2003年07月の記事


トラキチ
 関西では、いや全国区でにわかタイガースファンが急激にふえているようだ。18年ぶりの悲願の優勝がほぼ確定的になってきたとともに、勝ち数が100勝に達するほどのすさまじい勢いで勝ちまくるからだ。今年はほかのチームがことごとくよわっちいからでもあるが、それでも今年のタイガースは18年前よりもかなり強いと断言できる。苦節18年、1998年に38年ぶりの優勝を遂げた横浜ベイスターズには及ばないが、ほんまもんのタイガースファンには感極まる快進撃だろう。セントラルリーグのペナントレース自体はちっとも面白くないのだが。

 ところでぼくは関西人だが、タイガースファンじゃない。むろんジャイアンツファンでもない。が、関西に本拠地を置くセントラルリーグの球団はタイガースしかない。だから、セリーグのプロ野球の公式戦は甲子園球場でしか見たことがない。

 学生時代から年に2〜3度、甲子園球場へ足を運んでいた。もちろん座る席は三塁側もしくはレフトスタンド、ビジターチームのごくわずかなファンのあたりだ。あのころトラキチなる熱狂的なファンを知った。勝てば官軍、負ければひいきのひきだおし、彼らとともに帰りの阪神電車に乗ったなら、雄叫びあげてやかましいやら、かわいさあまって憎さ百倍、恐怖の阪神電車と化すのであった。

 昨日、ベイスターズ戦が16連勝でストップした。9回の裏2アウトランナーなし、3点ビハインドの場面である。藤本選手の打球はレフト線のファールフライ、多村左翼手がスライディングキャッチを試みようとしたとき、多村選手めがけてマスコットバットが数本投げ込まれた。幸い多村選手はボールをキャッチしゲームセットとなったが、捕球した瞬間何ごとが起こったのかと目を白黒させていた。心ないファンである。ゲーム終了後、星野仙一監督は怒り心頭で、『甲子園球場では胴上げをしない』とまで発言をした。長良川球場でのスプレー事件や赤星選手への髪切り事件なども起因をしている。数日前、星野監督はストレス性高血圧で、ゲーム中に一時吐き気と眩暈で倒れていた。

 20年以上前、江夏投手がタイガースのエースだったとき、あと一勝ができずにジャイアンツに優勝をさらわれた。ドラゴンズとの最終戦に勝てば優勝、ナゴヤ球場で対中日戦に臨んでいた時、ジャイアンツは翌日のタイガース最終戦のため、新幹線で甲子園球場へと移動のさなかだった。先発は江夏豊、対するドラゴンズの先発は星野仙一、そのときすでにジャイアンツには自力優勝がなくなっていた。タイガースの先発の大方の予想は、ドラゴンズにめっぽう強い上田次朗、万が一の敗戦のとき、ジャイアンツとの決定戦に江夏豊だった。

 が、勝てるとふんだのか、功をあせったのか、目前の一勝にタイガースは必死だった。ジャイアンツとの優勝決定戦には持ち込みたくなかった。あの試合、タイガースの選手は金縛りにあったようだった。試合後、星野仙一が語っている。『俺は阪神に優勝してもらいたかった。だから、ど真ん中ばかり放っていた。投げながら、なんで、よう打たんのかと思った。あれが優勝へのプレッシャーか』 江夏もピリっとせず、タイガースはドラゴンズに3対2で敗れた。この敗戦はのちに、大エース江夏を放出するにいたる伏線となった。

 翌日の甲子園球場、金縛り状態のタイガーズと前日の宿舎であきらめていたV復活にのろしをあげる百戦錬磨のジャイアンツとでは、戦う前から勝敗は決まっていたといえる。先発の上田次朗は、ジャイアンツ戦になると今でいうチキンハート、対するジャイアンツはタイガーズキラーのサウスポー高橋一三だった。あのころジャイアンツには長嶋茂雄がいて、王貞治がいた。

 それでもタイガーズファンは伝統の一戦に最後の夢を託し、名古屋に続いて熱狂的な応援に駆けつけた。地元甲子園での胴上げは願ったり叶ったりだったからだ。が、上田はめった打ちにされ、タイガーズ打線は高橋の前に音なしだった。結果、16対0の完敗であった。その日、ジャイアンツは胴上げできなかった。憤ったファンがグランドになだれこみ暴徒と化した。西宮警察署から数十台のパトカーがサイレンを鳴らして駆けつけたのはいうまでもない。後味の悪い敗戦だった。1973年のこと、ジャイアンツが川上哲治監督の下、9連覇を達成した年でもある。それからタイガースが勝利の女神に微笑まれるまで12年を要することになった。

 そして、その1985年より今年は18年ぶりである。この18年間という期間は、タイガースがどのチームよりも弱かった長く苦しい年月である。常に下位に低迷し、星野監督就任前、5年間は連続最下位だった。ついにトラキチは喜ぶことも怒ることすら忘れてしまったようだった。

 今年のペナントレースは、日々夢見るような心地だろう。真摯なファンは強きときも弱きときもいつもタイガースを応援している。が、にわか熱狂ファンは心変わりが激しく、勝ち負けばかりにこだわって、真のスポーツというものを愛していない。解説者にも似たような輩が多いのも特徴である。相手チームを応援している視聴者もいるはずなのに、やたら身びいききわまりないでたらめな話をする。心して欲しいものだ。

 奇しくも1973年に、タイガースの優勝を遮った星野仙一が、タイガースの監督として18年ぶりの優勝へ邁進している。甲子園球場で見事な胴上げを全国のプロ野球ファンに見せるためにも、トラキチなる応援団にはどうか紳士であってもらいたい、と切に願うのである。
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枝豆の虫
 居酒屋やスナックで出る枝豆は、とてもきれいな緑色をしている。が、あんまりぼくはその枝豆が好きではない。冷たすぎるし、味もそっけなく、人工的野菜の感が否めないからだ。

 収穫したすぐの枝豆を普通にゆでると、さやの緑色が深く色落ちして、とてもじゃないけど、あんなに鮮明なグリーンにはならない。それにもともとの土の上で生育している枝豆自体が、あんなに鮮明な色じゃない。

 普段目にする外食での枝豆の多くは、中国からの輸入品で、冷凍ものだそうだ。冷凍の段階で重曹(炭酸水素ナトリウム)が加えられて、緑色がさらに鮮明になるのだそうだ。詳しいことはあまりわからないので、枝豆の鮮明な緑色について知っている人があれば教えて欲しい。ただ、その冷凍枝豆については、実用新案として特許に似たようなものがあり、他社が真似をすることはできないそうだ。

 7月は家庭菜園で枝豆が収穫できる季節だ。枝豆は病虫害が少なく、土質もあまり選ばないので栽培が容易だ。ご多分にもれず、我が家の菜園でも実が熟して、さやがぷっくらとふくらんでいる。とれたてをそのままゆでて食する枝豆は、どの主食よりも馳走になる。軽く味付けされた塩味が、湯気とともに芳香たるかおりをもたらし、口ざわりのあったかさは一日(いちじつ)の疲れをも癒す。とても食欲をそそるのだ。

 ときどき豆に虫がついているときがある。熱湯にゆでられて、小さな細い虫が豆の合わさで真っ白になっている。気がつくとさすがにその豆は食せずに捨てるのだが、気がつかずに食べてしまっているときがあるのではないか、と思ったりもする。

 都会の虫嫌いの女性なら、もし枝豆といっしょに虫を食べてしまったとわかったなら、口に入れようとしたとき虫を見つけたなら、さも薬物死するかのような発狂をするかもしれない。が、幼虫が食べる豆を食べて、また豆をかじった幼虫を食べて、雑食このうえない人類が食中毒を起したりするものか。

 枝豆とともにゆでられている幼虫を見て、微笑みながら思うことがある。スーパーで買って帰ったキャベツに青虫がついていると、電話で店長を呼び出し、『あなたのお店はなんという不潔な商品を売っているのですか』、とヒステリックにクレームをつける主婦がいる。即座に代替品を持ってお詫びに駆けつけないと、対応が悪いと、本社や消費者センターへ手厳しい非難の声が届く。

 青野菜に青虫がついていて当たりまえ、とぼくはいつも思っている。一匹のモンシロチョウも飛んでいないキャベツ畑、連作障害のでないトマト畑、幼虫の存在のあとが全くにない枝豆、そっちのほうが全く自然界の摂理から逸脱していると、ぼくは思う。キャベツ畑に蝶々が飛んでいない理由を、みなさんどうしてだと思う?

 だから、枝豆の虫が偶然にもぼくの胃の中で消化されようと、ぼくは一向に意に介さないのである。むしろ、その偶然に喜ぶべきだとさえ思っている。
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TAKEN
 スティーブン・スピルバーグの世界、「テイクン」。――ママは、よく空の話をしていた。雲や星を眺めるのが好きだったの。時々、『空の彼方に何があるか』というゲームをしたわ。そして、暗黒の闇やまばゆい光の世界や不思議な何かを想像した・・・。

 毎週土曜日、10夜連続の90分。地球に来訪した未知の生命体と三つの家族が織り成すSF大河ドラマ。第二次世界大戦時から現在までの50年以上にわたる異星人と人間たちの歴史を、10のエピソードで紡いでいく。昨日の第一回はとても楽しめるものだった。スピルバーグが「未知との遭遇」「ET」にて描いてきたテーマ、ほのぼのとした、畏怖さえ抱く、無限の可能性を秘めた異性人との交流・・・、そんなものに出会えるかもしれない。
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オキーフの恋人 オズワルドの追憶 上下巻
 先月、書棚の奥へうっちゃっていたこの本を読んでいた。二つの小説の主人公の男性が、登場してくる女性と片っ端から関係を持っていき、それがしばしばにわたるものだから、ついには辟易して引き違い書庫の裏側へ放りこんでいたのである。が、3.360円(奇しくもイートレードの現物株取引と同じ値段だ)が惜しくなって、一応元をとろうと思った。そうして、途中から惹きこまれそうになった。面白くなってきたのである。初版ものだけに値打ちが出るかもしれないなどと思ったりはしなかった。

 『オキーフの恋人』の主人公小林慎一郎は、作者を投影しているようでもある。ペニスを持った女のインナーチャイルドをかかえる小林青年は、登場人物の三人の女性と千差万別のセックスをする。そして、小林青年が編集を受け持つ作家、高坂 譲の探偵小説『オズワルドの追憶』の主人公、夢想賢治もやっぱり登場人物の三人の女性と千差万別のセックスをする。フランス書院のポルノ小説を髣髴させる場面がなくもない。

 『オキーフの恋人』は文学小説のようであり、『オズワルドの追憶』は推理小説のようでもある。が、そうでもない。『オキーフの恋人』で始まったその二作は、交互に六章までが入れ替わり、エンディングは『オキーフの恋人』で締めくくられる。探偵小説『オズワルドの追憶』はかっちり犯人が見つかり完結をみている。

 『オズワルドの追憶』は著者の辻 仁成が週刊ポスト誌に1998年43号から68回連載した『探偵』をベースに、大幅な加筆と訂正が加えられたものである。『オキーフの恋人』は書下ろし作品である。『オキーフの恋人』のほうは、この小説における辻氏のブラウン管のようなものであり、『オズワルドの追憶』はそれに映し出されるテレビドラマのようなものだ。別々な小説として読むことは十分可能だが、主体的な骨格はあくまで『オキーフの恋人』にもっていかれている。

 感想を書くにもストリーを書くにも実に面倒な小説だ。けっこう楽しみながら読んでいたのだが、、『オズワルドの追憶』の第五章と最終章は、どうにもこうにもしっちゃかめっちゃかで、なるほどと思ったり、こじつけだ、気を衒いすぎているとげっそりしたりだった。またどうも角川の『冷静と情熱のあいだ』のブルーとローゼじゃないけど、辻氏はかなりな凝り性のようだ。上下巻で約800ページ、『オキーフの恋人』は一段、『オズワルドの追憶』は二段で、一ページの文字の量もかなり違っている。

 で、面白かったか、よかったかどうかと尋ねられても、ぼくにはよくわからないと答えるしかない。よくわからない小説なのである。時間つぶしにはよいかもしれないが、何かを得ようと期待する向きには芳しくないかもしれない。辻氏のエンターテイメントを味わえるかどうか、それはその人自身にしかわからない。

 ちなみにオキーフは、ジョージア・オキーフ、アメリカの女性画家である。またオズワルドは、かの合衆国大統領ジョン・フィッツジェラルド・ケネディーを暗殺したとされる人物である。
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ソフトバンク&ヤフー
 ネットバブル終焉より三ヵ年、その後日本の景気低迷はさらに甚だしく、その象徴たるものは大手銀行で、あのころの行名をそのままにとどめているものは皆無だ。

 ところで、全くに景気回復の光明が見えてこない中、5月はじめより株価が上昇をしてきた。株価は経済の先を見るという。そう考えれば、NECや富士通の株価が2倍になったということで、先行きの見通しがよくなってきたのかもしれない。

 が、ここ2週間ほどその主力株が低迷してきた。息切れの様相である。2ヶ月ほどの株価の上昇は、実体経済を反映したものではなく、外国人主導の金余りによる金融相場だという向きもある。

 本日、38日ぶりに東証一部の売買株数が10億株を割り込んだ。直近、商いが細りつつあったのだが、大台を割り込んだことで、弱気筋の見通しに不安感が台頭してきた。そんな状況下で着実に商いをこなし、まっしぐらに株価を上昇させているのが、ネットバブル崩壊の張本人ソフトバンクとその子会社ヤフーである。

 本日の値上がりによって、ソフトバンクの時価総額は11.824億円、ヤフーにおいては21.103億円、両社を合わせると32.928億円となった。これは東京証券取引所上場企業の時価総額において、ソニーに次ぐ第9位となり、32.871億円の松下電器産業上回ったことになる。

 松下電器産業グループの従業員の総数は288.324名、単独で52.376名、平均年収は700万円前後と推測される。一家族4人として、松下電器産業グループは、およそ100万人の生計を成り立たせている。下請け企業などを加えればさらに人数は増えるだろう。

 片や、ソフトバンクグループの従業員は1.000人に満たない。四季報を見る限りでは、ソフトバンク本体はきわめてグレーな企業で、3年連続の赤字であり、従業員総数はわずか77名と公表されているにすぎない。また、業績絶好調のヤフーでも625名ということで、雇用、納税、社会保険金納付などという社会貢献面においては、スズメの涙のような状態である。

 もちろん従業員総数は、売り上げ、純利益にそれなりに比例して適正な数字が成り立つのであるから、ソフトバンクグループと大手企業の松下やソニー、トヨタ、日産、NTTドコモなどと比較することに無理はある。とはいっても、ソフトバンクグループの企業価値は想像を絶する数値である。100万人の人々の生計を成り立たせる企業群と、わずか1.000人未満の従業員でまかなえる企業の価値が同等もしくは、10位以下の大半がそれ以下であるという事実は、実にいびつである。

 ソフトバンクカンパニーが株式市場をリードしなくてはならない状況が続く限り、経済の先行きは暗いのかもしれない。ヤフーは便利だけれども、有害なものもたくさんにある。ぼくも弱気筋の一人である。悪い事態を想定して生きているから、どうにか未来があるという、これもまたいびつな構造である。

 とにもかくにも3年前のように株価が先走りして、虚像と実像を見間違えないことである。抜き足差し足、のらりくらりでよいから実態ある経済回復を望みたい。青年たちによりよい雇用をと切に願う。
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マドンナ
 娘と息子といっしょに近くのパスタの店へランチを食べに行った。席に着いたところ、そこは予約席だからと別なテーブルへ移らされた。よく見ると、崩した書式のイタリア語で、小さな『リザーブ』のポップがカードケースに入れて置かれていた。

 ぼくたちが別なテーブルに着くとすぐ、垢抜けした女性二人が入ってきた。美人のほうが年齢にわりに、ずいぶんと若いファッションを着こなしていた。いわゆるへそだしルックというやつ。彼女が誰か、すぐ記憶がよみがえった。

 一昔前、テレビのコマーシャルにも出た東進ゼミナールの古文のマドンナ、○野文子だった。一億円講師の呼び名も高く、受験用参考書の売れ行きも好調で、受験生の人気の的だった。古文を必要としない理系の受験生までもが彼女の講義を受講しようとさえした。

 ぼくやぼくのかみさんと年齢はあまりちがわない。加えて彼女の兄さんとぼくとは同級生だった。彼女は高校の同級生と早くに結婚して○野姓になっていた。実に奇遇だった。が、彼女はぼくのことを知っていない。ぼくが彼女を知った理由は、たまたま同級生の妹で有名人になっていたから。

 その同級生というのは、頭はよかったがいい男の部類ではない。義務教育の時代から私立の進学校へ移っていて、エリートコースを歩んでいた。そして、彼の妹二人は地元の高校を普通に卒業して、一人は女優に一人は平凡な道を歩んでいるはずだった。

 が、人生とはかくもままならぬものであろうか。同級生と結婚をし、いちばん平凡な道を進んでいたはずの彼女が、一人の人間として自立し、人生において見事に成功を収めていった。

 ぼくの目はパスタを食べながら、何度も彼女に注がれる。イタリア調の照明のせいもあるだろうが、彼女はぼくたちよりもずいぶんと若く輝いている。一昔前のマドンナはいまだに健在だと思った。

 これから10年の後、ぼくもいまだ健在だと思われるようにありたいものである。
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The Open
 第131回 全英オープンゴルフトーナメント三日目、決勝ラウンドをいまから見る。本命タイガーウッズ、ダークホースのセルヒオ・ガルシア、実力者のデービス・ラブ・3世、そして日本ツアーから参戦の韓国のS・K・ホ。イングランドのリンクスの強い風が上記の上位者にも予断を許さない。今夜、眠るのは午前3時ごろになるだろう。更新はあした、自身のゴルフはおやすみである。
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冷夏
 初秋のような朝の寒さ。梅雨らしい梅雨の季節だが、気温だけは普通じゃない。どうやら寝冷えをしてしまったようだ。頭痛がして、声がかすれ、目がひどく疲れている。

 植物は人間とちがってこの涼しさを率直に喜んでいるようでもある。生育はきわめてよく、花は咲き乱れ、野菜は例年以上の豊作だ。唯一、スイカのできがよろしくない。太陽の花、ひまわりが咲き誇っているというのに、スイカの雌花は処女を守り通して枯れている。

 この分だと東北地方に冷害の怖れありと聞く。景気回復も夏が暑くないとしぼんでしまう。ビール、ドリンク、エアコン、プール、海水浴、水着などなど、冷夏で小売業の業績がよかったことはない。

 夏よ、猛暑よ、早く来い!
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レイン・ドロップ
 こんなふうに言うと、今日の雨にも聞こえはいいけど、ブルンバゴ(るりまつり)の花の色。青空に映える水滴のような水色の花を咲かせてくれる。

 が、けっして今日のような雨、毎日のように降り続く雨が好きじゃない。一日一時間だけ、ゆるやかにやさしいシャワーのように降りそそぐ雨が好きだ。

 植物は水道水よりも雨水によってのほうがよく育つ。適度に降る雨でならとてもよく生育する。けれど、こう降り続いては湿度が過ぎて病気になってしまう。根腐れがおこり、花びらが腐り灰色カビ病が発生する。雨上がりのつど、花がら摘みをしてやらないと弱ってしまう。

 「雨に唄えば」なんてレインコートを着て、傘さして、そんなミュージカルの名作があるけれど、テーマソングだって口ずさめるけれど、レインコート着て、傘さして、一日土砂降りの雨の中を歩くなんてことはするもんじゃない。ましてお金払ってなど馬鹿がやること。

 パターをやってると、帽子のひさしからレイン・ドロップが落ちてくる。払っても払っても雨粒が落ちてくる。じゃまなこと、めざわりなことこのうえない。ええい、どうにでもなれ! イップスの上、いらいらしてちゃ入るわけない。

 あげく、風が吹いて、傘が飛ばされ、川に流れて、ふんだりけったり。スコアが95なのはしかたがない。

 ブルンバゴ(るりまつり) レイン・ドロップ イソマツ科
 暑さに強く涼しげなブルーの花を次々と咲かせます。
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長崎少年犯罪
 鴻池祥肇防災担当相は、実のところ「遠山の金さん」だった。加害者への『市中引き回しの上、打ち首獄門!』発言。そのとき、お白州にいたのは記者連中だったのだけれど。

 ところで毎回のことだが、マスメディアは嘆き悲しむ被害者および家族を映しすぎるのではないか。それはときおり興味本位のようであったりもする。金さんそこをなんとかできぬものだろうか?
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プロジェクトX 
 あれは男の物語で、番組編成上美談にはしたくなかったんだろと思う。彼の成功は奥さん抜きには語れない。

 現在は生徒寮が完備され、選手たちの環境は整っているが、当初遠距離で通学できない生徒たちを自宅に住まわせ、奥さんが自分の子供同様に育ててきた。炊事洗濯身の回りのこと、とりわけ食事面では気を配っていて、成長途上の子供たちに偏りのない食事をとらすことに腐心していた。

 奥さんは車の運転ができなかった。だから、自転車で毎日長い坂道を上ったり下りたりしながら、雨の日も風の日も食料品の買出しに3キロばかり走っていた。スーパーからの帰り、自転車の荷台はみかん箱いっぱいほどが積みこまれ、その重さで帰りの無事を案じるほどだった。奥さんはとてもスリムで後ろの荷台に引っ張られているようだったから。

 大根の葉のジュースが健康によく、育ち盛りの生徒の肉体を引き締めるのだと聞いた。大根の葉の養分が長距離ランナーのスタミナをつけるんだとも聞いた。物は試しにとミキサーで作って飲んではみたが、いやはやどうしようもないえぐい味で、いくぶん糖分やほかの野菜果物をミックスさせてもコップ一杯を飲みほすことはできなかった。ジュースの成分のうちの大根の葉80%前後はかならず確保しなくてはならなかったからだ。

 スーパーでは大根の葉は廃棄処分だった。間引き菜でこそおいしく食することはできるが、販売するほどに生育した大根の葉は硬くて苦くて食べられない。だから、入荷してきた時点で葉は切り捨てられる。買い物がてら奥さんは、その廃棄処分になる葉を毎日もらって帰って、食事のあとのジュースにしていたのだ。

 生徒たちはけっしておいしくはない、普通の人間なら二度と口にしないであろうジュースを毎日こらえて飲んだ。奥さんの愛情一杯にこたえて、健全な心身を育み、精一杯に走った。奥さんの労苦は十数年に及んだと想像する。

 プロジェクトXに奥さんは全く登場しなかった。もし、奥さんに当時のことを語りかけても、公の場でのそんな話は絶対に固辞してはずだと思う。ひかえめで飾らない質素なご婦人で、彼女もまた控えの選手の一人だったのだ。

 数年前、幸いけがは大事に至らなかったようだが、自転車を運転中事故に遭われたと聞いた。交通量の多い国道を毎日のように走っていて、今思えば大きな事故に遭わなかったのが不思議なほどだ。番組を見ていて、彼女の若かりしころの笑顔が目に浮かぶようだった。きのうのプロジェクトX、彼女にこそ拍手を送りたい。
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梅雨
 雨季ともいえるほどに今年の梅雨はよく雨が降る。この三週間ばかり、丸一日雨がなかった日は四日しかない。エアコンのおかげでむし暑さはそれほどではないが、これだけ曇ってばかりいると、うっとうしくてしかたがない。

 夏野菜の成長が例年になく早い。葉が濃緑色に色づき非常に繁茂している。畝と畝のあいだに入ると、まるでトウモロコシ畑のなかにいるようだ。が、トウモロコシ畑にイメージする夏の青空はなく、ジャングルのような薄暗さと蚊の群れにうんざりさせられる。トマトやキューりはぼくよりずっと背が高くなり、ナスやピーマンですら、ぼくの肩ほどになっている。カボチャは垣根代わりのあじさいを這い登り、ブロック塀を乗り越えて隣の庭にまで侵入していた。全長10メートル以上はあるカボチャのツルは、またたくまにスイカやプリンスメロンを覆いつくし、ぼくの両腕いっぱいほどの巨大な葉は侵略者でもあり、カラスからのカモフラジュー的役割を担いそうでもある。実のところ、スイカやメロンの実が成っているのかどうかさえ、見えないありさまなのだ。

 ほんとうによく雨が降る。雨が降るから手入れが滞りがちで、やむなく傘をさして菜園に入ると、へちまのように巨大になったキューりを30本以上も見つけてしまうのである。今週いっぱいもほとんど雨の予想だ。植物は適度な湿度と乾燥を必要とする。健全な生育に十分な陽光は欠かせないものであり、そろそろ梅雨が明けてくれないと灰色カビ病やウィルス病が伝播する可能性がなくもない。

 季節が季節らしいと、四季折々の日本らしさが見られると思う。夏は暑く、冬は寒く・・・、桜が美しく咲き、紅葉が見事に色づく。そう思えば去年の紅葉は近年になくすばらしかったし、今春の桜の咲きぐあいも最高だった。が、梅雨だけはいただけない。ロンドンの暗い冬がたまらなくいやなように、日本の梅雨もこれくらいで十分だ。
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IPO
 IPO、新規公開株が人気である。利回りのほとんどない預金金利、はずれて当たりまえの宝くじやTOTOではなく、現実的にキャピタルゲイン(株式を売った利益)が狙えるものとして、株式の初心者が新規公開株のBB、ブック・ビルディング(需要調査)に参加してきている。前もって幹事証券会社を調べ、ことごとく口座を作り、抽選枠に参加しているのである。

 ネットバブル崩壊の教訓として、売買単位が抑えられ、利益供与を防ぐため、証券取引審議会および金融監督庁の指導により、一般の個人投資家にも参加できるように、各証券会社に抽選枠が設けられた。証券会社はその指導のもと、自社ルールによる抽選枠パーセンテージの違いこそあれ、最低売買単位での抽選を行っている。

 今年は特別にIPOのパフォーマンスがよい。概してIPO取得時の単価は5〜50万円ほどで、銘柄によって上下の差はあるものの上場初日だけで4倍を超える初値をつけるのもあった。6月12日に上場した住友電工子会社のネットマークスの公募価格は10万円で、40万円の初値がついたのだった。また、タブレットで世界シェアNO1のワコムは、公募39万円に対して2ヵ月後に260万円まで上昇を見せた。

 まずIPOが取得できればその90パーセントは勝てる。そして、その50パーセントは1.3〜4.0倍ほどのキャピタルゲインを期待できる。負ける可能性がある10パーセント足らずは、初日に売ればあまり損がない。そのことが徐々に口コミやネットサイトで認識されはじめて今日に至った。少々IPOバブルと言えなくもないけれども。

 口座を作るのにお金は要らない。ネット証券以外はIPOの申し込み、BB参加にお金は要らない。当選の連絡ののち、購入の意思確認を経て、入金を行えばいいのである。もちろん、クーリング・オフ、キャンセルも可能で、最終的判断は市場の動向、自身の懐具合で決めればいいのである。断ることに遠慮はいらない。

 元来、リスクを張り、手数料を十二分に払って取引をする顧客へのご褒美がIPOだった。リスクを張らず、手数料も払わず、参加できるIPOのブック・ビルディング、めったにしか当たらないけど、宝くじよりや競馬よりはもうかる確率がずっと高い。

 老婆心ながら申し上げておく。昨今、IPO乞食のような人が増えていることは事実である。抽選枠は限られているから、当たらない確率のほうが、当たる確率よりずっと高い。幾度となくはずれても「インチキだ、はずればかりだろう、野村のバカ、大和のアホ、日興のクソッタレ!」などとヤフー掲示板に書かないことである。みっともないことこのうえない。金の亡者みたいで情けなくなるのである。1年に1〜3度当選し、10〜30万円ばかりもうかって、ワクワクドキドキできれば十分なのである。もちろん、50万円前後の資金でである。

 参考に以下のサイトをごらんあれ。

 IPOストックボード

 IPOデーター
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Yips
 イップス、ゴルフ用語でよく使う言葉。精神集中してプレーする際に緊張のため起こるふるえ、ゴルフのパットなどで手の動きが鈍るような症状が出る。

 まっすぐに後ろへ引いて、まっすぐにヒットする、目をつぶっていてもカップインするような短いストレートな距離(一メートル前後)が左右にぶれたり、ショートしたりする。目の前にカップが見えるからこそ腕が動かない。

 プロゴルファーにとって、イップスほど怖い病気はない。300ヤードのロングショットも90センチのパットも同じ一打だからだ。賞金稼ぎのプロたちにとって、パット・イズ・マネーという格言がある。いくらすばらしいショットをしたとしても、最後の詰めが甘ければ何の意味も持たないのである。

 で、ぼくのイップスは重症である。自滅という言葉が適切なほどで、相手が驚くほどに短いパットをなんべんも外してしまう。慎重にすればするほど右へ押し出したり、左へ引っ掛けたり、全然届かなかったりする。勝てるはずのゲームを落し、賭けに敗れ、ため息ばかりが出るのである。

 「夜遊びがすぎるんじゃないですか?」とキャディーさんに言われる。「へたくそになったなあ」とか「わざと外したのか」とか「頭が悪いんじゃねえか」と同伴競技者に笑われる。あげく最も自分がみじめになるのは同情されかけるときである。

 ついこのあいだまで、ぼくはアプローチとパターの名手とさえ呼ばれていた。飛距離が出ない分を補ってあまりあった。だから、握りには強かったし、マッチプレーでは実力以上のものを発揮していた。

 腕が動かない。脳の指令に反応してストロークできない。緊張しているつもりはない。が、まるでわざとカップを避けているかのようにまっすぐにヒットできない。繊細な部分で自分をコントロールできない。

 ぼくはイップスという言葉を避けている。乱視がきつくなったとごまかしている。ぼくがイップスである限り、同伴競技者は実のところ喜んでいる。引き分けたと思うホールが勝ちになり、負けたと思うホールが引き分けになるからだ。

 どこか体の調子が悪いんじゃないかと思ったりする。精神的な波動が好ましくない状態にあるのだろうかとまで考えたりする。近頃よくため息をつく。日々緊張している時間が多くなった。夜になるとどっと疲れが出る。

 そう考えると、このごろミスが多いのは日常イップス状態にあるんじゃないかと思えてくる。プロゴルファーのイップス治療法は一筋縄ではいかないらしい。レッスンプロに教わったり、ゴルファー仲間に助言を求めたり、パターを何度も代えたりしてもなかなかおさまらない。なかにはカウンセラーにかかるプレーヤーもいてけっこう深刻なようだ。

 イップスを自覚しだして三ヶ月あまり、全く光明を見出せそうにない。今日ばかりはゴルフすることが嫌になってきた。やめようとさえ思う。が、運動不足を補うためには、また友人とのつきあいを続けていくにはやめることは適わない。

 が、問題は日常のイップス依存症である。緊張することのほうがけっこう好きで、やたらそちらに夢中になりがちだ。ゴルフというスポーツもまた神経戦で、わが意を得たるスポーツだった。日常の絶え間ない緊張、それを取り除くように取り組むか、もしくはそれを乗り越えてしまうことができるか、ぼくの二者択一の事態のような気がする。

 で、あしたはコンタクトレンズが合っているかどうか、眼科へ検診に行くつもりでいる。プレー前の精神安定剤をくれるだろうか???
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マトリックス症候群
 「フィールド・オブ・ドリームス」を見て以来、ほんとにいい映画にめぐりあっていないような気がする。記憶に残っているのはそれ以前の映画ばかり、ず〜っといっぱい映画を見てきているというのに。

 この数年、七月の第一週の土曜日は妻のバースデー祝いもかねて、三宮に家族が集合して贅沢な食事をしていた。ハーバーランドでコンチェルトのディナー・クルージングをしたのはおととし、去年はホテルオークラでのディナーショーだった。今年は八月の終わりに北海道旅行に行くため、ささやかなランチをサンマルクでとり、映画「マトリックス」を見るにとどめた。

 ぼく以外は「マトリックス」に夢中だった。小五の息子などはもう一度見ると席を立とうとしなかった。娘も妻もとても面白かったと異口同音に満足の言葉をかわしあった。ラストの「トゥ・ビー・コンティニュード」の文字で、早や次回の十一月の上映を待ちわびているようである。

 退屈したわけではないが、とても無機質な映画だとぼくは思う。消費文化の象徴のような映画だと思う。まるで超人気テレビゲームをそのまま劇場で公開しているようでもある。スミスというサングラスのマシーン男が次々と増殖して、主人公のネオと戦うシーンの長さには辟易してしまった。

 概して高配給収入の映画はエンターテイメント、娯楽作品だ。本日夜より「ターミネーター3」がオールナイトで封切られ、シリーズ物大流行の映画業界である。「ロード・オブ・ザ・リング」、「ハリーポッター」と続々と大物が控えている。それは一作としてのよい映画をというよりは、金が稼げる映画、興行として爆発的人気を博する映画作りを世界が求めているからだろうと考えもする。中途半端じゃない、べらぼうな稼ぎの連続をもくろんでいる。

 そのことを否定するつもりは、ぼくには毛頭ない。観客が要求し、喜ぶものを提供するのが本来の映画人の務めだからだ。けど、10作に1作くらいは成算を度外視した本物の映画作りに賭けてもらいたい。そのとき万が一不入りでも、必ず後世において評価されると信念を持てるものを。

 こんなことを言いながら、ぼくは時代に取り残されはじめてきたと少々危惧してもいる。「フィールド・オブ・ドリームス」以後も映画にはいつも楽しませてもらってきた。映画年表を見れば『ああ、これもよかった』という映画が次々と出てくるんだろうと思える。「海の上のピアニスト」があった、「グリーン・マイル」があった、というように。

 どうやらぼくは「マトリックスシンドローム」突入してしまったみたいだ。やれやれ、帰りの道中で小五の息子に映画解説をしてもらわなくてはならないとは、さすがの自分にも少々ヤキがまわってきた。
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真っ白な記憶
 ほんのときおりだけれど、記憶が真っ白になることがある。たとえば、ある場所までたどり着いた道を忘れてしまっているとか、顔見知りであるはずの人物の名前を忘却しているとか、数ヶ月前に見たビデオを無意識にレンタルしてしまうとか。

 ひとは僕のことを物覚えがよいという。ぼくの記憶によって抜き差しならない思いをしたひとからは、記憶力抜群の人物だと揶揄されることもある。

 どうも記憶が真っ白になることと、記憶力とは脳細胞の別な部分であるような気がする。といって、ぼくは若年アルツハイマーの心配をしているわけでもない。

 都合よくいやなことだけを記憶の外を追いやることができたなら、ひとはどれだけ幸せになれるだろうか。だが、人生は無粋なもので、折々大切なことを忘却させ、しがらみのようなものをいつまでも不意打ちのようによみがえらせてくる。

 だから、ひとはよく酒を飲むんだろうと思ったりもする。酔いしれることによって、自分の都合のよい記憶をたどりながら、束の間心地よい郷愁にひたるのだろう。

 が、こんなくだりを記したところで、ぼくの記憶が真っ白になることの説明にはならない。何でだろうと、しかと考えてみる。日々が単調で多忙だからだろうか? いや、ぼくよりもっともっと単調な仕事で多忙な人はごまんといる。

 ぼくには空想癖がある。夜、ふとんの中で夢見るように想像する。決してアブノーマルなことや億万長者になることや有名人になることなどは考えない。空想には過去、現在、未来があり、ぼくは思うまま、自由自在にそこかしこで好きなことをする。そうして、やっぱりぼくはいつも男で素敵な女性を探している。それは映画「バック・トゥ・ザ・ヒューチャー」の世界に似かよっているのかもしれない。

 また雨が降っている。ここ3週間でまともに晴れた日はわずか五日だけだ。どうにもエルキュール・ポアロの三分の一にも満たない脳細胞に靄(もや)がかかっているようである。失われた記憶でない真っ白な記憶、一片のメモすら必要ないほどの些細なことの記憶、それがぼくには見つからない。今日、ぼくはどの道を通って商工会議所まで行ったのか思い出せない。一ヶ月前に、税務署から源泉納付書が届いていたことすら思い出せないのだ。

 なぜか小学三年生のとき転校していった女の子の面影をよく覚えている。文通や年賀状のやりとりすらしなかったのはもちろん、個人的な会話すらしていなかったというのに。名前は洋子ちゃんだった。

 頭の中に真っ白な記憶というノートがあって、自分の大切なことだけを書き込めたなら・・・・・、などと他愛ないことを考えている手仕舞いの時間である。間断なく激しく降る雨音を聞きながら・・・・・。
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