川の流れ
 川の流れを見ていると、膝頭がかくれるほどまで歩いていって、そこでじっとたたずんでいたいと思うことがある。ときどき自分の胸のうちをよぎるもの、忘れることができずにいるもの、そんなものを洗いざらい順送りに川の流れにゆだねたい。

 渡り鳥が心地よさそうにすいすい泳いでいるのを見ていると、こう思う。冷たさは生身の人間だけのもので、過去にある感情には冷たくも熱くもない。川辺に近づくと、鴨の群れがあわてて反対側の岸へと向かう。急いで進むものもいれば、羽ばたいて、宙を舞い、セスナ機が水面へ下りるときのように、滑って水しぶきをあげる。

 半歩前へ進み、つまさきが流れにふれる。そこで立ちどまって、手の平で流れに逆らう。せきとめられた水はわずかだがあふれ、セーターの袖を濡らす。靴を脱ごうかと考える。いや、ズボンが脱げないのだから、靴も履いたまま濡れていこうとする。

 冷たいが、感覚がなくなるほどの冷たさではない。快適とはいえないが、苦痛でもない。流れに逆らって立っていた。すると、膝頭を越えて川は流れ、大腿部のなかほどまで浸かってしまった。記憶を捨てるのに、流れに逆らってはいけない。背にしていた太陽のほうへ向きを変えた。まるで真夏に見るような眩しさだ。ひとつひとつの記憶を送っていると、眩暈のような感覚に襲われた。めくるめく太陽、あの空の下、海辺で出会ったひと。流れていった子供、失った命。そして、失ったあの人。

 太陽が五分の一ほど西へ移動するときまで、じっとしていた。一時間と十七分くらい。胸のうちがからっぽになったような気がした。すでに渡り鳥たちは、その人間を無視していた。股間をくぐりぬけ、からかっているようでもあった。が、きびすを返し、岸へもどろうと歩きはじめると、びっくりして、また水しぶきをあげた。

 川を出るとさすがに冷たかった。水の中にいるときにはなかった感覚が、ずぶぬれになったズボンから伝わってきた。唇がふるえ、芯から冷えていることを感じた。風がふくと、ひどく冷たかった。でも、背筋はしゃんとひきしまっていた。

 川の流れの逆を歩いている。流れのままに歩くと、流したものを拾ってしまうようで怖かった。背を向けて歩けば、二度ともどってこない。この冷たさは過去のものじゃない。からっぽになった心地よさだ。が、胸のうちはすぐに埋まる。きっと似たようなものが次々とやってきて、また川の流れに浸らねばならない。沈む夕陽を眺めながら、記憶とはそんなものだとかみしめていた。