2003年12月の記事


2003
今年もあと5時間たらず、
どうかみなさん、よいお年を・・・。
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地上の星
 去年の大晦日の紅白歌合戦、NHKのとっておきの目玉だったようである。ぼくは「地上の星」の世代のようだが、その歌を歌ったことがない。人気番組「プロジェクトX」の主題歌であるので知ってはいるが、歌詞のほうはあまり記憶できていない。たぶん好きでないのであり、中島みゆきらしくない歌だと思っている。が、中年(壮年)層を勇気づける歌らしく、カラオケやスナックでは、相変わらず、酒の勢いも借りながらの大合唱だそうである。

 ぼくはそんな彼らと同じほどの世代であるというのに、あの歌にあまり共鳴することがない。通俗的だからかもしれない。ぼくの知る中島みゆきは、はかなげで、苦くて、切なくて、少し恋しくて、叙情的だった。小椋佳のように歌(声の質)こそもうひとつなものの、青春のほろ苦さを忘れさせない、ピュアなタイプのシンガーソングライターだった。

 『私の声が聞こえますか』。この初期のアルバムには、「あぶな坂」「アザミ嬢のララバイ」「時代」などの珠玉の作品が収められている。幸い今年はNHKの紅白には出ないようだが、小林幸子や美川憲一らよろしく、紅白用に着飾った彼女は似合わない。時代錯誤でもなく、年を食って共感する「地上の星」などよりずっとずっといいものが、彼女にはあることをぼくは知っている。そして、ひとがあまり歌わなくなったかつての歌を、ジャケットを見つめながら徒然なる年末に聴いているのである。
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オールド・ファッション
 時代物のステレオは、今ではアンティックでさえある。ブラックトーンでイメージされたトリオ(ケンウッド)のプレーヤー、アンプ、チューナー、カセットデッキ、そしてばかでかい左右のスピーカーのセットは、今ではこの部屋の飾り同様になってしまった。もちろんレコードのコレクションも、なつかしさだけが残る雑誌の表紙のようだ。

 カセットデッキでダビングしたテープ群もひどく音質が悪い。デスクの片隅にある、パイオニアのミニコンポから流れいでるデジタル音にはぜんぜん敵わない。むかしの曲だけはアナログでと意地をはっていた。が、日々ひどくなるピイピイガアガアには嫌気がさした。針がだめになったところで、引導を渡すことにした。お役ごめん、代々に引き継がれるであろう?、ビートルズ世代の名残のようなものになってしまった。

 で、好きな曲、気に入ったアルバムをレンタルしてきて、片っ端からPCで焼きつけている。MDでもいいのだが、CDのほうがコンポに複数枚入れられるので、連続して流すのには具合がいい。最近のものにはコピーガードがついているが、あんまりぼくには関係がない。井上陽水、吉田拓郎、YES、キャロル・キング、イーグルス、トム・ウェイツ、坂本龍一、ジャニス・ジョプリン、ニール・ヤング、レッド・ツェッペリン、エトセトラ、エトセトラ。

 音質のよさは仕事のはかどりをよくする。部屋の空気をかろやかにする。むかしの音質に未練がなくはないが、こだわってばかりいてもしかたがない。といって、ボブ・ディラン全集をネットオークションにかけるつもりなど毛頭ない。彼らはただ部屋にいてくれるだけでいい。すりきれた「THE FREEWHEELIN' BOB DYLAN 」や「Let It Be」、「Harvest」、「氷の世界」などは、そのLP版のジャケットだけで存在感がある。

 ぼくはデジタルの音質で、かつての音楽を聴いている。そこにはメカ文明に毒されたようなイメージはなく、さらにきらめいて、透明な世界が漂っている。ぼくはそれらをやすやすとハミングできる。数十回、もしくは百回以上繰り返し繰り返し聴いた曲ばかりだからだ。ハミングするとき、ぼくは歳月のいろんな場所へたどり着くことができる。全く忘却していた場所へもどれることさえある。そして、未知なる音楽がそこに加わって、ぼくの新たな歳月が始まっていく。
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今年のKey Person
 今年のキー・パーソンは誰かと考える。誰が最も世間の注目を集めただろう。FAでジャイアンツを去り、ヤンキースに入団した松井秀喜だろうか? 日本中はイチローのときよりもずっと松井を注目し、彼の姿勢に好感をもちつづけた。イチローは首位打者と盗塁王を獲得し、アメリカンリーグのMVPにも輝いた。信じられないような快挙だった。それに比べて松井の活躍はありきたりなものだった。物足りなさを感じたといってよい。が、日本の野球ファンは松井の一挙手一投足を優しく見守った。松井一人をどれほどの日本のメディアがとらえたことだろう。ぼくにはほかに見当たる人物がいない。みなさんの考えはいかがだろうか。

 ちょうど40年前からの朝日年鑑の「この年のキー・パーソン」を列記しておこう。誰だか判らない人物があれば、検索してみてほしい。

 1963年、力道山、1964年、池田勇人、1965年、家永三郎、1966年、田中彰治、1967年、美濃部亮吉、1968年、マーチン・ルーサー・キング、1969年、ホー・チ・ミン、1970年、三島由紀夫、1971年、大宅壮一、1972年、横井正一、1973年、江崎玲於奈、1974年、丸山千里、1975年、有吉佐和子、1976年、田中角栄、1977年、王貞治、1978年、�ケ小平、1979年、マーガレット・サッチャー、1980年、ジョン・レノン、1981年、向田邦子、1982年、岡本綾子、1983年、土光敏夫、1984年、上村直己、1985年、坂本九、1986年、土井たか子、1987年、平沢貞道、1988年、江副浩正、1989年、美空ひばり、1990年、緒方貞子、1991年、ミハイル・ゴルバチョフ、1992年、伊丹十三、1993年、曙太郎、1994年、向井千秋、1995年、野茂英雄、1996年、渥美清、1997年、マザー・テレサ、1998年、太田昌秀、1999年、松坂大輔、2000年、高橋尚子、2001年、小泉純一郎、2002年、ウサマ・ビンラディン。
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線路道
 線路道を歩く光景、真っ先に想い浮かぶのは、やはり「スタンド・バイ・ミー」の少年四人組だ。少年期特異の友情と冒険の旅。

 ぼくも小学生の高学年のころ、よく線路道を歩いて目的地へ行った。ローカルの単線だったので、見晴らしがよく、汽車の音は風に乗って伝わってきた。バットとグラブを持って、田園地帯の外れにある、誰の所有とも知れない原っぱで、三角ベースのソフトボールをした。その原っぱは線路沿いにあって、汽車は一時間に1〜3回、上りと下りが往き来した。ぼくたちに手を振るのはたいていおばあさんだった。

 線路道は夏は暑く、線路の向こうには陽炎が浮かんでは消えた。冬は吹きすさぶ風が冷たく、それを遮ってくれるものは前を歩く友だちだけだった。

 線路道を歩いても誰も怒るひとはいなかった。汽車がどちらからやって来ても気づかないことは、ぼくたちにはありえないことだった。ぼくたちはすばしっこく鋭敏だった。あの原っぱまでおよそ2キロ、どこを歩くよりも近道だった。

 ある秋の日曜日には、弁当をリュックに入れて、北の終点まで歩いていった。ストリップショーがあるという、金毘羅さんのお祭りだった。担任の先生が「ストリップだけは見に行くな」といわなければ、ぼくたちは12キロの道程を歩かなかっただろう。へとへとになってたどり着いたとき、その未知のストリップショーの楽屋は怖いおっちゃんたちに囲まれていて、たんぼの中から遠く覗き見するしかなかった。ぼくを含めたそれぞれの四人が「あっ、見えた、見えた」といったけれど、ほんとうは誰も何も見えていなかった。

 三角ベースのソフトボールは、冬のほうがよくした。夏だとまわりに草が生い茂っていて、ファールを打つと、なんどもボール探しをしなくてはならなかったからだ。見つからないと、「アホ、ボケ」とすぐにけんかになった。あのころ、まだセイタカアワダチソウなる草は生えていなかった。

 ソフトボールの合間に、線路に一円玉をよく置いた。汽車がその上を走ると、一円玉はぺしゃんこになった。それをなんどもくりかえすと、うすっぺらい直径4センチほどの一円玉ができあがった。脱線のことなどぼくたちの意識になかった。まして、硬貨改造なる犯意などは皆無だった。ぼくたちには、バットでボールをジャストミートしたときの快音と、いたずらの歓びとが同居していた。

 近くの畑でイチゴ泥棒をして、お百姓さんに追いかけられたこと、柿木にのぼって片っ端から柿の実を落としたこと、イチジクの熟した大きな実をとろうとしてクマン蜂に追っかけられたこと、なつかしいことだらけだ。

 原っぱのすぐそばに枇杷の木が植わっていた。枇杷の花は初冬にひらく。大きい当たりを追って、バックしていくと、その黄色い花がよく見えた。汽車の煙が風に乗って、ぼくたちを包み、ぼくたちの上を流れた。

 レールに耳を当てていると、汽車が近づいてくるのがわかる。遠い遠い振動が徐々に徐々に近づいてくるのだ。青大将が一匹姿を現した。にらまれた友だちが身動きできずにいた。ぼくは足元にある大きな石を両手で持ち上げて、青大将の頭の上に落とした。線路の真ん中で、ぐしゃっという音がした。ふるえていた友だちが泣かず、ぼくが声をあげて泣いた。

 すでにあの線路道はない。17年前にJR西日本が廃線にして以来。あの原っぱもそれ以前になくなっている。ぼくたちが歩き、遊んだ線路道、それは「スタンド・バイ・ミ」のような冒険じゃない。でも、枇杷の花が咲くたびに思い出す。あんなふうに遊べることは二度とないだろう。けれど、心はいつも楽しんでいる。まんざら歳月は捨てたもんじゃない。
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メリー・クリスマス・フォー・ユー
傍らにチョコのないショートケーキとホットミルクがあります。 
が、やはりメリー・クリスマスではありません。
あさって中に仕事納めをするべく、目下奮闘中です。
絶対に29日の月曜日まで延ばしたくないと必死です。

三枚のCDのリフレインを何度繰り返し聴くのでしょう?
入れ替える気にもならず、少々フレーズもおぼわってきました。
入っているのはきのうレンタルして焼き付けた井上陽水と吉田拓郎、
エルビス・プレスリーという組み合わせです。

少しくらいクリスマスムードをという女性の言葉を痛いほどに感じながら一日がすぎました。
スティービー・ワンダー、マライア・キャリー、辛島みどりなどの
クリスマスソングがあるはずなのですが、どこにあるのかさっぱり見つからないのです。

「さがしものは何ですか♪」とやっぱり陽水が歌い始めました。
わかっています。
さがすのをやめたとき、クリスマスが終わってからある日突然、どこかで見つかるのです。

では、みなさん、今夜はこれでご機嫌うるわしく・・・・・。
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天皇誕生日
 未だに4月29日だという感覚がある。どうせなら、24日にしてくれればと思ったりもする。たぶん、ふつうならもう一回だけ、別な日の天皇誕生日を知ることになるだろう。

 平成になってまだ間がないころ、ホテル・ニューオータニでのレイ・チャールズのディナーショーの帰り、「天皇誕生日だから警察も検問はしないだろう」とタカをくくって中国自動車道池田インターチェンジに入ったとたん、検問に引っかかった。風船をふくらませた結果、酒気帯び運転であった。平均台を歩けたというのに。

 せわしない時期の祭日である。この一日の休日で、明日から歳末までが極めて多忙になる。明日はジングルベル、きよしこの夜である。明日くらいはこの画面を見ないで、素敵な夜をすごしたい。クリスチャンじゃないけれど・・・・・。
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エルビス・プレスリー
 プレスリーのCD「30ナンバー・ワン・ヒッツ」の焼きつけをすませた。エルビス・プレスリーのナンバーは、洋楽好きなぼくが全くストックしていないもののひとつである。

 ぼくはビートルズ以降の音楽の世代だ。ぼくはプレスリーの歌を幾度となく耳にしたが、レコードを買う気にはなれなかった。1960年代の世界最高のスターだったエルビスを、あのスタイルのせいで、バタくさく感じて好きになれなかったのだと思う。

 古きよきアメリカ人にとって、プレスリーは今なお最高のスターなのかもしれない。史上最高のロックン・ローラーだとも呼ばれている。が、最も記憶にあるのは「ラブ・ミー・テンダー」で、とても情熱的なムードソングだ。焼きつけたCDを聴いている。タイトルまでは覚えていないものの、そのメロディーの多くを記憶している。

 日本でいえば、石原裕次郎がプレスリーに匹敵するのだろう。その生と死において、国民の多くに愛されたという点において、ヒット曲が数多くあるという点において。

 が、今改めて聴いてみて、プレスリーのロックはとても静かだ。代表的な「ハートブレイク・ホテル」「監獄ロック」「ハウンド・ドッグ」においてすら。ビートルズやローリング・ストーンズなどとは全くちがう。といって、ビージーズやベンチャーズみたいに、ソフトでかったるくはない。ジョーン・バエズのようなフォークでは決してない。

 エルビスの死後の1980年代の11歳の少女の話である。聞き手は、コラムニストのボブ・グリーン。

 「クラスの子たちったらみんな、わたしがエルビス・プレスリーを好きだっていうんで、バカにするの」とミシェルはいう。

 ミシェル、ぼくも同じなんだ。いっしょに仕事している連中は、きみの場合と同じ理由で、ぼくをアホだっていうんだよ。

 「エルビスを好きになるなんて変だって、みんながいうの」

 ぼくだっていつもそうなんだ、ミシェル。

 「エルビスはすばらしい歌手だったって、お母さんから聞いたわ。それに今の歌手みたいにへんてこりんじゃなかったって・・・・・」

 ぼくにはうまく説明できたことがないんだけれど・・・・・。

 「でも、エルビスが好きだって友だち、ひとりもいないの」とミシェルは嘆いた。

 ぼくにもいないんだよ。

 「友だちはみんな新しいグループが好きなの。トゥイステッド・シスターとか、Mr.ミスターとかそんなおかしい名前のグループばっかり・・・・・」

 やっぱりぼくだって、そういうの理解できないな。なんで今の歌手たちったら、エルビス・プレスリーみたいな素敵でまっとうな名前をつけないんだろう。

 「エルビスって、とってもハンサムでセクシーだと思うわ」

 そう確かに若かったころはね。

 「死ぬちょっと前だって、ぜんぜんかっこよかったと思うけど」

 とっても彼に親切なんだなあ。

 「ううんちがうの。彼の映画は全部見たけど、いまだってとても素敵よ」

 エルビスがなんで死んじゃったか、きみは知ってる?

 「ドラッグをやってたんでしょ」

 そのことどう思う?

 「エルビスって、若かったころよりずっとよくなってたんじゃない? でも、いくら彼だって、ドラッグはよくないと思うの」

 ぼくもそう思うよ。

 「ともかくわたしは七つか八つのころからエルビスが好きだったんです」

 もう生きていない歌手を好きになるには、ずいぶん早かったんだな、ミシェル。

 「彼はいまごろのスターたちよりぜんぜんセクシーだと思うわ。エルビスはドン・ジョンソンやトニー・ダンザよりセクシーでしょ」

 でも、彼らは生きてるんだよ。

 「そう、エルビスがもう死んじゃってる人だってことが、クラスの友だちがわたしをバカにする大っきい理由なの。死んじゃってる人間、もうどこにもいない人間を好きになるなんて、どうかしてるってわけ」

 子供って、大らかじゃないなあ。

 「何年か前、お母さんと妹といっしょにグレースランドへ行ったの。エルビスの家を見て興奮したわ。お墓へ行ったときは、思わず泣いちゃった」

 そういう人がたくさんいるんだよ。

 「これからずっと時間がたって、誰かエルビスが好きだっていう人がまだいるかどうかわからないけど・・・、11歳で彼が好きなのは、わたしだけよね」

 ずっとそのままでいてよね、ミシェル。


 そうだったんだ。同級生のあいつはエルビスが好きだった。ビートルズでもなく、ボブ・ディランでもなく、グループサウンズや吉田拓郎でもなかった。文化祭で「監獄ロック」を独唱したあいつは、最大暴力団跡目相続闘争で、ハジキをまともに受けて死んじゃったんだ。おまえはあのときのままで死んだんだよな。
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存在
 ぼくは生粋の日本人である。が、食事に米がなくても味噌汁がなくてもいっこうに差し支えない。

 盃をかわしあうのが嫌いである。宴席が好きではない。演歌が好きではない。いちばんきらいな歌は「涙の操」。だから、おっさんばかりの宴会が嫌いである。

 いわゆるお涙頂戴の話が嫌いである。「いっぱいのかけそば」にはだまされたが、たまには手落ちもある。「男はつらいよ」シリーズが苦手だった。寅さんは日本人の心の故郷だなどと聞くたびに辟易した。そんなふうに決めつけないでほしいと思ったのだ。ひとそれぞれに日本人の心を持っている。ぼくは「あっしにはかかわりのねえことでござんす」の孤独な渡世人、木枯らし紋次郎のほうが好きだった。

 家では、ベッドより畳の上の布団のほうが好きである。が、旅館よりホテルのほうが好きである。邦楽より洋楽のほうに好みが多い。が、ダイアナ妃より夏目雅子のほうが好きである。こんなふうにぼくは矛盾だらけの日本人で、変人だといわれることなく普通に生きている。
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雪景色の朝
 暖冬だったきのうまでとはうって変わって、猛烈に吹雪いている。これでは明日のゴルフは中止だろう。雨でも台風でもゴルフ場はクローズしないが、雪の中ではボールを打つことも、打ったボールを見つけることもできない。白いグリーンでパターをしたところで、ゴルフボールは雪だるまになるだけだ。

 きのうの「北の国から」は晴れていた。おとといのは雪ばかりだった。田中邦衛が若大将シリーズの加山雄三の相手役青大将を演じていたころから、彼の風貌はほとんど変わっていない気がする。むかしからしわくちゃな顔つきで、その性格俳優ぶりをいかんなく発揮していた。彼を見ていると、時代の流れをあまり感じない。

 やたら涙するシーンが多いのは、登場人物が紆余曲折な人生を送っているかにある。が、ある面、五郎を理想的な父親像として描こうとする倉本聡の作意が見える。忘れられた日本人の良さ、失われていく人間関係、よき家族というものを、試行錯誤しながら見つけていこうとする、また視聴者に気づいてほしいと願っている。そんなふうにドラマのテーマを感じるのだ。

 が、あんな美しい自然の中で育ち、愛情いっぱいの父親に育てられた子供たちが、あのような人生を歩むだろうか。確かに世間は冷たく、まっとうに生きる人間に過酷な運命をもたらすことがある。五郎は古きよき人間像なのであろう。加えてかたくなな。そこに日本人が好む浪花節調を感じとってしまう。美しい北海道の自然の中で、人々の心の機微を映し出しながら、絶え間ない苦悩と疲弊と愛惜が、さだまさしの音楽にかもしだされて流れていく。

 この夏、道東旅行をし、最後に富良野へ立ち寄ったとき、すでに五郎の家は観光地化していた。富良野のいちばんの観光名物がラベンダー畑だったのは、かつてのことになっていた。平日だったが、多くの旅行者が往来をし、つつましやかだった初期の五郎の家を静かに見ることはできなかった。そこを外れ、深く森の中へ入り、森林浴をしていると、キタキツネを見つけた。しじまの中で見つけた一匹の動物、彼が北の国のほんとうの生き証人だったのかもしれない。

 12年前、富良野を訪れたとき、五郎の家は観光地ではなかった。むろん、ぼくは「北の国から」のドラマを知らなかった。七月のさわやかな季節で、ラベンダー畑を堪能しながら、姉妹都市の面々と友好を暖めあったものだった。ほかの富良野の観光はと尋ねたとき、その舞台の話しは出なかった。富良野観光はもっぱら自然の美しさであり、道央から見渡せる連峰だった。

 少し太陽が顔を覗かせたり隠れたりしている。この地方ではめったなことでは積雪し、根雪とはならない。厳しい北海道の自然を思い浮かべる。厳しい自然と向き合って生きることは、ふつうの暮らしよりは厳しいものだ。大自然の中で生きていると、人のちっぽけな運命なんて、どうとでも変化するような気がしてきた。それが北の国からの便りなんだろうと思えてもきた。

 安逸にお涙頂戴はしたくない。作者の意図するままに流されたくない。人生で、人は泣いたり笑ったり、怒ったり、めげたりする。「北の国から」はそんなものを凝縮して描いていると思う。わずかに見ただけだが、「北の国から」というドラマを、今のところ、ぼくはあんまり評価できない。初めから見ていないせいもあるだろう。感動のフィナーレをかざるために、何度も何度も苦悩を繰り返し、そしてひとつの命を全うさせようとする・・・、少々うざったいのである。さて、今夜を見て、どんなふうに気持ちに変化が出るか、どうにもこうにもひねくれものは扱いにくい。

 ぼくは両親によく言われてきた。「おまえはさめている」と。そんなことはない。ぼくは人一倍感動性で、ひとり映画館で何度も泣いていたというのに。また、ひどく吹雪いてきた。車で出かけられそうにない。携帯にメールが入ったようだ。それを見てから息子と雪合戦でもやることにしよう。雪だるまも作ろう。一年に一度あるかないかの雪の週末なのだから。
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11th 
 今日は息子の11歳の誕生日である。

 11年前の12月18日の深夜、スナックでカラオケを歌っていた。桑田の「スキップ・ビート」をノリノリで歌っているときだった。ポケベルが鳴った。また、飲み屋のねえちゃんからだろうと思った。スケベェ、スケベェ♪と声をからしながら、鳴り続けるポケベルをしかたなく見たとき、それは自宅の番号だった。不吉さを感じてすぐに電話をかけた。近場にいてよかったと、そのとき思った。

 受話器からは妻の「破水した!」の一言だけ聞こえた。あわてて車に乗り、家へ帰り、即病院へ駆け込んだ。予定日は翌年の1月25日だった。まさか年内とは、予期せぬことだった。が、予感が全くなかったわけでもない。妊娠初期のころ、切迫流産で、24時間点滴を一週間足らず受けて、どうにかもちこたえていたのだから。

 日付が変わったころ、病院へ着き、それから約二時間後、息子は生まれた。早産の未熟児で、生まれ出でた肌の色は真っ白だった。まだ胎盤に中にいる状態から外へ出てしまったからだ。息子は体を洗われ、赤みがかった肌の色になって、保育器に入れられた。鼻からチューブを突っ込まれ、痛々しかった。それでも息子は保育器の中ですくすくと育っていった。先に退院した妻はせっせと母乳をやりに病院へ通い続けた。そして、息子が退院したのは分娩予定日だった1月25日、先天的な障害もなく、これまで心身ともに無事に育ってきてくれた。

 先ほど、バースデーソングを歌って、お祝いをしてやったところだ。10代になって、幼さが少し減り、やや生意気になりつつある。が、祝福されるときの笑顔は子供にしかないすがすがしさだ。なんのうれいもなく、純に喜べている。今のままの気持ちをすこやかに育みながら、少年時代を歩んでいってほしいと願う。そして、「親がなくても子は育つ、親がいるから子が育たぬ」といわれないように、自らを律していきたいと思うのである。

 さて、「北の国から」が始まる時刻だ。きのうはじめてあのドラマを見て、まさか昭和56年からのものだとは思わなかった。ぼくはそのころ忙しくて、テレビドラマなんて見ている時間がなかったからだ。純や蛍の幼年時代の映像を見て、彼らがそのまま大人に育っているのではないかと気づき、検索にかけたら、まさにちょうど20年の大河ドラマになっていた。なんと子役がそのまま成人して、大人の役を演じていた。うそのような発見だった。今日の息子はその初めのほうにいる。どんな息子に育っていくのか、どんな父親でいることができるのか、まだまだ先は長い。
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Move Over
 ドラマ「北の国から」を見たことがなかった。人気があることをなにげなく感じていただけだった。この夏、家族で北海道へ行き、富良野を訪れた。そこで「北の国から」の舞台を見た。すでに観光地化してしまっていたが、小さな家族の物語を見てみたいと思った。それが昨夜からの一挙再放送である。今晩は早く夕飯を食べて、風呂へ入って、あったかいふとんの中で見るとしよう。80.000Hitはどなたかな?
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投資の勧め
 労働でなく、お金でお金を生み出す方法、それは投資である。一般的に投資というものは、危険や胡散臭さがついてまわる。また、ローリスクと安心させる商品ほど、ハイリスクであることが多い。それならば、やっぱりハイリスク、ハイリターンを選択するほうがいい。リスク覚悟で大損をしても、だまされたと恨んだり、泣きわめいたりせずにすむ。が、ぼくはそんな相場を張る勧めはしない。闇雲に株を買うこと、投資信託を買うことはやめておいたほうがよい。やられたとき、精神衛生上、非常に好ましくないからだ。無知な投資ほど怖ろしいものはない。

 それなりに損の痛みを知り、投資というものの勉強ができてくると、ほどほどのリスクでハイリターンを得ることができる。最近の三井住友銀行の店頭で目にするポスター、米ドル債と日本株投資信託。とりわけ日本株投信のほうは、年初より19%の上昇と買いあおりをしている。メガバンクだから安心だと、これを進んで買うようじゃ、投資をする資格はない。銀行という金融機関は結果を見てからでしか考えることができない。

 去年の末より、今年の四月までの日本株の暴落時、銀行マンは、株ほど危ないものはないと説き、国債ばかりを勧めていた。銀行マンはお金の枚数を数えるのは上手だが、運用に関してはずぶの素人より始末が悪い。うぬぼれとも知らず、知識があると自負しているからである。4年前のネットバブル時、株価がピークのとき、小金持ちのおばさんに、前年のデーターをもとにいちばんボランティリティーの高い投信を勧めていた。半年後、そのおばさんが二階の同じ場所で、代わりの担当者に泣きわめいていた。1.000万円が700万円になった、どうしてくれるのよと。そのとき700万円で売却しておれば、損は300万円ですんでいたが、今なら少し値をもどしたが半分の500万円である。転勤族は後の責任がなくて幸いである。が、投資はすべて自己責任、進んで買おうが勧められて買おうが、同じことである。

 で、包み隠さず申し上げると、ぼくが本格的に投資なるものをはじめて10年余。初めのころはわからないことが多くて、証券マンを疑いつつも信用して、もうかったり、損をしたりのどたばた投資だった。損がかさむとノイローゼ気味になり、このままじゃ健康に悪いと、「ええい成り行きで売ってしまえ!」と大損をしたこともある。が、決して泣いたり、営業マンに怒鳴ったりはしなかった。忍の一字、耐えに耐え、おいしい商品がやってくるのを手練手管で待っていた。

 あのころの手練手管とは、今になって思うと未熟なものだった。この十年の間にぼくと営業マンの年齢が逆転をし、専門的用語やシステム的なことを除けば、経験に基づくノウハウは支店長レベルと大してちがわなくなった。いや、支店長は日常の実務を行っていないから、生々しい相場の現況はぼくのほうが熟知しているといっていい。

 あせみずたらして働いて得たお金をさらに増やす方法。それはやはり投資である。それは安易ではない。が、生きるか死ぬかいった修羅場をくぐり抜けねばならぬようなものでもない。あわよくばと、二倍、三倍、四倍と大もうけを望まねば。ぼくの投資方法は、小リスク、ミドルリターンである。年間を通して、資金の10%を増やす、ちょうど10年間を平均して、毎年その目標を達成することができた。残念ながら、そのコツを紙面で説明することはできない。

 インターネットが普及して、情報が手に入りやすくなった。インターネット証券では格安の手数料で、株の売買をすることができる。大手証券会社と相対の取引を混ぜ、いかに自分の望むものを、どれだけ確保できるか、またつきあいの範囲でのものを些少の損、もしくはチャラで逃げ切れるか、そんなふうにしてぼくの10年がすぎていった。かなりの神経をすり減らした。肉体疲労以上のどうしようもない疲労を感じるときが、年に数回あった。たぶん、それは、しばしうつ状態に陥っていたのだろうと、今になって思う。

 今年の利益も確定した。ネットバブル時に次ぐ成果だった。が、今年いっぱいでやめようかとも考える。インターネットのおかげで知りすぎることがある。光の速さでジャッジを下していると、頭が朦朧とすることがある。電話でやっているころは時間に追われなかった。が、今さらアナログからデジタルに変わったことを・・・、もとにもどせるわけがない。とにもかくにも疲れやすい時代になった。

 楽をしてお金儲けをすることはできない。投資の勧めとは、まず第一に経済の勉強をすることである。基本的なグローバル経済が理解できてはじめて、投資というレールの上に立つことができる。それは紆余曲折の長い道のりでもある。自己責任のもと、今以上の物質的優雅さを求めるならば、投資というものを学び、投資というものに真摯に打ち込んでいくことをお勧めする。それは決して安逸なものではなく、神経戦であることをご承知いただきたい。相場などというものを張らず、ビジネスとして取り組めたなら、投資は継続的に報われるのである。
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1970年10月4日
 ジャニス・ジョプリンの死は、ビートルズの解散よりも早い。27歳でこの世を去ったジャニスは、ジョン・レノンやポールマッカートニーよりも若かった。

 美しくもなく、賢明でもなかった。アルコール依存症、性的逃避、そして、最終的に彼女を死に追いやったドラッグの乱用、彼女の音楽は、そのセンセーショナルな生き様の二の次にされてきた。また、ジャニスの音楽活動はわずか4年に過ぎなかった。が、その短期間に、彼女を評するタブロイド紙の安っぽい記事にはおよびもつかない優れた音楽を残した。ジャニスの歌は、没後30数年を経ても忘れられることはない。

 一昨日、ビデオで初めて、生のジャニスの歌う姿を見た。思いのほかよかった。生まれ故郷、テキサスの孤独なみそっかす少女が、その孤独をのりこえようと懸命に歌っていた。誰も振り向いてくれなかった。誰も関心を持ってくれなかった。そんなジャニスがシスコへ出て歌手になった。そして、束の間自由になれた。ふつうの女の子の幸せをつかめるはずだった。

自由ってことは
失うものが何もないってこと
何もないってことは
自由じゃないってこと
ボビー・マギー
あたしのボギー・マギー
あの人を恋人と呼べたなら
アタシの男と呼べたなら
アタシの恋人と呼べたなら命を賭けて愛するわ
愛してるのよ、ボビー・マギー
Hey hey hey ボビー・マギー

 ジャニス・ジョプリンは10月4日、ハリウッドのホテルの一室で、ヘロインの過剰摂取でこの世を去った。

 Summer Time
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ゴルフ・グランドマンスリー
 昨日、各月の月例杯優勝者でその年のチャンピオンを決定するグランドマンスリーで、同スコアで破れ優勝できなかった。準優勝という賞は、二番目ではあるけれど、絶対に一番ではない。17番ホールの2メートルのバーディーパットが決まっていればと、タラレバの悔しい夜をきのうすごした。日程の都合上、また慣例にしたがって、プレイオフはなく、午後のハーフのスコアがよいほうに優勝カップは渡った。またもやあいつにと、天敵のような人物にである。

 で、今夜は、きのうの肉体疲労と仕事の疲れが相俟って、早く横になることにする。目をつぶって、各ホールのシーンを思い出しながら、またまたタラレバをくりかえすのであろう。ぼくはけっこう思いつめるたちなのである。とりわけ勝負事と女性に関しては・・・。
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Jリーグ
  サッカー・天皇杯全日本選手権の三回戦、J1を完全制覇した横浜Fマリノス対市立船橋高校戦は、からくもPK戦でマリノスが勝ったものの、日本のプロサッカー界のレベルの低さを露呈した試合だった。高額な年俸でプレイする日本一のプロチームが、いくら調子が悪かったからといえ、16〜18歳の高校生イレブンと延長試合を演じ、2-2でPK戦に突入するとは、あきれはててものがいえない。プロ野球なら、夏の甲子園優勝チームとどのチームの二軍とが戦っても、おそらくプロ野球チームが大差で勝つことだろう。今年の日本一、福岡ダイエーホークスのレギュラーと試合をすれば、5回コールドゲームはまちがいない。野球では、プロと高校生との差はお話にならないほど甚だしい。

 J1で低迷が続くヴィッセル神戸は、経営難に陥り、民事再生法を申請したばかりだ。スポンサー企業はつぎつぎと撤退し、地元神戸市はその赤字補填に音をあげた。現在インターネット商店街の楽天への譲渡が有力視されている。また、J2のサガン鳥栖は存続の危機に瀕している。Jリーグが発足したころ、またワールドカップが日韓で開催されたとき、サッカーはそれなりに盛りあがった。が、Jリーグの現状はJ1とJ2で28チームもあり、プロ野球チームの二倍を四チームも上回る。

 サッカーでは、スポーツ新聞は売れないという。やたらサポーターたちが騒いではいるが、全国民における人気度のすそ野はプロ野球に比べてかなり劣る。その理由を、熱烈なサッカーファンを擁する欧州の国民性の差と、日本におけるサッカーというスポーツの歴史の浅さだという考えは、的を得ていないと思う。Jリーグが発足してすでに十数年が経過している。人気選手の多くは欧州へ移籍し、TOTO(サッカーくじ)の売れ行きも悪く、サッカー人気はどうにか国際大会でのみ維持できている程度だ。
 
 企業はリストラの余地を模索している。社会人スポーツチームが年々減り続け、それは野球にまで及びはじめた。いつ大手企業が、Jリーグから撤退するかわからない現状である。コストのかかるわりに宣伝効果はほとんどなく、観客動員が少ないから赤字は増える一方だ。プロ野球は週に六試合を行う。サッカーはといえば、せいぜい二試合、観客は数千人ほどが多く、1試合5万人を集客するジャイアンツやタイガース、ホークスなどの年間300万人以上の観客動員にはるかに及ばない。

 Jリーグはあまりにレベルが低いといわざるをえない。はっきりいって、へたくそきわまりないのだ。へたくそな試合を誰が好んで見る? もし、PK戦で市立船橋高校が勝っていたなら、高校生イレブンを讃えるより、番狂わせを演じたプロナンバーワンチームに各紙がこぞって批判の言葉をあびせるだろう。とにもかくにもチームが多すぎるのである。精鋭を集めて、プロ野球ほどにチームを集約し、さすがプロフェッショナルだと感じさせるプレイを見せなければ、Jリーグ自体が存続の危機に立たされるかもしれない。そして、ジャパンチームだけが残り、バレーボールのように年に1〜2度だけブラウン管のスポットをあびるようになる可能性だってある。そのときは、優勝争いとはかやの外、すこぶるよわっちいチームになり下がっていることだろう。

 時代の流れとともに、「キャプテン翼」が「アタックNO1」のようにならぬことを祈るばかりである。
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第三 四半期
 今年の9月〜11月は多忙だった。神経をすり減らすことが多くて、年の瀬を迎えるにつけ、疲労が蓄積してきたようである。最近、夕方になるとどっと疲れが押し寄せてきて、しばしバタンキューになるときがある。労働時間自体はたいして多くないのだが、濃密というよりはナーバスな時間が多すぎた。

 ま、そのおかげで無事新年を迎えられるわけだが、あんまりお金のことを気にしないで仕事(生活)をやりこなせないだろうかと、近頃つくづく思う。お金に蹂躙される仕事などうっちゃってしまいたい。食べていくこと、自由な時間をすごすこと、幸福な日々を生きること。

 思えばネットの普及でせかせかするようになった。電子商取引なるものは瞬時の決済だ。最後のクリックですべての決定がなされる。マシーン相手では取り消しがきかない。ミスに対する絶対的な不安、常に神経は研ぎすまされていないといけない。視神経と脳神経がパニックに陥りそうである。10月の半ば、「ランドセン」なる薬の世話になったこともある。

 身勝手だが、小学校が冬休みに入るころから年末休暇をとってやろうかと思う。クリスマスイヴの夜に脱出し、南の島でのんびりと遊んでやろうかと。が、問題は親である。ほったらかしにできるかどうか、面倒なことにならないかどうか。帰らないでいいのならかまわないのだが・・・。
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個人向け国債
 郵便局や銀行、証券会社で第五回個人向け国債の販売が行われている。概要は変動金利制(最低金利保証付き)を採用しており、10年償還、初回適用利率は0.62%である。また、途中解約も可能であり、1年以上を経過すれば元本が保証されている。で、1単位が1万円と安価なため、とりわけ郵便局では売れ行きは好調のようである。

 日ごろからつきあいのある証券マンは、その販売に悪戦苦闘しているもようである。大手証券会社の販売総額は、郵便局などとは比較にならず、かなりのものであるらしい。いわゆる資産家なる人々を熟知しているからである。中堅管理職レベルでは1.000万円単位、億以上の契約を果すべく、それでさえ特定口座で多忙な時期だというのに、連日連夜顧客を訪ねて奔走している。株式の販売ならお手の物のぼくの担当者は、国債などという堅い商品が苦手だ。ローリスク、ローリターンなど性分に合わないのだろう。が、決してぼくには国債を勧めない。頭をいくら下げようが、買ってくれないことは重々承知だからだ。

 すでに購入されたかたにはよけいなお世話だが、国債などは買わないほうがよいと思う。1年0.62%という金利は銀行預金よりましかもしれないが、20%の源泉徴収をされれば0.496%。100万円購入して、金利はたった4.960円、1年経過後の途中解約を申し出ると、元金は返還されるが、そのとき1年分の金利(0.62%)返還を求められるから、実質は源泉徴収分の損である。だから、1年と6ヶ月以上ホールドしないと元はとれない。いざというとき動かせないデメリットを考えれば、5.000円くらい節約しようと思えばできる。

 個人向け国債とは、国の国民への借金である。これまでの一般国債は10〜20年物で、満期がくればかなりの金利だった。個人向けなどなく、都市銀行、地銀、信用金庫などの金融機関が主に購入をしていた。もちろん、貸出金利よりは安く、預り金利よりは高かった。年々、その過去の国債の償還を迎えていて、国家はその返済と、それに加えて新たな財源を確保せざるをえなくなっている。数年、税収が歳出をはるかに下回る状況が続いているからだ。

 で、財務省は貯金大好き国民に白羽の矢を立てた。逼迫した財政は個人に頼らざるを得なくなったのである。第1回を試しにやったとき、予想以上によく売れた。財務省はそれに気をよくして、2回、3回、4回と連発し、今回に至ったのである。国民が、だらしない日本の銀行というものを信頼していない結果でもある。が、付和雷同的国民性と指摘することもできる。右へ倣えが大好きな日本人は、国債という名の金融商品に安心しきっている。

 アルゼンチン国債の84%が藻屑と消えた。社会の中枢にいる連中ですら経済音痴がいかに多いことか。オーストラリアはすでに昨年国債の発行をやめており、世界中が低金利に喘ぐなか、ジャパンマネーを中心とした海外のお金が流入しつづけ、金利はさらに上昇をした。現在では、豪ドル債では5%以上の金利が保証されるまでにいたった。

 ぼくが国債を勧めない理由は、金利が低いからじゃない。一般国債の発行でも財源が間に合わず、それを個人に向けてきたということは、国の金融情勢がメガバンクなどの金融機関と表裏一体だということだ。うすっぺらい皮一枚、せずにすむ公共事業を繰り返し、地方と共に無駄金ばかりを使う旧態依然とした役人体制、それを整理収拾できずにいるジレンマ。やってのけることは思いつきの安易なことばかり。手をこまねき、時ばかりがすぎていく。

 個人向け国債は、今後も途絶えることなく毎年発行されるだろう。おそらく1年に4回以上。そして、10年がすぎたとき、それからは国債の償還のための国債を発行することになるだろう。雪だるま式に積み重なる国債という名の借金、経済が回復すればという希望のもとになされているのだろうが、それは淡くはかないものだ。個人向け国債は愚の骨頂だと思っている。してやったりとほくそえんでいる財務省役人たち、10年もすれば次の世代がそのお荷物を背負うことになる。だから、ぼくは国債を勧めないし、絶対買わない。マニフェストなんてどうでもいいから、早く自力回復の道程をともに歩んで生きたいと切に願う。

 第5回個人向け国債  ←左上ホームをクリック
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雨の夜に
 夕方から土砂降りである。で、相変わらず「雨降りの夜はミステリーがいちばん」などとほざきながら、次にどれを読もうかと考えている。枕元にはプルーストの例の本の三巻目が裏返しにして置かれたままだ。全然進めない。文学を読破するには体力および根気がなさすぎる。

 きのうビデオ録画しておいたジャニス・ジョプリンのドキュメンタリー&ソングをバックで聴きながら、長い夜をすごそう。今日は書類の片付けも終わった。他愛もない日記もこれでおしまい。さて、どれをはじめに読もうか。

 引火点 L・S・ハイタワー
 闇に問いかける男 トマス・H・クック
 神は銃弾 ボストン・テラン
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Morning has broken
 CMで流れていて気になっていた曲、それはキャット・スティーブンスの「Morning has broken」だった。ご存知の方はあるだろうか? 健忘症でなんのコマーシャルか思い出せない。曲を聴いて、CM名がわかった方は教えて欲しい。

 Morning has broken
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サイレント・ジョー
 ☆☆☆☆

 「どんな人間でも傷がある、だが、たいていの人間はそれを内にもっている。おまえの顔はたまたまその傷が外にあるだけだ」

 「口は閉ざし、眼は開けておけ。そこから何か得るものがあるかもしれない」

 寡黙で礼儀正しく、かつ心身ともに精悍なジョー、上記の義父の教えを忠実に守り、保安官補として黙々と働いていた。ジョーには信念がある。「わたしは地獄で作られたような顔をしているだけではない。背も高く身体も鍛えている」武器と護身テクニックに精通、加えて、他人に対する警戒心を、理性と礼儀正しさに巧みに隠す繊細さもある。


 ジョーは生後9か月で実の父親に硫酸をかけられ顔に大きな傷が残った。施設に預けられた彼は5才の時、トロナ夫妻に引き取られ、今は刑務所の看守をしながら郡政委員である養父ウィルの仕事を手伝っている。ある夜、目的を告げられぬまま何かの取引に同行した彼の目の前でウィルが射殺される。どうやら身代金目的の誘拐事件に絡む取引だったらしい。

 ジョーは義父の仇を討つべく、また事件の謎を解くべく、犯人探しに奔走する。解き明かされていく真実、醜くなった自分の顔の真相、女性を愛すること、自分を愛してくれる女性との遭遇、そして、ほんとうの父と母。主人公像が多少アメリカ人好みの感は否めないが、正統派ハードボイルドミステリーとして、読み応えのある作品となっている。

 注意深く読んでいると、こんな形容に出会うことができる。「孤独が彼をとりかこんでいた。まるで土星の輪のように」

 
 T・ジェファーソン・パーカー作
 訳 七搦(ななからげ)理美子
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川の流れ
 川の流れを見ていると、膝頭がかくれるほどまで歩いていって、そこでじっとたたずんでいたいと思うことがある。ときどき自分の胸のうちをよぎるもの、忘れることができずにいるもの、そんなものを洗いざらい順送りに川の流れにゆだねたい。

 渡り鳥が心地よさそうにすいすい泳いでいるのを見ていると、こう思う。冷たさは生身の人間だけのもので、過去にある感情には冷たくも熱くもない。川辺に近づくと、鴨の群れがあわてて反対側の岸へと向かう。急いで進むものもいれば、羽ばたいて、宙を舞い、セスナ機が水面へ下りるときのように、滑って水しぶきをあげる。

 半歩前へ進み、つまさきが流れにふれる。そこで立ちどまって、手の平で流れに逆らう。せきとめられた水はわずかだがあふれ、セーターの袖を濡らす。靴を脱ごうかと考える。いや、ズボンが脱げないのだから、靴も履いたまま濡れていこうとする。

 冷たいが、感覚がなくなるほどの冷たさではない。快適とはいえないが、苦痛でもない。流れに逆らって立っていた。すると、膝頭を越えて川は流れ、大腿部のなかほどまで浸かってしまった。記憶を捨てるのに、流れに逆らってはいけない。背にしていた太陽のほうへ向きを変えた。まるで真夏に見るような眩しさだ。ひとつひとつの記憶を送っていると、眩暈のような感覚に襲われた。めくるめく太陽、あの空の下、海辺で出会ったひと。流れていった子供、失った命。そして、失ったあの人。

 太陽が五分の一ほど西へ移動するときまで、じっとしていた。一時間と十七分くらい。胸のうちがからっぽになったような気がした。すでに渡り鳥たちは、その人間を無視していた。股間をくぐりぬけ、からかっているようでもあった。が、きびすを返し、岸へもどろうと歩きはじめると、びっくりして、また水しぶきをあげた。

 川を出るとさすがに冷たかった。水の中にいるときにはなかった感覚が、ずぶぬれになったズボンから伝わってきた。唇がふるえ、芯から冷えていることを感じた。風がふくと、ひどく冷たかった。でも、背筋はしゃんとひきしまっていた。

 川の流れの逆を歩いている。流れのままに歩くと、流したものを拾ってしまうようで怖かった。背を向けて歩けば、二度ともどってこない。この冷たさは過去のものじゃない。からっぽになった心地よさだ。が、胸のうちはすぐに埋まる。きっと似たようなものが次々とやってきて、また川の流れに浸らねばならない。沈む夕陽を眺めながら、記憶とはそんなものだとかみしめていた。
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渡り鳥
あいつ、毎日おれたちを見ながら歩いているなあ。

ひとりで何を考えてんだろう?

去年もおととしも歩いてたやつじゃないか。

そうだ、そうだいつも昼飯どきだった。

たまには煮干でも持ってくりゃいいのに。

おれたちゃ猫か、ばかいうな。

ここは猫がいないから居心地がいいんだ。

ひとりっきりで寂しかないんかな?

手に持ってるやつあるだろう、ケイタイっていうんだぜ。

あれで彼女としこしこ話してんだよ。
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失政
 公共工事という名の道路行政には常に利権が絡んでいる。ひとつのバイパスをつけただけで、これまでの道路(通り)沿線がすたれていき、地元の商業者が廃店を余儀なくされる。

 ぼくの家は閑静な住宅地に位置している。が、ほんのわずか北東へ行くと、つい5〜6年前まで田園地帯だったところがある。歩いていける距離の同じ町ととなりの町だ。多くの田園を壊し、バイパスが貫通すると、あっという間に次々とチェーン店が出店してきた。今ではコンビニはいうに及ばず、深夜でもネオンサインが点滅するけばけばしい地域に変貌した。たった500メートルほどの道路の両側にである。

 マックスバリュー、スーパーサトウ、ジョイフル、ユニクロ、オートバックス、カメラのキタムラ、ホームセンタージュンテンドー、青山、牛角、トリドール、大吉、TSUTAYA、枚挙にいとまがないほどだ。建物の敷地はもちろん、その数倍の駐車場スペースの田園が消えてしまった。子供のころ、こぶなとりをした小川がなくなり、毎年1月15日にとんどをした場所も消えてしまった。

 西の山に夕陽が沈むのを見ながら家路についた線路道、そもそもJRの廃線がきっかけだった。大店法という社会主義的法律が稼動していたころ、時代はまだ成長期にあった。かのニチイ(マイカル)もダイエーも西友も発展途上もしくは成熟期だった。地元商店の大型店出店反対の雄叫びがすさまじかったころ、地域の商業の停滞を、行政は手をこまねいて見ているだけだった。

 ときおり帰省する友人が嘆く。ふるさとも思い出がなくなったような気がすると。ところかまわず氾濫するけばけばしい商看板、チェーンストア、ビルド&スクラップ、それによってかつての光景は見るも無残なものになってしまった。街作りとは、付け焼刃で行うものじゃない。自由な世の中ですべての出店を規制することはできないが、それぞれの業種、産業で集積を計画することは可能だ。

 かつての市の中心部がひどくすたれ、高齢化社会の象徴のようになり、美しかった田園地帯がハイエナのような利権に奪われてしまう。大地主は安楽に富を得、人々はすさんだ道路を走ることになった。近所の奥さんは買い物が便利になったという。なるほど以前より近くはなった。が、地価評価が上がり、固定資産税が高くなることまでは計算にないらしい。もちろん不動産の相続税もである。

 たぶん、10年後にはまた新たな道路ができるだろう。今回と同じように。前回と同じように。そして、なくなった田園は決して元にはもどらず、契約満了もしくは退店撤退となった汚らしい建物が残るだけだ。生来のひねくれもののぼくは、列挙したチェーンストアへの買いものに一度も行ったことがなく、かみさん孝行にと行こうとすらしない。買い物は、可能な限り昔馴染みの店でしてやりたい。それは信念ではなく変哲なのだとわかっている。けど、大学を出て20年足らず、流通の世界で仕事をしてきたぼくは、足を洗った現在においても、お客さんと接する仁義というものだけは忘却できずにいるのである。

 新たな道路を作れば旧の道路がすたれる。利便性を求めた道路行政は、往々にして失政である。別段なくても困らないものを公共事業としてやっつけ、地方の財源減らしを斟酌なく行う。どこもかしこも借金まみれだというのに、日本国の隅々までが骨の髄まで能天気になってしまった。
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愛と資本主義
 ビデオ録画していたのを昨夜見た。WOWOWのドラマ化は大失敗だった。各シーンで、ポップスのようなリフレインがやたら多くて、物語は行きつ戻りつした。事情により監督が変更になったと、11月号WOWOW誌には書いてある。どうにも脚本が綿密に作られていなかったんじゃないかと感じた。実に退屈で面白くなかったのである。原作を読んでいないのでよくはわからないが、作者中村うさぎと主演高橋恵子の、ホストにはまる女についてのトークを再度読むと、少々白々しいような気がした。二人はドラマのできを気に入っているというよりは、単にドラマの宣伝をしているにすぎなかった。結果的に、ぼくは二人にドラマを見ることを煽られていたのだった。

 ホストクラブ通いをするナツミ、高橋恵子はふつうの着飾ったおばさんだった。年相応以上に老けていた。セクシーでも魅力的でもなかった。同年齢のころの三田佳子や岩下志麻あたりと比べて格段に落ちる。せいぜい竹下恵子レベル、樹木希林よりはましだが、あの演技のほどでは大竹しのぶに劣るかもしれない。

 本気で、お金で愛を買おうとしていた人物などどこにもいなくて、空虚な人間ばかりだった。ホストとホステスのちがい、それは男と女のちがいかもしれない。男は遊びでホステスを口説こうとする。ドラマでは、客の女たちは片っ端から主人公のホストに惚れていた。わざわざ『愛はお金で買えませんね(笑)』と作者が語るのは陳腐ですらある。『なんだか別世界の話みたいです』と返事する高橋恵子もただ話を合わせているだけ。やっぱりナツミには作者のほうが似合っていた。

 愛は歓びが激しいだけ、苦しみをももたらす。大金で愛を錯覚することはできる。錯覚したままでいることもあるだろう、金が続く限り。が、常に不安はつきまとっている。信頼は愛よりずっと手に入れにくいものだから。
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ウォーキングロード
毎日歩くウォーキングロード。

風が舞い、季節を肌に感じさせてくれる光景。

川面では鴨の群れが泳いでいる。

枯れたススキの穂が冬の訪れを告げている。

あそこは春になると菜の花が咲く場所だ。

山と空を眺め、風の歌を聴き、

足元に川の流れる声を聞く。

ここを歩いているとき言葉が浮かぶ。

忘れないように記憶にとどめようとする。

けど、言葉は家につくころ逃げてしまって

ぼくはいつも悔しい思いをする。

あの山の向こうにはなにがあるんだろう?
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日本語
 年々子供たちの言葉が標準化されてきた。年齢が若くなるほど地方の方言(訛り)が薄らいでいる。それは国語教育が充実しているからではなく、テレビを主としたマスメディアの影響が大なのだろう。テレビゲームの音声、流行の歌のアクセント、そして、洋画の吹き替え。

 といって、関西で育った子供が東京言葉を話すわけじゃない。話し言葉の微妙なアクセントは従来のままだ。NHKの朝ドラ「てるてる家族」は、大阪府の池田市が舞台となっている。なかにし礼脚本の、ミュージカル的ナツメロ的ドラマをなつかしく楽しんでいるひとも多いことだろう。あれがいわゆるガラの悪くないほうの、従来からの大阪の言葉だと思う。が、大阪の言葉を総じて関西弁と決めつけるのは正しくない。京都、泉南、和歌山、奈良、神戸阪神、播磨・・・などなど、同じ関西に住む人間においては、それぞれに異なった言葉群がある。

 地名のアクセントは、NHKのアナウンサーのそれとその土地に住む人のそれとはどちらが正しいのだろうか。ぼくは、その土地で生まれた地名を、あえて標準語化させることが誤りだと思う。地名のアクセントは概して平板である。姫路や豊岡を、東京のアナウンサーは、『ひめじ』『とよおか』と発音する。市や城をつけると平板になるのに不思議なことだ。もちろん、地元や兵庫県のたいていの人は、いずれも平板で発音する。が、唯一、「てるてる家族」の池田市の池田だけは、地元大阪では『いけだ』と発音するのである。ぼくはといえば、もちろん平板で『いけだ』と呼ぶ。ある面、地方地方のアクセントはなかなかに面白いといえる。

 一般的に、全国の日本語のなかで、東京言葉が正しいと、標準語だと考えられているきらいがある。また一方で、日本語の乱れが人々の口にのぼって以来、その乱れは激しさを増すばかりだ。子供たちの言葉の標準化の様相を好ましくみるべきなのかどうか、理想的な日本語に近づいているとはいいがたい気がする。

 ぼくは思う。理想的な標準日本語というものは、全国各地の方言から粋を集めた、豊かな、しかも洗練された言語体系ではなくてはならない。それは日常の生活言語に加えて、基本的な東京語を自分のものにすることではないかと。これからの子供たちに、あたたかな、ほのぼのとした日本語を、切に話してもらいたいのである。
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青息 (サー、ミック)
他のバンド・メンバーの猛反対を振り切って

英国女王からナイトの爵位を授与されるにいたるとは

ミック・ジャガーもただの芸人になりさがった。

雲の上からジョンが笑っているだろう。
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ため息 吐息
デスクには書類が山のよう。

封を切っていない速達郵便が数十通。

目論見書なんか金輪際見ることはない。

覆水盆に返らず。

マリリン・モンロー、ノーリターン。
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師走
 師走である。12月の声を聞くなり忙しくなった。夕食を先にとって、またデスクへと向かう。ネットは常時接続なので、息抜きにこの場を開く。食後のお茶を飲みながら、近頃のログ跡の少なさを感じている。自分が注力しているときは、日々100件ほどの訪問客があったこともある。ここ半年、減る一方なのは新たなる更新を怠っているからだろう。しかたない。十人ほどのおなじみさんがいるだけで、意欲減退をしつつもこの場を去ろうとは思わない。捲土重来なる気分が勃発する予感はないが、突如、鬱勃たるパトスでもって、ガイアックス、ショートストーリー大賞でも受賞できればと思わぬでもない。
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白い一日
 つきあう人には事欠かないが、本質的な価値観を同じくする人に飢えている。話題はたいてい巷のこと、趣味のゴルフのこと、そして仕事のこと。憧憬することなど語ろうにも、大人気ないと、誰も胸の奥底にしまっている。

 ぼくの一日は、相対する人物とは至極通俗的だ。俗っぽくあることが日々の暮らしをたやすくする。人の価値観はそれぞれに違う。が、欲しいもののたいていが似通っている。健康、お金、愛人乃至恋人、高価な物質、自由な時間。そのいずれかの話題をもってすれば、普段の対人関係には十分だ。

 うわべだけの対話、彼らには、ぼくは悠々自適で、ゴルフ好きで、金融通で、堅い仕事をすることで通っている。女好きだと思っている人もいるかもしれない。が、家庭を顧みない不埒者だとは思われていない。ぼくがネットをしていること、20年来のガーデニング通だということ、映画や小説を趣味にしていること、ロックやポップスが好きだということについては、日々接するほとんどの人々が知っていない。そういったことに彼らは関心がなく、ぼくが語るに足る余地がない。

 みなさんのサイトへ行って、映画や小説の感想を読むのは楽しい。小粋なエッセイも好ましく拝見している。巧拙ではなく、ひとそれぞれに言葉の才能があり、その感性やデリカシーが小気味よく伝わってくる。申し訳ないが、日常の苦悩が綴られているのを読むのは苦手だ。また、人生相談には困惑させられることが多い。赤の他人がもったいぶって、無責任なことはいえないからだ。ガーデニングの部屋は大好きだ。同じ植物の栽培を知ったとき、わがことのようにうれしくなる。

 ぼくはひとり本を読み、映画を見る。植物を栽培する。が、そのことを語り合う相手は、現実にはあまりいない。面白かったかそうでなかったか、そのことすらに言葉を持たない。あの時代の友人たちはみんな遠く離れてしまった。だから、ぼくはこの場所にいるのだろうと、よく思う。

 ただ、道ゆく人たちは花壇を眺めながら歩いてくれる。「ああきれい!」、「よく手入れされていますね」、「この花の名前は何というんですか?」、夕飯のとき、妻がこんな言葉を話してくれるとき、花壇に花を絶やすことはできないと思う。

 自分のほうからめったに掲示板に書き込まない。いつも決まった時間にログ跡を残す人が数名いる。が、ぼくはそんな暇つぶしをしたり、システムを作るつもりは毛頭ない。限られた時間で、自分が書くことと読むことだけで精一杯だ。加えていうなら公開掲示板は得意じゃない。相対でメールでやりとりするほうが、ぼくには向いている。だから、あんまり書き込みをしないことを理解して欲しい。

 ビートルズのホワイトアルバムを真似て、自分のサイトを「The White Album」と名づけている。もちろんビートルズのあのアルバムが好きだったからではあるが、自分の一日を空虚だと感じ、それが白い色だと思ったからでもある。ありきたりなタイトルをよして、「The White Day」と変えてみようかと思うこともある。

 今日もそんな一日が終わった。ゴルフに遊び、賭けをし、夕食をとりながら談笑した。スポーツは楽しく、肉体は快適だった。けれど、満たされない何か、眠る前の空虚さ、真っ白な天井のクロスを眺めながら、小椋佳の歌の文句のように、ぼくの一日がすぎていく。

 白い一日
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