2003年06月の記事


風の絵葉書  * 浅井慎平 (写真家) *
恋文や宛名は夏郡海の村

誰のこころにも海がある。
おだやかな日もあれば、嵐吹く夜もあるだろう。
ぼくはこころの海を旅しながら、誰もいない島にたどり着く。
昨日がそんな日だった。
ちょっと辛いことがあり、
考え込んでも解決できないことがわかっているのにでこころの旅をした。
自分で自分を落ち着かせるのだ。
うまくいくとは限らないけれどしかたがない。
他に方法がないのだ。
人の力の及ばない事柄をあきらめるのではなく軽ろやかに受けとめたい。
こころの海の旅はそんなぼくのわずかな智慧のひとつだ。
「あなたの海の色はどんな色ですか?」
なんてことを他人にたずねたことはないけれど、
「この人のこころの海は美しい」と気づくのはいいものだ。
恋をしているときにはそんな感情があるのだろう。
いまはすこし忘れかけているけれど。


こころのなかの海の写真をイメージして
彼の言葉をかみしめたい。
そんな気持ちになるときが
それぞれによくあろうことだから。
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プロ野球考
 プロ野球が面白くない。タイガースが独走しているからではない。今年の野球そのものが大味すぎて、微妙にかくし味のようなスパイスがないのである。

 ときどきハーフのゴルフのスコアじゃなかと思うゲームがある。4.5.2.3.6.2.3などと数字が連続するとプロゴルファーのスコアカードみたいだ。ゴルフは同伴競技者のスコアを記入するのがルールだから、まさに敵の点数。

 近頃のジャイアンツはベイスターズと変わらぬほどによわっちい。よそからFAで高齢の選手をとりまくるから高齢化の弊害が出てきている。去年がピークだった選手が多く、タフな松井がいなくなっただけで沈没してきた。タイタニック現象だ。

 独走しているタイガースも明日はわが身だ。金本35歳、檜山34歳、片岡35歳、矢野35歳、藪34歳、伊良部35歳と続いていく。さて、彼らが来年も同じように活躍できる保証はどこにもない。

 パシフィックリーグはセントラルリーグよりレベルが低いのだろうか? 去年までの打てぬタイガースから追い出された選手たちがかなりの活躍をしている。バッファローズの北川、星野、ファイターズの坪井、伊達、ライオンズの平尾、高波とけっこういる。

 去年ぶっちぎりで優勝したライオンズが、日本シリーズでジャイアンツに惨敗したことを思えば、パのほうがかなり貧弱だ。が、セでも、今年のタイガース以外のチームの野球もまたアマチュア野球ほどにレベルが低い。

 どのチームも外国人投手が先発陣に名を連ね、彼らだけがメジャーリーグ流に中四日のローテーションで投げている。日本人投手は中六日、一週間に一回の登板だ。また、たいていのチームのクリーンアップは外国人選手が打っている。彼らの活躍次第で得点が大きく増減する。

 外国人選手はそのほとんどがメジャーに残れなかった選手。だから、アメリカの3Aの優勝チームと日本一のチームが戦えば、たぶん日本のチームが負けると思う。もちろん七回戦制としての仮定である。

 メジャーリーグ機構は、メジャーリーガーたちをオリンピックに派遣しないことにしている。シーズン中の日程に支障をきたすからだ。が、薬物使用の選手も多く、優勝してもメダル剥奪の可能性が否定できないからでもある。

 少々うがった見方かもしれないが、松井よりイチローのほうがたくましく見えるのはなぜだろう。日本にいたころ、はるかに松井のほうが筋肉質だった。パワーの差は歴然としていて、そのホームラン数は比較できるものではなかった。

 彼らは一歳ちがい、松井のほうが年下だが、誰もがパワーでは松井、スピードとテクニックではイチローと思っていたことだろう。だが、テレビ中継を見る限り、パワーででもイチローのほうが上回っている。打球の弾道が松井よりイチローのほうが間違いなくパワフルなのだ。

 メジャーリーガーの主力選手には30代後半から40歳前後が多くいる。おなじみのバリー・ボンズ、ランディー・ジョンソン、ロジャー・クラメンスなどなど。日本の選手寿命と比べて5歳以上長い。理由はよくわからない。人種の差だろうかとも思う。でも、日本人メジャーリーガーのパイオニア、野茂英雄もまた35歳となってますます活躍を続けている。

 プロ野球中継を見ていると、彼らがプロではなくアマチュアだったなら楽しめるんじゃないかと思ったりもする。へたくそなプレイも草野球なら面白おかしく笑ってすませるからだ。メジャーリーグの落ちこぼれ選手たちが頼もしく見え、怪我ばかりするジャパン選手がひ弱に見え、結果においてもホームランキングはまちがいなくダントツで外国人選手であること、そんなふうに考えると、日本のプロ野球そのものが虚弱に見えてくるのである。

 長嶋茂雄読売巨人軍名誉監督が、アテネオリンピックの強化に向けて活動している。アテネではシーズン中にかかわらず、日本プロ野球界も中心選手を派遣するようだ。が、野茂やイチロー、松井たちはメジャーリーガーだから出場が許されない。日本プロ野球の威信をかけて臨むアテネオリンピックになるのだが、アメリカのメジャーの2軍チーム、台湾チーム、韓国チーム、キューバチーム相手に勝てるという力強さはぜんぜん感じられない今シーズンである。
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枇杷狩り
 五年生になる息子のクラスの児童たちが担任の先生に引率されてやってきた。五時間目の授業を終えて、みんなランドセルを担いでやってきた。我が家の庭の枇杷狩りにである。枇杷を見るのが始めての子供、食するのが初めての子供、直接実をもいで食べるのが初めての子供がいた。

 先生の指示の後、子供たちはたった一本の枇杷の木にいっせいに群がった。およそ三十分のあいだに、濃緑色の常緑の葉をおおいつくした小さなオレンジの実がなくなってしまった。自分の手で果実の皮がいとも簡単にむけることに驚いていた。小さな実のなかにある二粒の種が意外に大きいことに驚いていた。何度も歓声があがり、みんなとても楽しそうだった。あっという間に、黒のビニールのゴミ袋が皮と種でいっぱいになった。そして、ぼくは子供たちがこんなにも喜ぶことに驚いてしまった。

 枇杷(びわ)の木はここ数年でずいぶんと大きくなった。現在高さ六メートル、幅も六メートル、年々その成長はとどまることを知らない。北側にある柿の木との間隔がせばまり、ついに互いの枝が交差するほどになってしまった。どうやら落葉樹の柿の木は、今年の冬のあいだに常緑樹である枇杷の木に片側へ押しやられてしまいそうである。

 樹齢十五年余り、二年目に数個を結実させたこの木は、その成長とともに果実の数を増やし、五年前からは一千個を超えるほどになっていた。そして、今年は去年以上の鈴なりで、数えてはいないが五千ほどは成っていたと思う。

 枇杷の木はとても丈夫だ。病虫害のほとんどない作りやすい果実だ。植樹してより一度たりとも薬剤散布をしたことがない。また、柿のように隔年結実(一年おきに成り年がある)などではなく、その木の成長とともに果実の数はどんどんふえていく。

 けれど、たった三人の家族で食せる数は知れていて、カラスやヒヨドリの餌になるか、梅雨と高温によってわずか三週間あまりで腐ってしまう。

 今日の夕方のことである。ぼくが菜園に入ろうとしていたとき、犬を連れた近所のおばさんが声をかけてきた。

 「あれぇ〜、枇杷の実がなくなってる。とてもきれいなオレンジ色だったのに」

 彼女は元校長先生。現役を引退して、現在は悠々自適のご身分である。

 「上のほうはまだたくさんあるでしょう。カラスたちのために残しているんですよ」

 「届くところ全部おむぎになったの? 残念だわぁ。ちょっと分けていただきたかったのに」

 ぼくは今日の出来事を話さなかった。「脚立にのぼってとってさしあげましょうか?」

 「ありがとう。うれしいわ。お言葉に甘えて少しいただけるかしら」

 恐る恐る脚立の上に立ち、精いっぱい手を伸ばして、色と形のよい果実をとろうとした。やはり蚊がぼくを襲ってきた。ノーガードのときに限ってやつらは群れをなしてくる。怪我をするよりはまだ痒いほうがましだ。足元で待つ元校長に枇杷を手渡したとき、彼女は少々紅潮して微笑んだ。

 「子供たちに実体験をさせてやれたらと思うわ。こんなふうに自分で実を取って食べること、今の子供は経験できないのよ。せっかくこんないい実がたくさん成るというのに・・・、毎年もったいないでしょ?」

 うん? ああ、そういうことだったのか。父(息子の祖父)が担任の先生に『枇杷をさしあげたい』という手紙をことづてたこと、おそらくこれは父とこの元校長との話に端を発したものなのだろう。

 「実は今日、息子のクラスの児童たちがやってきたんです。だから、きれいさっぱりです。おなかいっぱい食べて、残りは持って帰りました。みんなとても喜んでいました」

 「そう、それはよかった。いいことされましたね。子供たちにはとても大切なことなの。そんなことと思えるような些細な自然のことがね」

 ぼくは相槌を打った。勘ぐるようなことも言わなかった。年長の二人が考えたこと、それは予想以上の好結果をもたらしたのだから。
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ひとは
岡目八目で物事を見ることができれば
ミスをしでかさないであろうに・・・・・。
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デッドボールのわけ
清原和博が死球日本記録を更新中である。
今日もまたひとつ当たった。

「どあほ、どこ見て投げとるんじゃい!」 なかなかにどすがきいている。さすが泉州岸和田の出だ。

「すみません」と帽子をとりながら 
「なんで当るんだろう?」とつぶやく可哀想なピッチャー。
よく見る光景だ。

「しかたないさ、彼はお地蔵さんなんだから」と夕刊フジのデスク。
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セイコー・エプソン
 本日、セイコー・エプソンが東京証券取引所一部に新規上場をした。最近、やけに『カラリオ』のCMが多いと感じられたひともあったことだろう。知名度アップとともに上場成功を果したかったためと思われる。株式上場は事業規模拡大のための資金調達であり、また既存株主(主に創業者およびベンチャーキャピタル)のキャピタルゲイン(株式を売却したときの利益)を得るためでもある。

 一ヶ月前の上場発表当時、前評判はあまり芳しくなかった。前期、2002年度が赤字だったことと、BB(需要積み上げのための仮条件 2.150〜2.450円)の設定が高いということからだった。

 が、一般投資家のネガティブな予測に反して、機関投資家および海外での需要はかなり旺盛で、仮条件の上限が2.450円から2.600円に引き上げられた。そのとき、主幹事、日興証券への個人投資家のブーイングは異常なほどに鳴り響いたものだった。引き上げられたということは、すなわち発行株価は2.600円に決まったも同じだったから。最低単価が245.000円でも高いと思っていた個人が、さらに15.000円高い260.000円に二の足を踏んだのだ。

 以後、『絶対に損をする』『キャンセルしてやる』『個人投資家を馬鹿にするな!』 などという日興とエプソンを非難する意見がネット上では多数を占めた。公募株が手に入るかどうかもわからないときにである。

 結局、エプソン上場にポジティブなスタンスをとっていた投資家ですら予期できぬ上場前人気となった。むろん発行株価は上限の2.600円に決定し、十分な数量を確保できるともくろんでいた投資家においても、その配分株数は想定外の少なさだった。

 いわんや、文句と欲望の塊のような個人投資家は当てがはずれ、最低単位数100株を10人に1人が手にしたほどにとどまった。先週月曜日のことである。

 ヤフーのメインにある「ファイナンス」のなかに「新規上場企業情報」というのがある。そこの掲示板ではあることないことが書かれており、無知と偽りと悪意に満ちている。付和雷同の象徴ともいうべき無残な場所で、かつてのバブル崩壊後『誰も彼もがよくわからない株に手を出して、損切りができず、大損をして、諸外国から一億総白痴といわれた』状況を髣髴させられる。

 そんな場所へたまたまぼくは出入りをした。初めのころ、ネガティブな意見群に対してポジティブな見解を述べた。三分の一が海外募集で、プリンターという時流に合ったエプソンの公募なら勝てると思ったからだ。すると、主幹事日興のまわし者かと反論された。礼節をわきまえない、とてもレベルの低い文言によってである。それに比べると、ガイアックスの書き込みはかなり節度ある快いものだ、とぼくは改めて思った。

 6月20日、ロンドンのグレーマーケットで『3.200円で取引されている』という情報が流れるやいなや、今度はネガティブな意見が極端に減り、公募株を取得できなかった恨み節が幹事証券へと向けられた。そして今日、取得できなかった向きが初値買いに走ったのである。

 評判どおりに午前9時より2.000万株以上の買い物を集めた。そして、およそ10時30分、買い気配を切り上げていたエプソン株はなんと1.090円高の3.690円で寄りついた。新規公開、エプソンの最初の株価である。これほどの大型案件において、予想をはるかにを超えたものだった。

 またロンドンでのグレーマーケットより490円も高かった。グレーマーケットはいわば裏取引であり、一般の投資家は出入りすることができない。ジョージ・ソロス級の人物かユダヤの金融機関のような存在くらいしか、ぼくには想像できない。金の世界はある意味で闇の世界だ。闇の世界の連中がまた数億円規模のお金をもうけた。日本のメガバンクが信じられないような損金を出していることに比べて、彼らがいかに卓越したマネーゲームを演じられるかがわかる。

 エプソンの上場は本日成功裏に終わった。東証一部の売買高の一割強の1.000億円を超える出来高がそれを物語っている。が、本日買った向きは全員が含み損を抱え込んだ。終値は安値引けの3.510円。明日からどうなるかは誰にもわからない。小心な人々は不安を抱えたまま夜をすごさなくてはならない。小額な資金でも、ひとによってはふところを痛めるほどの高額なものとなる。

 勇気は冷静に最初にふるうものであり、誰も彼もが気負いはじめたとき、それは勇気あるものではなく一蓮托生の烏合の衆だ。2.600円を否定し、3.690円で買う愚かしさ。何度、日本人は同じことを繰り返すのであろうか。とどのつまりは、ないものねだりの果ての愚の骨頂。どうかみなさん、株にはくれぐれもご用心。
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夏至の夜に
 民家の外灯一つない場所。梅雨空に月明かりはなく、まさに闇夜。標高1.000メートルの連峰の登山口。風は沈黙を守っているが、黒々とそびえる針葉樹林が肌寒さすら感じさせる。

 伝え聞いた場所へと足を運んでみた。懐中電灯の明かりだけが足元の頼りだ。どうにか舗装された道をガードレール沿いに歩いていく。梟の声ひとつしない沈黙が少々心もとないが、ホタルのいる場所を信じて歩みつづけた。

 水の流れる音が聞こえてきた。木々にかくれて見えないが、どうやらガードレールの下には沢があるようだ。やがて開けてきたところには山水の溜まり場があり、上からザザザ〜と滝のように流れ落ちてきていた。ここ数日の雨量がいまだ木々のあいだをぬって流れつづけており、それを受ける沢のいちばん広い場所では水かさが増していた。

 懐中電灯の明かりにばかり目をとられていたようだ。突如点灯しはじめたかに見える神々しいほどの光。闇夜のなかの神秘。夏至の夜。目映いほどに乱舞するホタルの群れ。上空を飛びかい、水面に反射し、道向かいの森の中まで一群をなしていた。

 神秘だった。全くのしじまのなかで、自然のともし火が自分の目の前を、自分のまわりを、自分の上空を、自分という人間が樹木と変わりないもののように飛び交っていた。それぞれに群れなすホタルは同時に点滅し、男と女が誘いあっているかにもある。

 人里離れた場所に恐れすら感じていた。しじまのなかに畏怖すら感じていた。観光マップにない場所、それを求めて北へ走りつづけた。伝え聞いた話は偽りではなかった。いわゆる『ホタル祭り』の季節の終わりがやってきたころ、近年見たどのホタルよりもまぶしく、生き生きとして、美しかった。

 目に焼きついた光景は、三脚を立て、どんなレンズを使おうと、カメラのレンズには収められない。沢からの強い自然の声がぼくにそう伝える。夏至の夜に、いつわりのようなすばらしいホタルの群れに遭遇できたこと、瞼を閉じればいつまでも余韻にひたっていることができる。
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昭和が明るかった頃 抜粋
 赤木圭一郎は詩を書き、カミュの『シーシュポスの神話』と倉田百三の『出家とその弟子』を好んで読んでいた。彼はその意味でも時代の子だった。ただ、アンジェイ・ワイダの『灰とダイヤモンド』には感動し、瓦礫とごみの中でみじめに死んでいったチブルスキーに強くひきつけられた。そして、あんな映画ならぜひ出たいものだ、と思った。

 1960年6月15日、赤木圭一郎はその代表作となる『霧笛が俺を呼んでいる』(監督・山崎徳次郎)の撮影中だった。彼はスポーツカーを運転して撮影所へ向かう途中、日米安保反対のデモ隊と行きあった。東大文学部学生樺美智子がデモ隊と警官隊のもみあう混乱のなかで死んだ日である。赤木圭一郎が、撮影所でもテレビで放映されつづけるデモのようすを熱心に眺めていたことを、その作品の共演者であった西村晃は記憶していた。

 1961年2月14日、赤木圭一郎は日活撮影所で昼休みにゴーカートを運転中に事故を起した。そのカートはブレーキとアクセルが逆についていたから、長門裕之たちは「あいつ、踏み間違えやがったぜ」と笑いあった。しかし、エンジン音はいっこうに衰えず、次の瞬間、どんという鈍い音が響いた。スピードを落とさぬまま、カートはスタジオの鉄扉に真っすぐぶつかったのである。走って引き返した宍戸錠が見たのは、気を失った赤木圭一郎の姿だった。その顔があまりに美しいままなので、当初は誰も頭蓋骨骨折などという大怪我だとは思わなかった。

 15歳の吉永小百合は21歳の赤木圭一郎が好きだったのだと思う。彼女はなかなか日活撮影所の空気になじめなかった。気まじめで優しく、またそれゆえに現代思潮の流行をまともに反映しがちな赤木圭一郎にだけは、似たもの同志のひそかな愛着を感じていたようである。
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Links 1
 ヒット数が20.000を超えそうである。そのほとんどが洋楽のMIDIのサイトで、よく増え続けているものだと感心する。おそらくぼくのところにより時間を割かれているのではないかと思ったりもする。

 トップはエンヤの2245hit、二番目がスティービー・ワンダーの1154hit、三番目が音楽検索専門館の814hit、以下Cinema Locandine、エルトン・ジョン、ビリージョエル、ビートルズと続く。てまひまかけたかいがあったというものである。
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59.99kg
 ズボンのウェストがゆるくなっていた。茶碗にご飯を盛る量が減っていた。今日ゴルフの後の湯上りに、久しぶりに体重計に乗ったら、60kgを切っていた。これはおよそ15年ぶりのことではないか。

 高校三年生のときが57kg。学生のころは、アパート暮らしであまりいい食い物にありつけなかったから、50kg前後をうろうろしていた。卒業してから徐々に体重は増えつづけ、それまでのピークを超えたのが20代の後半。ずっとぼくはやせっぽち青年だった。学生のころの絞ったジーンズのウェストは70。それが就職のときのスーツのサイズは73になり、結婚するときには76になっていた。

 体重のピークは10年前、夜、しょっちゅう遊びに出かけているときだった。やせっぽちだったぼくのおなかが少々出てきていた。スーツのサイズが合わなくなり、夏冬ともに何着か作り変えたものだった。ウェストは82、身長および年齢から別段太っているわけでもなかったが、やはりおへその上はみっともなくもなかった。

 現在ズボンのウェストのサイズは79、結婚当時のスーツまでは着られないが、捨てようとさえ思っていたかつての略礼服が着れるようになった。けっして健康を害しているわけではない。今日のゴルフのスコアは82でまずまずだった。健康を損なっていてこんなスコアが出るはずがない。

 夕食をとった後、これでまた60kgを超えたと思った。息子と本日二度目の風呂に入り、体重計に乗ったとき、また59.99kgのままだったのだ。そういえば先日、友人の奥さんに久しぶりに出会ったとき、「やせたね、顔が細くなったわ」といわれた。やせたのではなく、頬がこけたのではないかと思ってしまう。

 再来週、一日がかりの健康診断(人間ドック)がある。悪いところがなければいいのだが・・・・・。
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全米オープンゴルフトーナメント
 ゴルフ世界一を決める全米オープンゴルフがアメリカイリノイ州で開催されている。まもなく三日目、決勝ラウンドがはじまる。

 田中秀道選手を応援している。身長166センチ、当地ではジュニア・ハイスクールの低学年ほどの体型だ。先月男子ツアーに挑戦した女子プロゴルファー、アニカ・ソレンスタムと同じほどで、男子としては至極華奢だ。またすでに32歳だから、若いというほどでもない。が、彼の初々しい溌剌としたプレイは、アメリカのゴルフファンにとても評価されている。ときどき、女性たちに『キューティ』といわれることもある。少年のような凛々しい顔立ちをしているから、インタビューにすがすがしく応えるから。

 予選ラウンド、イーブンパーの27位で、決勝ラウンドに日本人としてただ一人進んだ。谷口選手のように、日本ツアー賞金ランキング一位として招待を受けたのではなく、5.000人以上が参加した予選を勝ち抜いてこのメジャートーナメントの出場資格を得た。

 言い訳ばかりして予選落ちをくりかえす丸山茂樹が、放映中のコマーシャルに何度も顔を出すのは滑稽だ。アリナミンのゴーカートに乗っている彼は勝者の顔だが、プレイしている彼は完全に敗者の姿だ。田中選手はミスしたときもうつむいては歩かない。けっして八つ当たりしないし、いつも足早で躍動感がある。

 15年あまり前の地元のゴルフ場でのこと。ぼくは彼を覚えている。まだプロになっていないときだった。そのゴルフ場で「三菱ギャラン・トーナメント」が開催されたころだった。

 「フックラインでいいのかな?」

 「はい、かなり切れます。とても速いですから、ソフトタッチで行かないとグリーンをこぼれてしまいますよ」

 すごい高速グリーンだった。なでるだけで10メートルほど転がって、どうにかカラーに止まった。

 「きみ、アルバイト?」

 「いえ、研修生です」

 「プロテスト受けるのかい?」

 「はい、そのつもりです」

 そして、その数ヵ月後、彼はそのゴルフ場からいなくなった。ぼくらの誰一人として、彼がプロゴルファーになっていたとは知らなかった。秀道という名前すら知らなかったのだ。それから田中秀道はめきめき頭角を現していくのだが、ぼくが再び彼を目の前で見たのは、3年後の11月初旬、国内賞金総額NO1のラーク・カップでの涙の初優勝のときだった。

 体力と気力勝負の決勝ラウンド、夜明けごろ、テレビに彼の勇士は現れる。がんばれ田中、ファイト リトル・タナカ!
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昭和が明るかった頃
 関川夏央著、文藝春秋社刊

 書店でのこと。あるハードカバーに「石原裕次郎がいて、吉永小百合がいた。そして日活という映画会社があった。戦後の『坂の上の雲』――昭和三十年代の物語」と帯に書いてあった。

 最初のページをめくると、「序章 吉永小百合という『物語』」となっていた。書き出しはこうである。長年、不思議に思っていることがある。それは吉永小百合の出る映画は、なぜつまらないかということである。1964年以後の三船敏郎と同じく、1970年以後の吉永小百合は、出演していると聞くだけでその映画の出来をあらかじめ疑わせる存在になっている。

 吉永小百合は1959年から2000年までに109本の映画に出ている。一貫してテレビには顔を見せず、舞台は敬遠し、1974年の結婚以来、ほぼ一年に一作のペースで映画に登場しつづけている。これが「最後の映画女優」といわれるゆえんらしい。

 なのに彼女の代表作といわれると、三船敏郎のようにたやすくはあげることができない。少なくとも強力な監督と結びついた作品群を連想しない。ただ、30年前、彼女が出演した「キューポラのある街」の名があがるにとどまる。あとは、1960年代前半の日活「純愛路線」映画――そのうちの15本は石坂洋次郎の小説に基づいている――をひとつひとつの作品としてではなく、まとまりとして思い出すだけである。ここに「大女優」吉永小百合の不思議さがある。


 ここまででこの本を衝動買いしてしまった。女優として、ぼくは夏目雅子のほうがずっと好きだ。オールドファンなら原節子がいいというようなものだ。が、まあそっちはおいといて、これは吉永小百合、石原裕次郎を中心とした日活映画に基づく昭和の歴史、けっして映画の本ではなく、映画ファンのために追懐の本でもない。数々の映画俳優、監督、作家とともに歩みつづけた昭和の歴史、それが吉永小百合が出演した映画をとりかこみながら描かれている。

 ぼくがこの本を一気に読んでしまったのは、青春の思い出にある数々の映画が興味深かったためでもあるが、なんと偶然にもわが母校の校歌が目に飛びこんできたからだ。もちろんその映画は「愛と死を見つめて」、吉永小百合ふんするミコが校歌を口ずさんでいたとき、ぼくはまだ小学生だった。あの映画を見たときの記憶では、ぼくには高校の校歌なんて存在していなかった。だから、この本を読んで初めて知った。母校でのこと、母の郷里のとなりのミコの実家のことなど、「愛と死を見つめて」は実に詳しく書いてある。ぼくが二階の窓から見た日、吉永小百合がミコのうちで一泊したことも。

 大島みち子は高校二年生のとき、頬に肉腫(癌)を発病した。闘病生活をへて同志社大学へ入学した。が、再発をし、入退院をくりかえす。病院で知りあったマコと恋におちる。そして、頬へのメス、女の顔の一部を切り取るというむごい手術。『愛と死をみつめて』は闘病生活を送る女性と、その女性をこよなく愛する青年との往復書簡だ。当時出版されるやいなベストセラーとなり、純愛物語として日本中を涙させた。

 が、ミコは命尽きるのを悟ったとき、「病院の外に健康な日を三日ください」と日記に書いている。一日目は『ふるさと』へ行き、二日目は『あなたのところへ』、三日目は『ひとりぼっちで思い出と遊びます』とある。日本中を純愛ブームにひたらせた『愛と死を見つめて』の記は,東京にいる恋人のためには一日分しか時間を割かなかった。

 そこで1969年に鉄道自殺した高野悦子が登場する。彼女は中学時代から日記をつけはじめ、当時その日記には『小百合さん』と名づけていた。『愛と死をみつめて』が公開された1964年には、彼女は高校一年生だった。

 1969年6月22日、慢性の不眠症に悩んでいた高野悦子は、睡眠薬を一粒ずつ口に運びながら、彼女もまた日記に『あなたと二日の休日をすごしたい』と書いた。一日目は酒場の路地で『あなた』を待ち、したたかに飲んで眠りたい。『あなた』とは特定の誰かのことではなく、虚構の男性である。二日目は喫茶店に入り、『煙草のかぼそい、むなしい煙のゆらめきを眺めながら』音楽を聞きたい。『その夜、再びあなたと安宿におちつこう。そして、静かに狂おしく、あなたの突起物から流れ出るどろどろの粘液を、私のあらゆる部分になすりつけよう』

 高野悦子は性を求めつつ性を嫌悪していた。そして、三日目の朝、『私は、原始の森にある湖をさがしにでかけよう』と書いた。

 このくだりをしるした二日後、6月24日未明、高野悦子は鉄道自殺した。1969年元旦から6月24日までの日記は、1971年『二十歳の原点』というタイトルで刊行され、120万部以上のベストセラーになった。

 大島みち子の死からわずか6年、ともに京都で学生生活を送った。美しく賢明な女性ではあったが、病死と自殺、純潔という虚構と性への苦しみ、高度成長期における6年という年月がどれほど青春という時代を変えていたことだろう。

 上記はほとんど 関川夏央氏からの引用である。なつかしのいろいろな映画を思い出しながら、今は亡き人々の表情を浮かべながら一夜をすごしてみるのもまた一興かと。
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Num Lock
 これのせいで2時間かかって書いたものが消えてしまいました。パスワードを入れたつもりが入れていなくて、エラーが出て、バックしたら全部消えていました。ガイアックスのばか! くたびれたので今夜はやめときます。
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Lucy In The Sky With Diamonds
 「アイ アム サム」を見ていた。原作を読んでいたので、映画のできばえについては可もなく不可もなくといったところ。

 少女のルーシーがとてもかわいい。場面場面でビートルズのいろいろな歌が流れてきて、折々に聴いている曲なのだけれど、なんだか郷愁を誘われてしまった。で、最後はハッピーエンド、これもまた楽し。
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ホタル
 風の強い夜は、ホタルは飛んでくれない。ひ弱い羽で風に抗って飛ぶことができないから。川草の中にじっと身をひそめて黙っている。ときおり草むらの間から光を放つことはあるけれど、それは灯ったり灯らなかったり。

 日曜日にはホタルを見にわざわざバスが七台も来たようだ。一般車両の駐車場スペースすらほとんどない場所へ、村の人々はとても驚いたという。そこは一応市内ではホタルの名所だが、群がるほどに生息しているわけではない。なにかの雑誌に載ったために、わざわざ遠方から見物人がやってくるようになったということだ。

 毎年ぼくは、混雑を避けてウィークデーに行くことにしている。車で30分、息子の夏の夜の楽しみの一つだ。混雑を避けているつもりでも、ホタルのピークにはそれなりにひとは集まってくる。遠方より来る老夫妻、母親をおんぶして歩く親孝行な中年の男性、腕をからませて歩くカップル、浴衣を着た子供たち、そしてぼくたちのような親子。みんなホタルが飛びかうのを楽しみに来ている。

 そのなかでカメラマン(写真愛好家)たいはとても傍若無人だ。明るいうちから繰り出して、三脚が立てられるいい場所を占領して、我が物顔で居座っている。夕闇が迫りようやくホタルがひとつ、ふたつと点灯はじめると、その近くへ「うわっ〜」と子供たちが駆け出していく。デジカメで若い男性が連れだってきた女性の写真を撮る。すると、「前を歩くな! ストロボをたくな!」と怒号がする。彼らはホタルを楽しむことより、シャッターを切ることのほうが大切なのだ。

 確かに人工の光線にはホタルは敏感に反応する。子供たちの掛け声がホタルを怖気さすのかもしれない。そのとおり、多くのホタルはシャットアウトしてある反対側の岸辺を飛んでいる。だから、カメラマンは焦っていた。イメージどおりに、思っていたままにシャッターが切れないから。で、ぼくは怒号がする只中で、ひょいとポケットに入れてきたデジカメで、息子の笑顔をそ知らぬ顔で撮ってやった。いい写真を撮りたいなら、深夜にでもやってくればいいことだ。

 少ないながら、やはりホタルの光にはえもいえぬ風情がある。昔、竹箒をもって追いかけたこと、金網の虫かごに川草をいっぱい詰めてホタルを飼ったこと、短い寿命だったけれど、束の間の夜を照らし出してくれたこと。メスの光よりもオスの光のほうがずっと明るい。なぜなんだろうといつも思った。今では、それは情熱のほとばしりじゃないかと思ってみたりする。

 おぼろ月夜、人々の顔は見えないけど、みんな束の間の季節、束の間の風情を楽しんでいる。年配のおばさんは、「こんなんじゃつまらない」といいながらもホタルが群れ行くさまを切望している。やけにカエルの鳴き声が甲高い夜だった。そう、あしたから梅雨入りだ。

 帰路、ハンドルを握り、アクセルを踏んだり緩めたり、ぼくは車内で数匹のホタルが飛びかうのを、去来する過去の出来事のように眺めていた。
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ガーデニング
 真夏のような太陽の下、名残を惜しみながら満開のビオラを引いた。三分の一を残して、まだまだ美しく咲き続けるであろう花を葬った。そして、汗が滴り落ちるほどの重労働のもと、土の準備を終えてから、前面にスィートアリッサムを三列、中間に矮性のフレンチマリーゴールドを三列、後方にジニアを四列、各々80本ずつ植えた。残っているビオラの三分の一面は、来週日々草とメランポディウムで形を作る。

 作業をしていると、道行く人たちが声をかけてくれる。あんなにきれいに咲いていたのに引いてしまったのか? 今度は何を植えているんですか? 出会ったことがないような人たちからの声である。彼らはたぶん、通るたびに見てくれている。そう思うと一日の汗が報われた気がした。

 プランターのほうは土作りに時間がかかる。限られた場所の中で植物が根を張りめぐらせていたから、殺菌し、中和し、肥料を施して再生してやらなくてはならない。とりわけペチュニアは連作障害が出るので、半分ほどは土を替えてやらなくてはならない。こちらのほうはまだ苗が成長途上なのでまだ十分余裕がある。

 すでにタキイとサカタからは秋の園芸カタログが届いている。やはり種子の種類はパンジーとビオラがいちばん多い。また新たな品種が生まれ、さらに鮮明で澄んだ色調がPRされている。季節は常に先取りで、駆け巡っていて、夏には来春、冬には来夏が準備されている。草花もファッションも共に似たようなものかもしれない。
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Petunia (ナス科)
 新品種「メルリン ブルーモーン」

 春花壇の女王が色爽やかなパンジーなら、夏花壇の女王は華麗なペチュニアだろう。世界中の花壇を華やかに彩る南米生まれのこの花が、ペチュニアと名づけられたのはちょうど200年前のこと。今年はペチュニア属200周年のメモリアルイヤーだ。丈夫で育てやすく、開花期が長く、花色もバラエティーに富んでいるペチュニアは、夏の花壇や窓辺を彩る夏の草花のうち、最もポピュラーで重要なものとして世界各地で栽培されている。

 属名はブラジル原住民の言葉、「ペチュン」に由来する。ペチュニアの葉をタバコの葉に混ぜて吸い、香りを長もちさせたといわれている。約30種が南米の熱帯から温帯に分布し、現地では一年草または多年草だが、園芸的には一年草として扱われる。熱帯、亜熱帯などのように最低気温が摂氏5度を下回らない環境下では、一年中栽培が可能である。

 人間にとって植物はさまざまな意味で大切なものだが、かつて17〜18世紀の欧州では、薬草として、また香辛料として特に重要な意味を持っていた。欧州列強が国力増強のためにしのぎを削って海外植民地を拡張させた理由の一つは、実は有用な植物を探し出す競争でもあった。海外探索と同時に欧州各国は自国の植物園を設立し、植物に精通した博物学者を優遇していた。

 ペチュニアの標本がパリ植物園に送られてから26年後の1793年になってようやく、進化論でも有名なラマルクが、Nicotiana axillaris とタバコ属に分類・命名した。そして、1803年にA・L・ジュシューが同じ標本を研究し直し、新たに Petunia nyctaginiflora と名づけ、ペチュニアの誕生となった。しかし、現在世界中の花壇を彩っている華麗な園芸種の育種が始まったのは、それから30年後、もうひとつの野生種である Petunia integrifolia が発見され、欧州に渡り、これら最初の野生種が交配される1834年のことだった。

 20世紀に入って1925年、横浜の坂田商会(現サカタのタネ)が種子から完全に八重咲きばかりが出る一代交配種(F1)を、初めて生み出した。これを改良した「ビクトリア・ミックス」は1934年に、前々年に発足したばかりのオール・アメリカン・セレクション(AAS)のコンテストで銀賞を受けた。そして、たちまちに世界中を席捲してしまった。第二次世界大戦までは、豪華な八重咲きが鉢植え用として人気があった。大戦後の1950年ごろまでは、ほとんどのものが固定品種であったが、その後、花壇向けの新品種育成に日本とアメリカの種苗会社がしのぎを削るようになった結果、たくさんの優れたF1品種が生み出された。F1種にはいくつかの特性があるが、一番重要な点は草丈がそろい、丈夫で栽培しやすい点である。そして、1960年代末には、ほとんどの固定品種が市場から姿を消してしまった。

 普通は春蒔き一年草として栽培する。が、暖地では秋蒔きにして霜よけの下で越冬させることができる半耐寒性である。花は気候のよいところでは、春から秋の霜が降りるまで咲く。育成適温は昼間28度、夜間16度とされ、秋から冬の短日期には、茎は伸びず、地ぎわで分岐するけれど花はつけない。春から高温長日の夏に向かって茎を立ち上がらせ、花をつける。

 栽培における用土は清潔なものを用い、腐葉土や堆肥を30パーセント加えるほか、有機肥料または緩効性の化成肥料を元肥として入れる。ペチュニアは肥料が好きで、肥切れすると花数が減り、灰色カビ病なども出やすい。特に吊鉢やプランターなどの土の量が限られている場合は、10日から15日おきに薄い液体肥料などを追肥として与えることが大切。

 乾燥には比較的強いが、排水不良や通気の悪さから根ぐされを起しやすいから、用土には注意を払い、潅水が過剰にならないようにする。また、立ち枯れ病など各種の土壌起因の病害が出る理由として、ナス科植物の連作がある。これはなるべく避けるようにする。トマト、ナス、ピーマンなどの野菜もナス科である。

 日当たりと通風のよい場所を好み、日陰では徒長して花つきが悪くなる。黄変した葉や咲き終わった花柄を摘んで、種子をつけさせないことも、多くの花を長く楽しむコツである。8月の高温期には株が疲れるので、伸びた枝先を半分くらいまで切りつめ、追肥してやると、秋風が吹きはじめるころから再び花をつけてくる。市販されているタバコについているウィルスからウィルス病に感染することがあるから、タバコを吸った手で作業しないように注意する。

 花言葉 「あなたがいると、わたしは安らぐ」

 現在では野生種のような、夜に香りがする品種は見つけることはできないが、この野生の香りが存在感となり、安心を導き、大丈夫と呼びかける花言葉となっているようである。

 1、Your presence smoothe me
 2、Don't lose me
 3、Don't despair
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徒然に
 今、仕事がとても忙しい。けっこう神経を使うので、最近とてもナーバスになっている。よくいらいらする。夕食をとって、風呂から上がるとどっと疲れが出てくる。

 肉体的にしんどいことはしていないのだが、肉体労働をしたときよりも疲れている。それは熟睡できていないことでよくわかる。朝起きたとき、疲れが残っていて、眠った気がしない。食欲も落ちているようである。

 気持ちを切り替えて、ナーバスにならないでおこうと思う。といって、瞬時に迫られる判断を何度も繰り返していると、そしてそれがミスジャッジの連発だったとき、どうにもこうにも自己嫌悪に陥り、次第に脈拍が速くなってくるのである。

 ぼくは自営業だからすべてが自己責任だ。誰に責任を転嫁することもできなければ、誰に助けてもらうこともできない。成功より失敗のほうが多いような気がする。ぼくはとても小心者だ。宵越しの負債を抱えて眠ることができない。でも、たぶん、それが幸いしてきたのだろうと、慰めるようにいつも思う。

 いつも危機感を抱いてきた。いつも最悪の事態を想定して対処してきた。よくよく考えれば、この四月〜五月は面倒なことが多かった。神経をすり減らすような取引が多かった。だから、この場所へあまり出入りができなかった。何とか今月をうまく乗り切って、物を書く時間を持ちたいものだ。

 子供は父親の背中を見て育つという。ぼくのせなはどんなふうに映ってきたのだろうか? あんまり自信がない。遠方へ遊びに連れて行ってやったことも少なければ、下の息子にはキャッチボールもしてやっていない。生活の心配はさせたことがないが、それだけで十分なのかどうか。もっとどっしりとかまえて、頼りある図太い親父でいてやれたならと思わぬでもない。でも、それは性格上かなわぬことだ。子供の成長を見守りながら、自分の役割が果たせていたのか、生涯の課題でもある。

 またあした、今日の続きが残っている。神経戦はほどほどにと思うのだが、自分勝手に決められることではない。悪い流れを、パターンを断ち切りたいと思う。首尾よく週末を迎えられれば、そろそろ復活したいと思う今宵である。
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フレッド・ブラッシー
 享年85歳、フレッド・ブラッシー氏が亡くなった。かの力道山、ジャイアント馬場と死闘を繰り広げたプロレスラー、「かみつき魔」が死んだ。額にかみつく反則で「吸血鬼」とも異名をとった。
 
 日本に数度にわたって来日。かみついて相手の顔面を鮮血に染める衝撃的な姿はテレビでも放映され、それを見た老人がショック死したこともあった。

 ヤフーのトップページから目にした上記のことは、十数年記憶の外に消えていた少年時代を思い出させてくれた。けんかしてかみつくやつは、みんな「ブラッシー」だった。プラッシーというドリンクもあったけれど。あのころぼくはプロレス中継が大好きだった。大学時代パチンコが大好きだったように。そして、現在はいずれも全然好きじゃない。
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掲示板
 概して Gaiax の掲示板(BBS)は、質が悪くない。ヤフーサイトの掲示板の内容を見ているとそのことがよくわかった。不特定多数が参加している掲示板の内容は、自分勝手なものが多く、人の気持ちなんて考えず、稚拙で乱雑な言葉で節度がない。

 ものぐさなぼくはほとんど書き込みに行かないため、みなさんにいただいたメッセージに返信をするだけなのだが、丁重な爽やかな親切な愉快な言葉をいただけることに至極感謝をしている。この場において、偽りのない気持ちを述べさせてもらう。ありがとうとごめんなさい。
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