幻想の街26
 あたし自身が我に返るのに、いったいどのくらいの時間がかかったのだろう。
 たぶんそんなに長い時間じゃなかったと思う。ふと見回すと、壁にかかった時計の針は夜の7時を回ったことを示していた。あたしの目の前にはぐったり横たわる人間が2人。互いに折り重なるようにソファに崩れ落ちていた。
  ―― 理性が飛んだのは満月のせいだと思いたかった。たぶん、半分以上はその通りだったんだろう。だから残りの半分未満も満月のせいだと思いたかったんだ。あたしはけっしてカズ先輩を食べることなんか望んでいなかったはずだから。
 もしもこの2人がまったくの他人同士だったら、今起こったことを夢だと信じさせるのは難しくないだろう。でも、2人が互いの記憶を照らし合わせてしまったら、非現実は一気に現実になってしまう。記憶を消すしかないんだ。美幸を頼ることができない今、あたしが2人の記憶を消さなきゃならない。
 人間の精神を操る力は、もともと吸血鬼が生まれながらにして持っている能力。それは人間がまばたきをするくらい自然なことのはずだった。今まであたしが力を使えなかったのは、人の記憶を消すことが悪いことだって、あたし自身が信じていたから。でも今の2人にとって、あたしの記憶は残っていてはいけない記憶なんだ。記憶を消してあげることしかこの2人を救える手段はない。
 眠っているカズ先輩に手を触れた。 ―― お願い、あたしのことをすべて忘れて。
 あたしと出会ったこと。あたしに惹かれた気持ち。あたしの顔も、仕草も、声も、言葉も。生徒会室で一緒に過ごした時間も、ミチル先輩と3人で歩いた帰り道も。今日、この部屋で、あたしに食べられたことも ――
 本当に消えてくれたのかどうかは判らなかった。でも確かめる手段がない以上は美幸に教えてもらったやり方を信じるしかない。同じように今度はミチル先輩に触れる。もう、2度とあなたの前には現われないから、すべてを忘れて幸せになって欲しい、って。
 あたしは忘れていた。美幸が引き止めてくれたのは、午後には帰っている予定の両親だけだったんだってことを。種の回収だけでこんなに時間をかけるつもりはなかったから、最後の1人が帰ってくる時刻までにはすべてを終わらせるつもりでいたんだ。
 再び玄関の扉が開いたとき、あたしの呼吸は止まっていた。
 靴を脱いで入ってくるその足音が近づくのに合わせて、あたしの心臓の動きも徐々に早くなっていった。