幻想の街28
 河合先輩、あたしのために苦しめてしまって、ごめんなさい。そして、あたしを覚えていてくれてありがとう。先輩はあたしを見分けてくれた。あたしの名前を呼んでくれた。この街の、どこにもいなかったはずのあたしを、先輩はずっと忘れずにいてくれた。
 先輩の存在であたしが救われたことに、先輩は一生気がつかないだろう。カズ先輩とのことで壊れかけたあたしの中の何かを、先輩は元の通りに作り直してくれたんだ。あたしはこれから先、ぜったいに人間を食料という存在としてのみ扱うことはない。信頼という絆を思い出させてくれたのは、あたしを覚えていてくれた河合先輩のあの呼びかけだったんだ、って。
  ―― 6年前、あたしはあなたが好きでした。気づいたときには終わっていて、ただ校庭のベンチで泣くことしかできなかったけれど、でもあのときの気持ちに嘘はなかったです。もしもあのときのまま月日が流れていたら、あたしは今でもあなたに恋をしていたかもしれません。だけど ――
 美幸、あたし、今すぐ美幸に会いたいよ。
 ずっと知ってたことだったけど、河合先輩にキスしてはっきり判った。今ではあたしの中で、河合先輩よりもずっとずっと美幸の存在の方が大きくなっていたんだ、ってこと。唇を離したあたしは、呆然と見返す河合先輩の目を見つめた。そして願う。河合先輩が、今の出来事をすべて忘れてくれることを。
 その場に倒れかけた先輩を抱えてソファに横たえた。そして、今度こそ先輩たちの家をあとにする。ギリギリ人間に許された速度で走るのももどかしかった。駅の階段を駆け上がって、改札を抜けて、いらいらしながら待ってようやく到着した電車に飛び乗る。
 ポケットの中にはミチル先輩から回収した大河の種。握り締めながらさっきまでの時間を振り返った。あたしの初めての力がうまく作用したかどうか、それは判らない。でもみんなには本当に迷惑をかけてしまったんだ。今のあたしにできるのは、これから先の先輩たちが普通の幸せを掴んでくれるのを祈ることだけだった。
 電車を降りて必死でアパートまでの道を走り続ける。廊下を抜けて、その扉を開けた瞬間、あたしを迎えたのは最近ようやく見慣れてきたあの部屋なんかじゃなかった。頭の中が真っ白になった。知らず知らずのうちにその場に崩れ落ちる。
 部屋の中に美幸の姿はなかった。その代わり、おびただしい量の真っ赤な血が、部屋中いたるところに飛び散っていたんだ。