幻想の街27
 玄関からリビングに続く扉はカズ先輩によって開け放たれたままで、背を向けたあたしにも近づいてくる気配がはっきりと感じられた。小さく「ただいま。……誰もいないのか?」と声が聞こえて、ドアを入ったところで立ち止まる。あたしはその場に座り込んだまま動くことができなかった。だけどそのとき、信じられない言葉が背後から聞こえたんだ。
「……一二三、ちゃん……?」
 ぴんと張り詰めた空気に心臓が止まるかと思った。その懐かしい声の響きに耐えられなくてゆっくりと振り返ると、面に驚愕の表情を貼り付けたその人が立っていた。
 6年の年月を経て、高校3年生だった彼は大人の男の人になっていた。グレーのスーツにネクタイ。持っていた黒の書類かばんは足元に滑り落ちている。張り詰めた空気はあたしが振り返ったことで消えていた。目の前の人は、血管の浮き出た顔に少しの微笑を浮かべて大きく息を吐いたから。
「……まさか、そんなはずはない、よね。でも驚いたよ。……君は、もしかしてカズの自慢の彼女かな? だとしたら驚かせてすまなかったね。あんまりその、うしろ姿がオレの知ってる子に似ていたものだから」
 知らず知らずのうちにあたしは立ち上がっていた。 ―― 河合先輩はあたしを覚えていてくれた。それが信じられなくて、でも嬉しくて、あたしは少し涙ぐんでいたのだと思う。無言で近づいていくあたしに河合先輩は少し戸惑っていたみたいで ――
「気に障ったのなら謝るよ。オレもちょっと動揺しちゃってて。その子、実はもう何年も前に事故で死んじゃった子でね。君を見て一瞬彼女の幽霊じゃないかと思っちゃって。いや、顔はぜんぜん似てないんだよ。って、そんなことは君には関係ないことだったね、ごめん」
 焦ったように言い訳を重ねていた河合先輩の首に腕を絡ませた。 ―― 先輩、さっきあたし、あなたの弟を食べました。
「……あの、君、いったいなにを ―― 」
「……ありがとう、ございました」
「……え……?」
 おそらく昔のまま変わらないあたしの声に驚いたのだろう。先輩がそれ以上何も言わないように、あたしは先輩の唇をキスでふさいだ。