2002年12月の記事


年の瀬に
 今年の早々に、高校時代の仲間たちと二十年ぶりの同窓会をやったことは、一月にこの画面上で述べたとおりだ。それから数人と旧交を取り戻すことができて(インターネットのおかげでもあるのだが)、Eメールや携帯メールで近況を伝えあうことが多くなった。時代を経てみると、また離れて暮らしていることもあって、長い年月の隔たりが妙に新鮮で、取りかわす言葉はリラックスした楽しいものになっている。

 年の瀬に、環境の変化から自分の内部に変化が起こったようである。住みなれた家が傷みきり(実際、天井裏でのイタチの運動会とひどい雨漏りにはうんざりしていた)、電化製品がまとめて壊れてしまったから、かなりの物入りだが、えいやーと思い切って全部造り替え、買い換えることにした。そして、なんとも早く、約束どおり年末に、およそ二ヶ月間で改築が終了した。また、それと時期を同じくして多くの買い物をした。新しい場所にあまりに汚れたものは不適切だからだ。さらにパソコンを最新型の液晶に変え、テレビをデジタルハイビジョンにしたりした。すると、なにか自分の周辺が、アナログの世界からデジタルの世界へとすっぽりと変わってしまったかにある。

 で、僕はひどいタイムショックに陥っているようにもある。新しいものになじめないのか、使いこなせないからなのか、旧のパソコンのほうをいじり、台所の古いテレビを見、突如として新たに契約したデジタルWOWOWを再度デコーダー方式のアナログに再契約しなおした。簡単なGコード予約ができなくて、誰かがテレビをいじると録画予約が消えたりしてイライラがつのってしまった。どうも新年を迎えるにあたってのパニック症候群である。あながち来年の支払いとJCBカードの引き落としに戦々恐々としているからだといえなくもない。とすると、僕は小心者である。が、ここではそうじゃないと断っておきたい。

 また、新しい部屋の白い壁には、従来の絵画や家族の写真に加えて、二十代前半のなつかしい写真をセレクトしては額を買いに走り、ネガが見つからないものは写真のまま加工注文をしたりした。あのころのものは、最近の自分たちよりはずっと部屋を飾る対象となりうるからだ。フォトショップでの加工、プリンター印刷では画質が不十分だ。

 あと五日で二十年ぶりの同窓会から一年になる。今年の年賀状は枚数がふえた。彼らの十数人に二十年ぶりほどに賀状をしたためたからである。今の心境は、新たな住まいという環境の変化を徐々に肌に感じはじめてきて、少々回顧的になっているのかもしれない。多分しばらくのことだと思うのだが、やはりノスタルジアを感じる年齢になってきたことだけは否めない。

 あのころの僕はジョージ・ハリスン、水着姿の妻は夏目雅子のよう、といってもみなさんはお信じにならないであろうが・・・・・。
コメント (0)

All you need is love
 NHKBS放送でやっていたビートルズ特集。タイトルは当時、世界26カ国へ同時オンエアされた曲。誰にでもわかりやすいメッセージをとジョンが書いた歌詞。平和の祈り。40年ほど前のモノクロ画面が懐かしかったが、それを弾くジャパンバンドはやかましいだけだった。そろそろヨーコ・オノが登場しそうなので、テレビを切ってネットにつないだところ。ビートルズは昔のままがいちばんいい。ジョンもポールもジョージもリンゴも。もちろんおれっちの画像もだが・・・・・。
コメント (0)

年賀状
 本日、明日と猛烈に年賀状書きをします。で、ここへは顔を出さないかもしれません。いや、顔は出すけれど、物を書くほどの時間がないということでしょう。今年の12月は公私共に本当に忙しかった。

 次のものについては構想がかたまりつつあります。あとはきっかけだけ、頭の上のどんよりとしたものが、あとかたもなく雲散霧散となってくれたらいいのですが・・・・・。
コメント (0)

未熟であること
 17インチの液晶画面はとても明るくて、これまでの色が同じ色でなくなり、となりに並べているデスクトップの98と比べてみて、自分のところがこんなにも違って見えるものかと、驚きと戸惑いを禁じえない。斬新さに歓喜し、古き良きものを懐古するといった心境。高くついた買い物にため息まじりでもある。

 また同じように、みなさんのお宅もこれまでと変わって、ちょっとばかり別なものに見えたりするから不思議だ。BGMがないと思っていたサイトから音楽が聴こえてきたり、いつもある画像がなくなっていたりする。その機種その機種によって、見えたり見えなかったりすることにようやく気づくことができた。

 そうして、パソコンの世界は改めて自己満足の世界だったことを思い知らされた。プロのかたがマックを推奨する意味が少しはわかったようでもある。同一の基準で物を見ることの大切さ、自分だけの尺度でしか推し量ることができなかったこと、まだまだ未熟だ。とっくに二十歳(原点?)はすぎてといるのに・・・・・・・。
コメント (0)

ここ数日
 Windows XP が、どうにかようやく開通した。驚くほど超高速だが、どうにもこっちの頭がついていかない。かなり使い勝手がちがっていて、ひどく面食らっている。挙句、画面の色具合、フォントの対応などシビアすぎて、これまでの自分のいい加減さがあらわになってしまった。で、いかんともしがたい状況。ギャラリーの画像の粗雑さを見るにつけ、どうしてXPではこうなるのかと、何度も98と比べて試行錯誤してみるがどうにもならない。

 これと改築のほうが相俟って多忙を極めている。案外円滑に工程が進んだので、年内にできあがりの運びとなった。あした清掃、ワックスがけ、あさって家財搬入、28日引渡しである。先の三日間の休日は、工事の立会いやら買い物でクリスマスどころじゃなかった。傷んだものを捨てて、必要不可欠なものだけを買った。たとえばカーテン、照明器具、エアコンなど。予想はしていたが、やはり一度にものを買うと、予想以上に出費は多かった。

 ついででもなかったろうが、テレビが壊れ、ビデオが壊れ、洗濯機が壊れ、掃除機までが壊れてしまった。よく考えればどれもこれも10年以上使っていたのだから仕方ないといえば仕方ないが、なんと悲惨な偶然、オー・マイ・ゴッド!

 きのう、やむなく疲れた心身に鞭打って、JCBカード限度額ぎりぎりの買い物に行く途中、とろい車を追い越した途端、赤い旗振りかざしておまわりが飛び出してきた。急ブレーキを踏んだ。「何だ!危ないじゃないか」

 「左へ曲がって!」とそのおまわりが大きな声を上げた。あわててシートベルトを締めて左を見ると、うわっちゃ、ネズミ捕りだった。会議テーブルを二台並べて、おまわりが六人も並んでいた。赤い旗持ったおまわり轢き殺してりゃよかった。

 スピード違反のいつもの手順に従った。その際期日を見ると、あと半年足らずで免許の更新だったことに気がついた。ああ、初めて無違反で更新を迎えることができるはずだったのに。

 「あんた、近所で事務所やっているかたでしょ?」
 「あんた、近所の交番のおまわりさん!」
 
 中央派出所を空にして、こいつはなんておまわりだ。いつも居眠りばっかしてるくせに。

 「近所のよしみで今回ばかりはなかったことに、ねっ」
 「20キロオーバーだからね。減点2、罰金15000円、ワルインダケドホカノレンチュウノメガアルカラね」

 もちろん今朝出会ったとき、横を向いて挨拶の返事すらしなかったことは言うまでもない。勤務中に、居眠りをしているところをカメラに収めて、兵庫県警への送付、もしくはインターネット上で公開してやるつもりでいる。彼の居眠りはしばしばだから、言い逃れできないように克明に記録してやるつもりである。
コメント (0)

Merry Christmas to Everybody
 Merry Christmas to Everybody

 クリスマスカードいただいたかたには
この場を借りて心からお礼申し上げます。

あいにく98とXPの入れ替えに手間どっていて、
新旧ともにうまく使えない状況が続いております。
例年のように当方からメールできないことを
とてもとても心苦しく思っています。
予定通り更新並びにご返事できませんこと
いましばしご容赦ください。(ペコリ)
コメント (0)

Links 1
 リンク集の中でエンヤ1 MIDI が1000ヒットを突破した。どこかのサイトが閉じられていることがあるので、ときどきチェックに行くのだが、改めてエンヤの人気のほどを知らされた。Links1はわがサイトの中でいちばんのヒットコンテンツではなかろうか?

 二番手スティービー・ワンダー、三番、エルトン・ジョン、最近中島みゆき猛追中!
コメント (0)

我が家のサーバーメンテナンス
 マイルームは本とその他の物で散乱しています。あした、天井と壁のクロスの貼り替え、あさってはパソコン周辺機器の入れ替え、しばしネットから脱出します。ただし、隠しカメラで覗いているかもしれませんので、ご注意を・・・・・。

 で、火曜日には真っ白な部屋となって、たぶん広い空間がよみがえりますので、活動再開だと思います。
コメント (0)

葬送
 われらが青春のアイドルだったともちゃんはやつれにやつれて、今にも倒れてしまいそうだった。故人の遺志により葬儀はごく簡素に行なわれ、しめやかに遂行された。香典、供物、供花の類は一切辞退されており、ともちゃんの良き伴侶の旅立ちの準備のほどが、僕の胸を打った。死することを予期して生き、死なんがために必死だった。あとに残る家族のことを思い、苦しみながらできる限りの手を尽くしたのだった。

 だが,残された家族の悲しみは長く消えない。葬儀の最後の弔問客への挨拶は、喪主であるともちゃんではなく、長女の由紀子ちゃんがした。ともちゃんと三人姉妹が並び、由紀子ちゃんがマイクを持った。妹二人は泣きながらともちゃんを支えていた。由紀子ちゃんは泣いて泣いて声が出なかった。それを聞いている僕たちは涙がとめどなく流れて、さらにすすり泣く女性たちの声が、お葬式とはこんなにも悲しいものだったのかと、心のなかをつんざいた。

 「私たちは学業のためとても遠くに暮らしています。ひとりぼっちになったおかあさんが可哀想でたまりません」

 僕はこの言葉だけしか覚えていない。由紀子ちゃんは来春卒業で、ゆくゆくはお父さんとともに仕事をするつもりだった。両親がどれほどその日を楽しみにしていたことだろう。由紀子ちゃんは来春からインターンとなり、父の遺志を受け継いでいくことになる。その日が来るまで、ともちゃんが健康でいてくれることを切に願う。そして、いつかかならず僕は、由紀子ちゃんの診察を受けるのだ。
コメント (0)

10th Birthday
 今日は子供の誕生日、ろうそく10本立てて、バースデーソング歌って、吹き消すときのうれしそうな顔。こんな無垢な笑顔ができるのはもうあまりない。
コメント (0)

ともちゃん
 青春小説風にいうなら我らが世代のアイドルだった。美人三人姉妹の次女で、三人の中でもひときわ輝いていた。自分はその気でも、向こうは一瞥もくれないと勝手に思い込んでいた悲観的な野郎たちがどれほどいたことだろう。

 そんな時代からずいぶんと年月が過ぎた。ともちゃんは一年上の先輩と相思相愛の仲となり、われらが知らぬ間に添い遂げたのはいつのことだったろう。ともちゃんのハートを射止めた伴侶は、高校の先輩であるだけでなく、京都大学医学博士であり、それから町の名医となっていった。ともちゃんは名実ともに良き伴侶に恵まれ、自分と同じように三人の娘をもうけた。お父さんも開業医だった。

 ともちゃんが生んだ三人姉妹は二つずつ年齢が離れていて、その間に僕の長男と長女がいる。ピアノの発表会で連弾をしたり、競い合ったりしたのがついこの間のことのようだ。僕にはこんな話は全部かみさんからの伝聞である。あのころ、僕は仕事にかまけていて、全然父親たる役割を果たしていなかった。僕の脳裏にある子供たちの映像と音は、ともちゃんの良き伴侶がビデオ撮影してくれたものなのだ。

 そのともちゃんの素晴らしいパートナーが今朝亡くなった。三年間の闘病生活の末だった。手術、入退院の繰り返し、その間も子供たちが世話になっていた。危ないらしいという噂話に尾ひれがつき、彼は生きている間も殺されているようだったが、ついに若かりし天命を全うした。

 あしたお葬式だ。ここ数年のともちゃんの健気な姿を見てきただけに、僕はともちゃんの顔を見るのが辛い。弔問してどんな言葉がかけられるというんだろう。ともちゃんは五年前に実父を亡くしている。悲しみを分かちあえるすべは、すでに僕たちには残っていない。ともちゃんの人生の途中に、悲しみはないはずだった。
コメント (0)

年末調整と年末大暴落
 青色申告だから12月末が今年の収支決算月、来年の確定申告の帳尻を合わせておかなくてはならない。で、20日の支払い、入金はわかっているから、だいたい収入が○○○○9800円、支出が○○○○7777円。残り10日ほどで○○万円ほど必要だろうから、差し引きはっと・・・・・、おおなんとプラスだ、○○万円。さて、差し引きゼロにするために17インチの液晶パソコンを購入することにした。10万円以上は損金計上できないから、三枚に分けて領収証をもらうことにしよう。変な法律があって、10万円以上のものは4〜5年に分けて減価償却、仕事に必要不可欠なものでもこんなふうになっている。とまあ、実にかわいい青色申告の自営業です。それから、どうかみなさん誤解のないように、脱税ではなくこれが本当の節税です。

 ところで、新年度からの証券税制改革のために、先週末より証券会社の混雑ぶりは異様なほどだ。株券持ったおじいちゃんおばあちゃんが押し寄せてきて、すったもんだのてんてこまい。今さら説明聞いたってわからないものはわからないのに、暇にまかせて押し問答。挙句、営業マンは外交という名の逃亡者となり、女子社員が悲鳴をあげている。先週の一時間待ちがとうとう昼飯持参のほどとなり、法改正の期日25日までは証券会社のロビー、客席、ありとあらゆる空間は、さながら養老院の様相を呈してきた。法改正は半年前からわかりきっていたことなのに・・・・・、老人金持ち国はこんなところでも醜態を演じている。まあ、ついこの間まですったもんだした政府税調が悪いといえば悪いんだが。で、アメリカ市場の暴落に相まって、まあ現物株の売り売り売りの凄まじさ。日経平均は最安値を明日にも更新。

 駆け込み訴えじゃあるまいし、こんなときこそ冷静にー。で、たぶん20日の三連休前、もしくは24日クリスマスの日がビジネスチャンスの到来と、僕は思っている。
コメント (0)

ため息
顔文字やああわからぬやわからぬや
コメント (0)

Great Blue in Kobe
よく行くライヴハウス(ジャズ)のHP

GREAT BLUE
コメント (0)

工事中
 改築が最後の仕上げに取り掛かってきた。新たな建物と今いる棟とのジョイント工事が始まった。目と鼻の先でやりかけたから、騒音なんてものじゃない。鼓膜が炸裂しそうだし、塵と埃で息が苦しい。挙句、ADSLの流れが悪く、タイミングを逃して、不用意な損をしてしまった。PCの買い替え中止せざるを得なくなった。

 また週末にはこの部屋のクロスも貼りかえる予定だから、デスク周り、書棚の片付けをしなくちゃならない。これだけの本をどこかへ移動させるには、う〜ん、僕は本の上で寝なくちゃならない。年の瀬も我が家も残り二週間か。で、ギャラリー・ワンアップ。
コメント (0)

行ってラック
 普段より一時間ばかり早起きをした。ゴルフの試合があるとき以外、毎朝八時まで寝ていたので、久々の子供との朝食である。牛乳を入れ、パンを焼いてやる。僕は新聞を読んでいたが、子供は黙々と食べている。
 7時20分、息子の出発の時間だ。いまだ自分の背のほどあるランドセルを背負う。雨があがり、東の空がうす赤く染まっている。朝焼けだ。こうやって登校を見送ったことは何年前に遡ることだろう。

 「行ってきます」
 「行ってラック」
 「何それ?」 ふとそう尋ねて、返事を聞かずに子供は町内の集合場所へと走っていく。

 行ってラック・・・・・、行ってらっしゃいとグッドラックをかけた言葉だが、それは長男のときの記憶からだった。
コメント (0)

ビートルズの歴史に入り込もうとする女
 [ロサンゼルス 15日 ロイター] 元ビートルズの故ジョン・レノンの妻オノ・ヨーコが、ポール・マッカートニーの提訴を検討している。

 15日付の米ロサンゼルス・タイムズ紙が伝えた。事の発端は、マッカートニーの新作アルバム「バック・イン・ザ・U.S.― ライブ2002」のクレジット表記。ここ40年間で「レノン―マッカートニー」の表記が定着していたが、同アルバムに収録された19曲は、マッカートニー―レノン」と逆の順番で表記していた。

 同紙によると、オノの担当弁護士は13日、表記変更は40年前に2人の間で交わされた合意に反するとして、変更差し止めを求める法的措置を検討していることを明らかにした。

―――――――――――――――――――――――――――――――――

 いつまでも嫌な女 顔を見るのも嫌な女

 どっちの名前が先に来ようと、二人で作った曲なんだからどうでもいいじゃねえか。いつもレノンが先だったから、たまにはマッカートニーを先に出させてやったって、天国のレノンが怒ることもあるまいに。いつまでたってもでしゃばり女の業突張り。やな女だね。現れたときから。あのころは柿の種みたいな顔してたけど、歳とってズムシみたいな顔になってきたね。ズムシって何だって? こんな公の場で言うと、名誉毀損でおれっちも提訴されそうだからやめとくよ。なにっ! 提訴するにおれっちが値しないって? ばぁろ、なめんなよ。まあいいや、ついでだから言っちまおう。ズムシってのはな、あの柿の橙色が少々黒ずんできて、固体であるべき中の実が、薄っ皮一枚で限りなく液体に近くなっている状態をいうんだ。まあ、簡単にいやあ、腐りきったずるずるの柿のこと。でっかいやつが自分の頭の上にまともに落ちてきたら、どんな目に合うか想像できるかい?

 恨みはないが、生理的嫌悪感よりいずること多きにありて――。ビートルズメンバーはジョンとポールとジョージとリンゴの四人、永遠に彼らだけ。彼らの中に他の誰も入り込めない。
コメント (0)

訃報
 妻の祖母が亡くなった。ついさっき連絡が入ったところ。これでぼくたち夫婦には祖父母がいなくなった。妻のおばあちゃんは十年以上前、喉頭癌を克服して、それからずっと元気だった。突然の訃報である。享年93歳、十分な人生であったと思う。

 通夜、葬儀のため、あしたから妻が愛知県東部の半島にある郷里に帰る。それでぼくは二日間主夫を務めることになった。苦手な早起きをしなくてはならない。車でいっしょに行ければいいのだが、年末の仕事があるし、息子は学校へいかなければならない。息子は曾ばあちゃんの存在すら知らなかった。実家じゃない、母方のほうだからではあるのだが・・・・・、長い時代によって、いつの間にかこんなふうになっていた。
コメント (0)

自己嫌悪
 オデッセイのパター、ホワイト・ホット#3は金の鳴る木どころか金を失う道具だった。中古の価格が新品ほどにつき、悔しいのなんのって。きのう、屋台のホットドッグでも買って食べるほうがずっとよかった。
コメント (0)

ルミナリエ
 今日は雲ひとつない快晴だった。やはり風が吹くと冷たかったが、光はきめ細やかで、視界はとても澄んでいた。快適なドライブだった。二つ三つ山あいを抜けて、最後におよそ六キロの新神戸トンネルを抜けて、一時間かけて三宮に着いた。

 加納町の交差点をまっすぐに進み、そのすぐコスモスタンドの手前を左に折れ、とけいやの北、米屋の駐車場に入れる。名前は米屋だが、米を売っているわけじゃない。その昔、米屋だったかららしいが、ぼくが北野坂を知っている限りにおいて、そこは常にアナログの立体駐車場だった。

 それから目的の東急ハンズへと向かう。今日は週末とはいえ、いつもよりかなり人通りが多い。多くの人たちが異人館方面へと向かっている。あれは神戸っ子じゃなくて、ほとんどが観光客だ。どうしてこの季節にと不思議に思う。

 クリスマス需要でハンズはごったがえしている。若者たちの人いきれは、とりわけ女性のそれは、ぼくを真夏の眩暈のように右往左往させる。目的地を誤り、上へあがったり下へもどったりして、見つけたのは一階の隅っこだった。いろいろと思案しながら、買ったのはドラクロアの「雪降るパリの街」。サイズは縦70センチ、横80センチほどだから、新しい白い部屋にはちょうどいい大きさだ。また、その画家は同じ名前だが、グリーン・マイルに登場する死刑囚とはちがう。

 それから大きな荷物を抱えて、フラワーロードにある中古クラブ専門店に入る。セイコーのS−YARDの5W(クリーク)を買うためだったが、運悪く品切れていた。それでトッププロがよく使っている、オデッセイ社のWHITE HOTのパターを買う。パット・イズ・マネーというゴルフ界の格言を信じて買った。17000円のパターは、必ずあした元をとらしてくれるだろうと信じている。

 それから米屋に戻って、アリストに乗ってハーバーランドへいく。やはり普段よりかなり人が多い。海を見て、映画でも見ようと思う。ルミナリエが点灯するまで、かなり時間があるような気がする。午後三時半のこと。海の彼方の視界は、透明なガラスのように澄み切っていて、淡路島はもちろん、大阪堺方面、徳島辺りまでが見渡せるようだった。果てはいつにない透明に近い空色だった。

 ぼくは映画を見ることを忘れて佇んでいたようである。雑踏のモザイク棟のベンチに腰をおろして、長い時間海を見ていた。そして、目の前にある高さ5メートルほどの真っ白なツリーに、オール・ブルーのイルミネーションが灯されたとき、ぼくははっとわれにかえった。神戸港遊覧船、コンチェルトの夕方の便の出港のアナウンスがされていた。

 摩耶山から真っ赤な夕焼けが訪れてきたとき、ぼくはモザイク棟の三階の渡らせ橋を歩いていた。
 「あの〜、すみません」
 「うん?」
 「映画館はどこにあるんでしょうか?」
 「この下、二階へ下りて、まっすぐあっちの突き当たりにあるよ」
 「この下ですか?」
 「そうだよ」
 「ありがとうございました」
 「きみたち神戸じゃないよね?」
 「はい」
 「どこから来たの?」
 「石川です」
 階段を下りて行く彼女たちに向かって 「金沢だね」
 振り返った二人は 「能登です」

 「うわぁ、すげえ!」 彼女たちは高校生だろう。もしくは今年卒業したてだろうと思う。大学生じゃない。能登には大学はないからだ。能登から来れるんだったら、新潟にいるエリーちゃんだって来ることができるんじゃないかと、ふと脳裏をよぎる。
 
 橋の上から二人の姿を追っていると、ぼくも映画が気になってくる。映画館へ行って、何を上映しているのかを見る。四作どれも見る気がしなかった。温かい飲み物が欲しくなった。劇場の上にある中国茶の店へ入り、すでに忘れてしまった中国茶(店の女性のお薦め)を飲みながら、夜のとばりがおりはじめたメリケンパークの光景を眺める。オークラもメリケンパークオリエンタルホテルも殊のほか客室の入りがいい。次々と部屋の照明が灯ってくる。

 ああ、わかった、さっきの二人もルミナリエの観光に来ていたのだ。震災の後、ルミナリエは神戸の観光名物になっていた。昼下がり、北野坂をたむろしていた人々も夜を待っていたのだ。近くに住んでいるぼくはこれまで一度もルミナリエを見たことがなかった。

 ぼくは急いでアリストに乗り市街へ向かう。車の中から拝むつもりだった。が、中心地の至るところが通行止めになっていて、ぼくは思った道路を走れなかった。そして、渋滞にまき込まれ、急げば急ぐほど、近道へ向かえば向かうほど迷路に入って行った。そして、およそ一時間右往左往した。今日、右往左往するのはこれで二回目だ。ぼくは大阪方面へとアリストを走らせ、どうにか渋滞からのがれることができた。

 結局ルミナリエはちょっとだけしか拝むことが叶わず、往きの二倍の時間かかって家に帰ってきた。すぐ近所の中央どうりにあるほんのちっぽけなルミナリエが、ぼくが疲れ果てて通り過ぎるのを見て笑っていた。
コメント (0)

ジェイソンズ・デイ
 今夜は今年最後の13日の金曜日、「あたしはクリスチャンじゃないから関係ないの」って言う女性でも、今夜だけは要注意。不死身で悪魔たるジェイソン氏は、信仰の如何に関知しないため、クリスチャンであろうとなかろうと誰でもが標的足りうるということ。血の惨劇にご用心。とりわけ水辺にいるかたには・・・・・。

 また、イスラム教の中東諸国以外の国々では、たぶんお祭り騒ぎにクリスマスを祝うだろうから、やっぱり今月だけは魔の金曜日が待っている。12月の13日の金曜日だけは、どうかみなさんご用心を。今宵、どこかで魔の手があなたを狙う。とりわけジングルベルが鳴っている場所、クリスマスツリーが飾ってある場所・・・・・・・。
コメント (0)

明暗
 十数年ぶりに、漱石全集の未読の分から「明暗」を取り出してきて読んでいる。海辺のカフカ君が読んでいた作家の一人が夏目漱石であったことと、買い溜めして積んでいた本がなくなったからでもある。

 およそ三分の一を読んだところ。明治の文豪だから、心してかからねば途中で頓挫するのではないかと思っていたのだが、意外と読みやすい。文字が大きく、現在仮名遣いのハードカバーであるからかもしれないし、また穿った見方をされれば僕が歳を食ったということにもなる。

 「明暗」は漱石最後の小説であり、未完である。新聞「朝日」に連載中、腹部内大出血をおこし永眠した。大正5年12月22日の昼近く、漱石は机の上にうつぶせになって苦悶していた。その机の上には189と番号を打った白紙の原稿用紙が広げられていたという。「明暗」は1から188項までの未完の長編小説である。

 僕は、90年ほど隔たりがある「海辺のカフカ」と比較しながら読んでいるような気がする。漱石がセックスとかラヴ、ウインドーショッピング、デパートメントストアなどという言葉を使うのは愉快だし、そこへ1円50銭だとか6円70銭、自動電話、カレーライスがからくていやだなどがでてくるから、なかなか肩がこらないで読めている。男女の心の機微の描写はさすがだと思わせるが、やはり時代がかっていることは否めない。が、そう感じさせるだけで、永遠の真実のほうはきちっと掴んでいるようだ。今これを誰かがわざと明治(漱石)風に書けたなら、とてつもない名役者であることにちがいない。

 さてこれから、僕は評論のほうは苦手なので、90年前の作品をゆっくりとふとんの中で楽しむことにしよう。久しぶりにのんびりできる今宵である。
コメント (0)

透明な言葉
むかし、むかしのことばのきれっぱしに
どうにか画像をくっつけることができて
ギャラリーワンアップ。

少年少女のイメージでどうぞ。
コメント (0)

今夜も
遅々として進まず全員(たった三人だけど)残業です。
オフィス(そんな気の利いたところじゃない)でパジャマ着て
残業しているやつなんているのかしらん。

ストレス性胃潰瘍になるといけないので、
当分のあいだ更新はこの程度です。
小説の真似事は仕事納めからですね。
たぶん・・・・・・・。
コメント (0)

バタン・キュ〜
で、もう眠りたいんですが、
今日はとても段取りが悪く、
片付け作業をしなくてはなりません。

優雅な時間が持てないときは
マスターの顔を思い出すことにしています。
さて、夜の紅茶を飲み終わったところで
夜なべしなくてすむようにビジネスに勤しみます。
コメント (0)

愛と死を見つめて
 これはぼくが徐々に生育していく過程において知り得た事実である。決してその当時小学校の低学年だったぼくが、はっきりとは判りようがなかったことである。

 幼いころ、吉永小百合を見た記憶がある。母の実家の隣の家を彼女が訪ねてきたからだ。たまたまその日、ぼくはおばあちゃんのところへ預けられていて、突如として起こった喧噪を目の当たりにしてひどく驚いたものだった。おばあちゃんが外へ出てはいけないというので、二階の窓から別世界を見るようにして隣の光景を見ていた。大きな庭のある家だったが、通りにまで人があふれていた。近所の人たちを押しのけて、近隣の野次馬と芸能ファン、とりわけ全国津々浦々からやってきたサユリストたる連中が押し寄せ、警備員では収拾がつかなくなり、挙句警察が出てくる始末だった。

 そうして、隣の家の敷地内は報道陣だけになった。彼らは嵐の如く、吉永小百合に向かってシャッターを浴びせつづけた。あのとき、吉永小百合が手にしていた花は、百合だった。その写真は女性週刊誌はもちろんのこと、翌日の全国版新聞紙面にも載せられたのだった。

 その年、「愛と死を見つめて」という歌が、レコード大賞を受賞した。これまで全く無名だった青山和子という歌手が、その歌を歌っていた。「マコ甘えてばかりでごめんね。ミコはとっても悲しかったの」 こんな歌詞だったと思う。

 恋する女性の悲しすぎる手記。二人の往復書簡。病棟で知り合った男女の恋。その恋が実り始めるころ、女性の頬は悪性骨肉腫に冒されていると判明する。女性は顔の半分を切除されるくらいなら、命を捨てようと思う。愛する人に愛されたまま死んでいこうとする。だが、男は生きることを決意させる。頬骨を切除し、それでも自分を愛してくれるといった人への希望。そして、逃れることのできない死への怖れ。儚さ。命果つる場面では、ミコがこの世に生まれて、人を愛することができた歓びをも綴っている。

 女の命である顔を切除してさえも、愛を貫こうとした女性の手記、二人の往復書簡は出版され、ベストセラーとなり、一世を風靡した。そして、日活で映画化された「愛と死を見つめて」は日本中を涙させ、空前のヒットとなった。主演吉永小百合、共演浜田光夫であった。

 映画を撮り終えた吉永小百合は、ミコの墓参りに来ていた。そして、ミコの実家を訪れ、ご両親に哀悼の意を表したのだった。美しい女性だったが、それ以上に分をわきまえ、賢明で素晴らしい女優だった。吉永小百合 早稲田大学、ミコ 同志社大学在学中のことだった。

 で、定かじゃなかったぼくの記憶に色づけしてくれたのは、12〜3年程前、交互に昔の名前でやってきた浜田光夫と青山和子。ともに夏祭り盆踊り大会のスペシャルゲストとして、二人はやってきた。なんで彼らを呼んだかというと、偶然予算の範囲内のリストにあったからだ。

 二人ともあの映画のことを覚えていなかった。ここがミコの生まれた町だということを。が、青山和子は注文をつけずとも「愛と死を見つめて」を歌った。持ち歌はそれしかないくらいに、彼女はあの年だけの人気歌手だった。でも、中高年の人たちは、とても懐かしそうにその歌を聴いていた。竹笹と提灯飾りのやぐらの上で、彼女は錆びつくことなく、変わらずその歌を何度も繰りかえし歌った。

 浜田光夫は吉永小百合の相手役の面影は消えていた。ただのおっちゃんになってしまっていて、仕方なく暮らしのためにどさまわりをしているふうを隠せなかった。彼にとって、ミコの町はただ過ぎ去った過去であり、郷愁すら抱けないようだった。

 ぼくは販売促進というビジネスの役割の中で、いろんな芸能人と会ってきた。宇多田ヒカルのお母さん、ジャイアント馬場、天地真理、川中みゆき、坂本冬美・・・・・・、ラジオ大阪公開番組、明治乳業提供「こんにちは奥さん」をお聞きになったかたはいらっしゃらないだろうか?すでに番組が終了して八年が経った。ぼくがそのビジネスを離れて八年が経った。
コメント (1)

一日
 朝食は日曜日以外、たいていNHKの朝ドラの時間。決まってトーストとサラダと牛乳の組合せ。10月より、サラダは道向かいにある菜園のサニーレタスがベースとなっている。もちろんぼくが育てたもので、外葉をちぎりながらの収穫だから、寒さと病気に強いサニーレタスは内葉が徐々に成育しているので、春にとうが立つまで食することができる。歯ざわりが柔らかくて、ちょっぴり苦味があって、その苦味が、玉チシャと呼ばれるなじみのレタスよりも毎日を飽きさせない。赤茶が混じった緑の葉は栄養もきっとあることだろう。

 それで朝ドラのことだが、見たくて見ているのではないが、まあかみさんが楽しみにしているのでしかたがない。二年前の「ほんまもん」は結構よかったと覚えている。が、「まんてん」のほうは今のところあまり面白くない。気象予報士をめざすまんてんが、スーパーの売上を天気予報をもとに伸ばして行くくだりだが、ストーリーが稚拙すぎる。あんなことで商売が繁昌するなら、ヤオハンもニコニコ堂もマイカルも潰れてはいないし、ダイエーだって人工呼吸器をつけずにすんだだろう。大型店舗がきて,パパ・ママ・ストアーが店を閉めるに至ったりはしないだろう。

 とまあこんなことをごちながら、八時半過ぎにデスクにつき、二台のPCをオンにして、日本経済新聞を読む。もちろん一番長い時間目にしているのは経済欄だ。財務短針のところはとりわけ詳しく読む。そして、九時になると男女の二人がやってくる。ひとりは同級生だった所長、実務を取り仕切っている。もう一人は元美容師の主任、事務を専任している。ちなみに所長は妻子もちだが、主任は独身である。これ以上話すと、いらぬことに及びそうなので口を閉じる。

 そうして、ランチタイムがきて,ティータイムがくる。所長は出入りが激しい。禁煙なのに、同級生の馴れ合いで、すぐにタバコを吸いはじめるから出払っていてくれたほうがいい。面倒な書類の処理があると、タバコを吸わないと神経が集中できないらしい。主任のほうはちょっと口数が多いのが玉に傷だが、髪が伸びるといつでも散髪してくれるから便利でいい。といって、散髪代をケチっているわけじゃない。その分以上はランチをご馳走している。

 午後六時を過ぎると、ぼくが仕事をしていてもいなくても「ご飯ですよ!」と声がかかる。電話をしているときが多いのだが、たいていぼくは仕事を途中にしたままで家族団欒の中へ入る。テレビではNHK大阪放送局のニュースをやっている。他愛ない話をしながら、ぼくはかきこむように夕飯を食べる。ぼくが食事をする時間はおそろしく速いのだ。およそ十五分、ぼくはまたデスクへもどっていく。

 ぼくがもどるころ、二人は帰り支度をはじめている。タバコの煙が臭いので、主任はドアをあけたままだ。ファンヒーターを目一杯かけて、彼らが帰ると見る見る間に部屋の中は暑くむせてくる。一人になったぼくはPCをネットにつなぐ。仕事を続けているときもあるが、こうやってみなさんと遊んでいるときもある。

 午後八時半を過ぎると「お風呂ですよ!」とお呼びがかかる。風呂は小四の息子といっしょに入ることに決まっている。朝が遅いぼくはいつも息子とすれちがいで、夕飯を黙々と、そそくさと食べてしまうから、スキンシップをはかれるのは裸の風呂だけなのだ。だが、そろそろ息子のほうがなま言うようになってきて、こうやって狭苦しい空間の中でコミュニケーションがとれるのも時間の問題となってきた。

 風呂から上がり、冷たいもの(ビールじゃない)を一杯飲んで、パジャマに着替えて、またデスクへともどる。仕事が片付いていれば、PCをオフにしてドアに鍵をかける。そして、今いる居間へとくつろぎに入っていく。高校時代からの机にはパイオニアのコンポともう一台のNECのデスクトップPCがある。これからの時間、眠るまではもうみなさんご存知のとおりだ。こうやって、ウィーク・デーの僕の一日が過ぎていく。
コメント (0)

いちどだけでいいから
 一度だけ、衒いのない本音の小説を書いてみたい。最も不足しているのは適切な語彙ととりわけ体力だ。ぼくには夜を徹して何十枚も書き続けられるような頑強な体力が必要だ。

 近ごろ疲れすぎていると切実に思う。
コメント (0)

35years
 ”It's safe or suitable for swim” VS ”Farewell、My Johnny”

 二つの短編には35年の隔たりがある。先に新しいほうを読んで、後で古いほうを読んだ。新しいほうは今年山本周五郎賞を受賞しているが、古いほうは何も受賞していないと思う。ページ数は新しいほうが古いほうの半分で、文字数は三分の一ほどだ。

 前者が新しいほうで後者が古いほうだが、いずれのハードカバーの表紙にも原題と共に英語のタイトルが添えられている。前者が白、後者が黒をベースにカバーが意匠されているのが対象的だ。男女の違いこそあれ、共に作者三十代半ばのときの作品である。

 前者を昨晩読んだ。おそらくプリズンホテルを読んだ余韻が影響していたのかもしれない。実に他愛なく、実に短い時間で、週刊誌をぱらぱらとめくる感じで、登場人物の名前さえ記憶できていない。そして、後者を先ほど読んだ。あるひとに勧めていたからでもある。蔵書は初版より10年を重ねて増刷されたものだったが、イントロだけであのころの記憶が鮮明に甦ってきた。今回はプレズンホテルほどハートを揺すぶらなかったが、前者との差は比較に値しなかった。なつかしいだけでなく、作者の若かりしころのビートがやけに切なく胸に響いたのだ。やはりいい作品だった。

 が、その作品ですら今は絶版となっている可能性がある。もしそうなら、図書館へ行くか全集の一部を手に入れるしか読む方法はない。かつて、文庫は文芸作品の宝庫、倉庫といわれてきた。だが、一部人気作品を除き、芥川賞および直木賞受賞作までが次々と絶版となり、姿を消している状況は覆しようもなくなった。菊池寛の「真珠夫人」などは異例中の異例だ。全くのヒョウタンからコマみたいなもので、テレビドラマがあったからこそ復活できた。今や文庫も流行を追い、まるで芸能界のようにビルド&スクラップを繰り返しはじめてきた。

 束の間の栄光だけがもてはやされ、その栄光は歴史を持てなくなった。人々はそれに追随していく。流行に感動し、置き去りになったものを忘却していく。流行り廃りは当然のことと、人々の気持ちの移ろいが早くなってきた。まるでハリウッド映画を見ているかのごとくに。

 ぼくは抗うでなく、あるがままをこの目で見つめていたい、と思う。決して文学は進化していない。日々醸成されていない。最も停滞している芸術だという確信が揺らぐときまで。
コメント (0)

カフェは時間を買うところ
 重厚な木製の扉、ほのかに店内を映し出すゆるやかな照明、琥珀色した魅惑的な空間、どことなくインテリじみて見えるマスター・・・・・・・。少年のころ、喫茶店はまだ見ぬ世界がそこにあるかのように、何かを期待せずにはいられない大人の世界だった。

 時代を経て、最近はチェーン店のコーヒーショップ、しゃれたオープンテラスのカフェ、テイクアウトの移動販売コーヒーに至るまで、いろいろなコーヒーを飲む場所がふえてきた。でも、友だちと議論や駄弁りに入り浸ったり、読書や物書き、思索のために長居したりすることなど・・・・・、そんな思い出に残る喫茶店はノスタルジアのようであり、残された場所はとても貴重なものとなっている。

 20分ほど歩くと、さびれた商店街の端に「ルンバ」という喫茶店がある。冒頭の文句ほどにいかしたところではないが、照明以外はほとんど木製のつくりで、朽ちかけたテーブルのふちが、ぼくが生まれるずっと以前の年輪を感じさせる。そこでは先日八十歳になったばかりの老婦人が、亡夫の遺志を継ぎ、毎日細々と珈琲と紅茶だけを入れている。騒々しい客はめったに来ない。携帯で話す客も殆ど来ない。スポーツ新聞はもちろん、週刊誌の類いも全くない。老婦人にはそこまで手が回らない。朝起きて、自分の身のまわりのことをすませて、どうにか午前11時に店を開ける。そして、ただひたすらカウンターの椅子に腰をおろし、数少ない客がやってくると、立ち上がって珈琲を入れる。亡夫がやっていたそのままに。

 これまで彼女の役割はウェイトレスだった。自分の役割をするものがいなくなって、彼女はゆっくりと自分が入れたコーヒーを客席まで運んでくる。二度動くのは体がきついので、水をいっしょに持ってくる。そして、彼女はほがらかに挨拶する。「どうぞごゆっくり」

 優雅に時間をすごせなくなったぼくは、老婦人の好意に反して、そそくさを店を出て行くことが多いのだが、ときどき読書をしている少女を目にする。それは一杯の珈琲で一冊の本を読破しているかに見える。不安げな眼差しで、ため息をついたり天井を見つめている青年がいたりする。彼らは文学少女だったり、悩める青年だったりするんじゃないか、と思いを馳せてみることもある。あんな時代があったのだと。

 「ルンバ」は老婦人の命と共にある。午後6時に店は閉まるから、日曜日はお休みだから、ぼくがそこでゆっくりできることはあまりない。優雅な時間が持てなくなったぼくに、かのマスターがお断りを言っているのかもしれない。

 ぼくが「ルンバ」を知ったのは10ほど前のこと。生まれた町なのに、ぼくが生まれる以前からあった店なのに、そして、マスターが25歳のときから始めていた店だったのに、それまでぼくは知らなかった。学生時代の名残がある店が自分の住む町に残っていたことを。七年前まで、自営をはじめるまでの三年間、ぼくはどれだけ「ルンバ」で思索に励んでいたことだろう。僕はここで時間を買って、自分の道しるべを見つけることができた。一日たった250円で―。

 演出家の蜷川幸夫はこう語っている。「喫茶店という、どこにも属さないニュートラルな空間は、そこを利用するものにとってだけ固有の意味をもつ。その意味は、やがて時間をも意味づけてゆくのだ。時とともにその意味づけられた空間と時間は、四角い箱のようにぼくの内部に蓄積されてゆく」

 時代とともに失われたものは、空間だけではなく、そこで憩う人々のゆとりもまた失われたではないか、とそんな気がしないでもない。「カフェは時間を買うところ」と、パリの人々がいうように、かつての喫茶店には安らぎの時間が流れている。懐かしい昔ながらの喫茶店を見かけたなら、一度立ち寄ってみたらどうだろう。そこでは、今も濃厚な時間が漂い、芳醇な香りとともにノスタルジックな記憶に遭遇できるかもしれない。
コメント (0)

泣けた
 映画を見たり小説を読んで、胸いっぱいになり、目頭が熱くなったとき、よほどのときでも中指でそっと目じりを拭うくらいですんでいたというのに、今度ばかりは泣けた。両の手で涙を拭いた。四の五の言ったって、カタカナ文字使ったって、英語の歌歌ったって、おれは日本人だ! プリズンホテル【4】春のラストシーンのときである。
コメント (0)

ちょうど二年前
こぼれ種で咲いた太陽の花
前夜の風雪に負けることなく
雪景色の中ででも臆することなく

12/01,2000
コメント (0)