女心と秋の空
 青春期からこの言葉をよく聞かされた。そして、美しい秋の空を見たときに自分もその言葉を使うようになった。かの女性(ひと)のこころは、秋の空のように美しくも移ろいやすいもの、長いあいだそう捉えていた。

 今日新聞で、十九世紀半ばの詩人、ボードレールの「即興話」の冒頭の二行を読んだ。表題の言葉は、ボードレールのこの詩によって、爾来一世紀半、世界のあちこちで言い伝えられてきたのではないかと思った。海を渡ってこのような日本語になったのではないかと。だが、ボードレールの詩の真意は、巷でのような女心を揶揄したものではない。

 あなたは 秋の美しい空、澄んだ、薔薇色の、
 しかし、悲しみはわが胸に、海のように溢れてくる

 「即興話」は、文芸評論家、饗庭孝男氏の言葉を借りれば、恋人であった若い女優、マリー・ドブランに捧げたもののひとつといわれている。最初の一行は女の美しさを秋の空の風景にたとえ、詩人は、強く惹きつけられた女性の印象を、繊細な言葉でとらえている。しかし、夢見る度合いが強ければ強いほど、女性の官能と現実的性格に翻弄される。そこに悲しみが生じ、二行目は、パステル画のような優しい秋の空とはうらはらに、そこから始まった愛の残酷な実体を物語る。

 評論家の言葉を続ける。「おお 美よ、魂の過酷な災厄!」 としめくくる最終章に至るまで、詩人の存在は火のような眼差しと惑わしの官能の仕草に打ちひしがれ、魂は焼きつくされるに至る。したがって、一行目と二行目の間には「深淵」がある。夢想と現実の落差なのだ。

 シャルル・ボードレールは1867年に没すまで、女性を讃えながら、その快楽に支配された。愛憎のきわまったところ、男の心はさまよい、女の美しさを夢見ることと、愛を生きることの困難との間をゆききした。後年、マルセル・プルーストは、人生は、このように生きるよりは夢見ているほうがよいと語っている。

 で、いまここに一行目のような女性が現れたなら、自分はどうなるだろうかと問いかけてみる。官能のささやきを拒絶することができるだろうかと。うっとりと麗しの女性に魅入られたとき、何もかもをなげうって、その快楽に酔いつくすのではないだろうか。そして、きっと深みにはまり、愛憎の苦しみにのたうちまわる。死なんかとさえもだえるだろう。

 「女心と秋の空」、こんなやっかみともジョークともとれない、他愛ない言葉を発しながら、いみじくもプルーストがいったように、人生は、永遠に夢見ていることのほうが仕合せなのだろう、たぶん。