ故郷に帰り、幼馴染のジョン・サリバンの葬儀に参列してこう語る。すでにガールフレンドだったキャロル・ガーバーもこの世にいなかった。ジョンはベトナムで戦い、キャロルは反戦運動の過激派に加わっていた。

 新世紀を迎えてより、再びアメリカはアトランティスにとりつかれているかのようだ。同時多発テロ事件以降、アメリカを中心とした世界情勢を見ていると、あのジャングルでの対ベトコン以上に、泥沼の中で見えない敵と戦っているようだ。

 中東のイラクという国、フセインという大統領、ウサマビン・ラディンという人物の存在は、マスメディアからの映像、報道で、ありうべき現実として捉えられる。善悪とか是か非かという問題ではなく。

 自分にとって、一切のフィクションめいたものを除いて、最も幻の国は北朝鮮である。テレビで流れるあの国の人たちの見事に一致した表情、仕草、言動は、完璧に理解の範囲を超えてしまっている。作為的なものでなければの話ではあるが・・・・・。


 「アトランティスのこころ」 / スティーブン・キング
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Num Lock
 のおかげでパスワードが入力できておらず、書いたものが全部消えてしまった。バカな自分といやなGaiax。で、今夜はこれでおしまいです。

 そういえば、10000文字以上書いたときのこと、半角変換のつもりのEscキーで全部消えてしまったっけ。あれはもう二度と戻ってこない僕の秀作。


PS Nirvana MIDI 集 Links 1 に追加。
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Good Night
 どうやらウィルスに感染したようである。二〜三日、ロキソニンを半錠飲んで痛みをごまかしていたが、今夜は一錠飲んだというのに、喉の奥の表面だけではなく、芯が痛い。鼻水も出てきたようで、ちょっとばかりやばそうでもある。こちとらもティッシュが必要になってきた。

 明日の目覚めが快いことを祈るばかりである。わが肉体がウィルスを撃退に向かっていることを。
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暇つぶしな数分間
 我が家には風邪のウィルスが蔓延している。娘が持って帰ってきたウィルスと、息子が小学校から持ち帰ったウィルスとが交錯し、家族は何度も風邪のひきっこをしている。そうして、僕だけが一度も風邪らしきものに罹患せず、生き延びている。

 どのゴミ箱もクリネッスクスとスコッティーとネピアが入り混じって、ティッシュペーパーだらけだ。誰も彼もというほどの人数はいないが、みんな鼻の下を赤く腫らしている。クシャ〜ン、グシュという音が絶え間なく聞こえている。僕は君子危うきに近寄らずで、今日は予定を変更して自室に閉じこもっていた。

 ティッシュの山を見ていると、母の言葉を思い出す。ひんしゅくを買うかもしれないが、『マスターベーションばかりしていたら、頭が悪くなるよ。おサルじゃないんだから・・・・・』
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先生は大嫌い!
 小四の息子が愚痴を言うようになっている。これまでなかったことなのに、担任の先生のことをひどく嫌っている。『今の先生は最悪だ!』

 年齢54歳、体力的に衰えがめだちはじめ、更年期障害の真っ只中のようだ。同じクラスの子供たちが異口同音に、担任を嫌い、悪口を言う。小四の年齢は9〜10歳、大きくなったとはいってもまだまだ力は大人(ふとっちょで小柄なおばさん)に及ばない。

 殴る蹴るがしょっちゅうあり、子供たちにアホ、バカ、マヌケと怒鳴るのは日常茶飯事だ。子供たちが思うようにならず、苛立ってくると、先生のほうが切れて目の前にいる児童に八つ当たりをする。

 勇気ある子供たち数人が、担任の言動を許しがたく、校長室へ駆け込み訴えに行こうとすると、行く手を先んじて阻み、先頭にいる児童の頬を叩く。夏の体育の授業では、自分は木陰に涼んであれこれと指示をするだけだという。もちろん、水泳の時間では、子供たちといっしょにプールに決して入らない。

 ある日、息子が歯を食いしばって帰ってきた。かみさんがどうしたのと尋ねると、うわ〜んと、息子は堰を切ったように泣き始めた。理由もないことで、他人がしたことで問い詰められ、問答無用で頬にビンタされたというのだ。あんな先生の前で絶対涙を見せたくなかったと、息子はひどく泣きじゃくった。

 僕は彼女をいちばん許せないのは、人並みより劣る児童、勉強のできない児童にバカ呼ばわりをやめないことだ。肉体的に弱みを持つ児童を痛めつけることだ。

 二学期の末、児童の保護者を代表した学級委員が校長に抗議をした。僕がその担任の異常を知る前のこと、校長が善処を約束して三学期が始まった。彼女の暴力は収まったようである。が、言葉の威嚇は依然として続いているようである。

 文部省は駄目な先生の研修を、各都道府県の教育委員会に指示しているという。金曜日の朝日新聞の社説にも彼女のような先生の例が載っていた。幼い児童を威嚇し、萎縮させ、戦々恐々とした授業を平気でやっている教諭がいることを。日教組専属となった同級生がいるが、あそここそブッシュがいうような悪の中枢だと、僕は思う。いわゆる子供たちが育ち行く過程において、大切な教育というものに対しての。あの組織は、概して教師のわがまま、身勝手さ、無責任さを増長させている。

 息子の担任の女性は、あと六年この小学校に勤めて、後は年金をもらって楽しく過ごすのだそうだ。転勤はもうないという。なぜ、そんなことが決まっているのか、そんな言動を許す教育社会に憤りを感じる。一社会でなら、彼女のような社員はとっくにリストラされている。なぜ、教育の場、地方公務員の場だけが異様に優遇されているのか、やり場のない気持ちを禁じえない。

 校長は今年度で定年である。彼は彼女の担任をはずし、彼女の研修(リストラ)をする役目を担わなくてよい。もし、この病的なヒステリックな女性教諭が、次年度、五年生の担任になったときにはやむをえない。人任せにせず、自分の出番だと心得ている。息子が六年生になったとき、PTAの会長がまわってこようとも・・・・・。

 子供たちに心の底から『先生は大嫌い!』と言わせてはいけないのだ。
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備えあれば もしくは後顧の憂い
 歯の治療を受けているとき、メールが入ってくる音が心臓に響いた。左胸のポケットに携帯を入れていたからだ。治療のお礼をドクターに述べ、支払いを終えてからメールを開いてみた。

 「今日は家にいる? 今メール送った。返事待つ!」

 「今、歯医者さん。もうすぐ帰る」

 返信をして、ハンドルを握り、我が家へと向かう。また、メールが入ってきた。即レスだ。

 「ごめん、びっくりさせて。hotmail に『ウィルスに感染しています』が出た。そちらからのメールがもしあったら、開けないでね」

 よく意味がわからなかったし、彼女はひどいパソコン音痴なので、たぶん頓珍漢なことを言っているのだろうと思っていた。ウィルスに感染したとわかっているのなら、OE であろうと hotmail だろうと相手にメールなど送信しないのが常識だ。けれど、目の前で説明してやるのに500キロほど離れている。

 午後の仕事の始まりにネットにつないでみた。取引の確認をして、それから hotmail へパスワード、果たして受信メールはありはしなかった。次にOEを開いてみると、なんとウィルス感染の経緯を知らせるメールが来ているではないか。幸いウィルスバスターが反応しなかったので、彼女のパソコンは汚染されていなかったようだが、僕はあいた口がふさがらなかった。彼女は伝染病ウィルスのことを全然わかっちゃいないのだ。

 たぶん、ベッキーを使っていたことが幸いしたのだろう。パソコン音痴の彼女にベッキーを使わせた男性は、実に賢明だったといえる。意味不明の添付ファイルつきメールが届いていて、わからぬまま、疑心暗鬼でマイクロソフト社の hotmail に転送したのだという。で、そっちで添付ファイルを開いて、『ウィルスに感染しています』という、あっと驚く表示をもらったという顛末。

 災いが降りかかってこなくてラッキーだったと思うべきか、災害は忘れたころにやってくる。備えあれば憂いなし、僕がこの新しい液晶パソコンに、ウィルスバスターの新規登録をしたのはおとといだった。
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詩画集
 毎週金曜日、11時半の予約で歯の治療を受けている。先月に痛くなって以来、四週間目だと思う。すでに痛みはなく、根治治療を受けている。これまではほとんど待ち時間がなかったのだが、今日はかなり混んでいて待たされた。

 そのおかげで一冊の本を読むことができた。心地よい床暖房の待合室にはささやかな本棚がある。先輩の歯科医が亡くなって、新たに選んだこの歯科医院は、意外に快適な場所となっている。それは若いドクターの人柄でもあるが、素足に温かい床暖房とほどよく揃えられた書物にある。

 ほとんど待ち時間を忘れて、僕は星野富弘作『風の旅 (立風書房)』を読んでいた。いや、読んでいたというよりは、目と心を安らげていた。彼の第二作にあたる、この花の詩画集はとても心温まるものだった。作者は任についた体育教師としてのわずか二ヶ月に、クラブ活動の指導中頸髄を損傷し、手足の自由を失なった。だが、九年間の闘病生活の間に、生きる希望を、筆をくわえて文や絵を書き始めていた。

 読み終えたあと、末尾のページを見てみると、それは1981年の版だった。僕は二十年間彼を知らなかった。いくら書物を読んでいるようであっても、いくら音楽を聴いているようであっても、実際は知らないエアーポケットのようなもののほうが多いことを教えられた気分だった。

 美しい花の画、透明な素朴な胸をうつ言葉たち。僕がそう感じたのは、彼が重度の障害を負っているからではない。初め、僕は詩画集ばかりを見ていた。彼は乙武君ほど頭脳明晰ではない。僕は思う、星野富弘はとっても心の澄んだ、稀有な芸術家なのだろうと。そして、僕は処女作を読んでみようと、タイトル『愛、深き淵より(立風書房)』を携帯にメモった。
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CD作成
 シャナイア・トゥエイン、アラニス・モリセット、ニルヴァーナ、渡辺美里、久保田利信をレンタルしてきた。聴きたいためでもあるが、新しいPCで音楽CDからCD−ROMへバックアップしてみたかったからだ。これまではパイオニアのコンポでMDにコピーしていたのだが、マイカーにはCDプレーヤーしかないので、ちょうど都合がよかった。レンタルの中古CDから新品のDiSCの出来上がりである。ちなみに使っているソフトは、B's Recoder GOLD である。
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かのひとへの
今からハッピーバースデーのメールを送る。
残された時間はあとわずかだ。

2月8日も忘れないようにしなくてはいけない。
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プロスポーツで女性が男性と戦うとき
 アメリカ女子プロゴルフツアーで昨年11勝をあげ、圧倒的強さで2年連続の賞金王に輝いたスウェーデンのアニカ・ソレンスタム(32)に、アメリカ男子ツアーへの招待が打診されている。一昨年、史上最強のプレイヤー、タイガー・ウッズへの挑戦を呟いて話題になっていたことを思い出す。昨年約300万ドルを稼ぎ、11勝を挙げた実力は、男子に比べパワーこそ劣るものの、ショートアイアン、アプローチ、パッティングなどのショートゲームの的確さ、テクニックにおいては、トップクラスの男子プロにもひけをとらないことを実証してくれている。男子のタイガー・ウッズ、女子のアニカ・ソレンスタムは男女の双璧である。おそらく、彼女が日本男子ツアーに参戦してくれば、優勝争いをすることを予感させるものがある。

 女性において、世界的にプロスポーツとしての興行が成り立っているのは、テニスとゴルフだけ。一年の間で継続的に試合が行われていて、プレイヤーの裾野の広さにおいては、ゴルフがテニスを凌駕しているといって過言ではない。

 アニカ・ソレンスタムは北欧美人でもある。均整のとれたスタイル、端正な顔だち、身長168センチメートルのスリムな肉体には、テニスのウィリアムス姉妹のような威圧感がなくて、そのプレイスタイルの美しさにはうっとりとさせられる。

 おそらく興行的な意味合いもあるのだろうが、現在アメリカ男子プロゴルフツアーのクライスラー・クラシックとBSオープンの主催者から出場を打診されている。いわゆるスポンサーからの招待である。史上最強とも言える女子プロゴルファーに対して、お手並み拝見という思惑もあるのだろう。現在のところ、ソレンスタムは出場の意向を表明している。たった一人で男の中へ乗り込み、果敢にチャレンジしようとしているのだ。

 僕はアニカの勇気を称えたい。そして、どうにかして予選を通過し、男子プレイヤーをあっと驚かせる戦いをしてもらいたい。一般的にパワーとスタミナに劣るはずの女性が、美しい華を見せてほしい。とてもしなやかに、したたかに、蝶のように美しく、女という性を超越した、人間としてのプレイを見せてくれることを願っている。いや、女性が男性に勝てるそんなプレイを見せてほしい。可能性があるのはアニカだけなのだから。
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