家庭の幸福
 一人暮らしもまたにはいいものである、と思っていた。この三日間、自分の意思だけで自由に生きた。食事を作るのも風呂を入れるのも面倒だったから、友人を誘って、三日連続でゴルフをした。家には寝に帰るだけ、朝食は近所のホテルのモーニングで済まし、昼食と夕食をゴルフ場のレストランですませた。もちろん、ゴルフ場の豪奢な風呂の湯にのんびり浸かって、命の洗濯をしたつもりだった。

 が、体力の限界が来た。先ほど駅まで家族を迎えに行って戻ってきたら、目の前がくらくらした。足元がよたよたした。三日目の本日、雨のせいもあったけれど、スコアは最悪だった。三日間で約30キロ歩いた。三日間で素振りも加えると、300スィングほどした。

 三日間、全く女っけがなかった。情緒あるときもなかった。叙情を感じる数分すらなかった。考えてみれば、浮世を忘却していただけで、体を痛めるだけいためていた。家では寝間で探偵小説ばかり読んでいた。あまり優雅な暮らしとはいいがたい気がする。考え方を変えれば、かみさんに逃げられたチョンガーの暮らしをしていたともいえる。ふとんは敷きっぱなし、パジャマはそばでくしゃくしゃ、肌着はビニール袋に入れたままである。

 「おとうさん、しんどそうやな。風邪でもひいたんとちがうか?」と息子がいう。「うんにゃ、眠たいだけや。京都、楽しかったか?」「おとうさんもいっしょに行ったらよかったのに・・・」

 と、また普段のように家族の風が戻ってきた。パジャマはたたまれ、ビニール袋のものが洗濯機へ放りこまれる。あしたからはまた多忙な日々がはじまる。疲れている間なんかありはしない。家族との暮らしが身にしみついている。よすががあってこそ、すさんだ暮らしから逃れることができる。ちょっとしたことにも叙情を抱き、人々との交流での機微がある。

 太宰治はいった。「家庭の幸福は諸悪の根源」と。その意味が分かるような気がする。彼自身の生き様を鑑みて言葉のとおりとするか、その逆説の当たりまえのものとするか・・・。ある意味、家庭の幸福は、一家族のエゴの上に成り立っているといえなくもないのだが・・・。