線路道
 線路道を歩く光景、真っ先に想い浮かぶのは、やはり「スタンド・バイ・ミー」の少年四人組だ。少年期特異の友情と冒険の旅。

 ぼくも小学生の高学年のころ、よく線路道を歩いて目的地へ行った。ローカルの単線だったので、見晴らしがよく、汽車の音は風に乗って伝わってきた。バットとグラブを持って、田園地帯の外れにある、誰の所有とも知れない原っぱで、三角ベースのソフトボールをした。その原っぱは線路沿いにあって、汽車は一時間に1〜3回、上りと下りが往き来した。ぼくたちに手を振るのはたいていおばあさんだった。

 線路道は夏は暑く、線路の向こうには陽炎が浮かんでは消えた。冬は吹きすさぶ風が冷たく、それを遮ってくれるものは前を歩く友だちだけだった。

 線路道を歩いても誰も怒るひとはいなかった。汽車がどちらからやって来ても気づかないことは、ぼくたちにはありえないことだった。ぼくたちはすばしっこく鋭敏だった。あの原っぱまでおよそ2キロ、どこを歩くよりも近道だった。

 ある秋の日曜日には、弁当をリュックに入れて、北の終点まで歩いていった。ストリップショーがあるという、金毘羅さんのお祭りだった。担任の先生が「ストリップだけは見に行くな」といわなければ、ぼくたちは12キロの道程を歩かなかっただろう。へとへとになってたどり着いたとき、その未知のストリップショーの楽屋は怖いおっちゃんたちに囲まれていて、たんぼの中から遠く覗き見するしかなかった。ぼくを含めたそれぞれの四人が「あっ、見えた、見えた」といったけれど、ほんとうは誰も何も見えていなかった。

 三角ベースのソフトボールは、冬のほうがよくした。夏だとまわりに草が生い茂っていて、ファールを打つと、なんどもボール探しをしなくてはならなかったからだ。見つからないと、「アホ、ボケ」とすぐにけんかになった。あのころ、まだセイタカアワダチソウなる草は生えていなかった。

 ソフトボールの合間に、線路に一円玉をよく置いた。汽車がその上を走ると、一円玉はぺしゃんこになった。それをなんどもくりかえすと、うすっぺらい直径4センチほどの一円玉ができあがった。脱線のことなどぼくたちの意識になかった。まして、硬貨改造なる犯意などは皆無だった。ぼくたちには、バットでボールをジャストミートしたときの快音と、いたずらの歓びとが同居していた。

 近くの畑でイチゴ泥棒をして、お百姓さんに追いかけられたこと、柿木にのぼって片っ端から柿の実を落としたこと、イチジクの熟した大きな実をとろうとしてクマン蜂に追っかけられたこと、なつかしいことだらけだ。

 原っぱのすぐそばに枇杷の木が植わっていた。枇杷の花は初冬にひらく。大きい当たりを追って、バックしていくと、その黄色い花がよく見えた。汽車の煙が風に乗って、ぼくたちを包み、ぼくたちの上を流れた。

 レールに耳を当てていると、汽車が近づいてくるのがわかる。遠い遠い振動が徐々に徐々に近づいてくるのだ。青大将が一匹姿を現した。にらまれた友だちが身動きできずにいた。ぼくは足元にある大きな石を両手で持ち上げて、青大将の頭の上に落とした。線路の真ん中で、ぐしゃっという音がした。ふるえていた友だちが泣かず、ぼくが声をあげて泣いた。

 すでにあの線路道はない。17年前にJR西日本が廃線にして以来。あの原っぱもそれ以前になくなっている。ぼくたちが歩き、遊んだ線路道、それは「スタンド・バイ・ミ」のような冒険じゃない。でも、枇杷の花が咲くたびに思い出す。あんなふうに遊べることは二度とないだろう。けれど、心はいつも楽しんでいる。まんざら歳月は捨てたもんじゃない。