着床前診断
 神戸市灘区八幡町のあの産婦人科医院を目にしたとき、すぐに記憶はよみがえった。神大生のFがあの病院のすぐ裏手の電柱にもたれていたときのことを。彼はギタリストをめざしていて、ヨーコと四畳半のアパートで同棲していた。

 ぼくが通りかかると、Fはぼくの目をさけて空を見上げた。今にも雨粒が落ちてきそうな暗い空を。あそこは近所でも腕のいい病院と評判だった。神大生の連中には勝手のよい産婦人科医院の筆頭だった。Fはいったんその場を離れ、六甲道駅のほうへ向かったけれど、もどってくる目をしていた。ヨーコが中にいることがぼくにはわかっていた。Fがお金を集めまわっていて、そのことの理由をHが言いふらしていたからだ。

 ちょっとだけ心の奥底に残っている傷跡を感じることがある。顕微鏡でしか見えないほどの、薄い薄いかさぶたのついている一筋の傷跡を。そのころのドクターはたぶん、先代だったのだろう。

 着床前診断という最先端の医療技術を違法に使って、かの病院は脚光をあびた。そのテレビ放送を見て、幾多の人々がそれぞれの思いに浸ることだろう。その多くは生命の歓びを、その少なくは痛みのような哀愁を。