秋の日の
 秋が深まってきた。朝夕の気温は冷え込み、ときおり暖をとるようになってきた。空の色は透明感を増し、夜空の星々がいっそうきらめいている。いつも歩くウォーキングロードからは、市の清掃作業によりセイタカアワダチソウやススキの姿が消えた。後は並木の落葉を待つばかりである。ツバメの巣は空家となり、川には渡り鳥がちらほらと見えるようになった。

 11月の雨は冷たい。梅雨の長雨よりもずっと精神的に暗い影を投げかける。先の日曜日からの三日連続の雨にはうんざりした。傘を差して自転車を運転していたおばさんが、突如よろよろと道路の真ん中へ寄ってきて、後ろから走っていたぼくのアリストは、彼女をかわそうとして路上駐車していたワゴン車に激突した。道路幅が狭かったので駐車違反には違いないが、ぼくの100%責任の物損事故である。

 雨が降っていなければ車に乗らずに歩いていた。よろけたおばさんは何食わぬ顔で走り去るし、ぶつけられたワゴン車の主は警察に違反切符を切られることなく、もとよりへこんでいた後部を無償で取り替えてもらえることとなった。ふんだりけったりのおとといの月曜日だった。

 菜園では実りの秋である。来年三月半ばまで新鮮な野菜を供してくれる。白菜、大根、キャベツ、ブロッコリー、人参、サニーレタス、春菊、パセリ、細ネギ、バジル・・・。いまだピーマンだけが赤と緑の二色の実を湛えている。赤ピーマンのカラフルな味わいをベストに食することができるラストシーズンだ。残された柿は、そろそろ腐った果実となりつつある。

 九月の猛暑のおかげで例年になくスミレ科の花の生育が悪い。発芽したものの、移植したものの、高温のため枯死したものが多く、花壇のほうは三分の一しか春の準備ができていない。マリーゴールドとインパチェンスが、いつになく長く咲き存えてくれているが、それもあと二週間がせいぜいだろう。今年だけは苗の足りず分をホームセンターの世話にならなくてはならないかもしれない。

 秋の日はつるべ落とし、星見ヶ原の丘から流れる「家路」のメロディーと共に夜のとばりが下りはじめる。冬至までまだ一ヶ月以上あるというのに・・・。今日は疲れた。長く自転車に乗らなかったので、自転車の調子も僕自身のバランスも悪かった。片手運転がうまくできたので、調子に乗って両手を離したとき、あわやバスに激突しそうになった。ぼくにチャリとウォークマンは似合わない。

 修理したアリストよりモデルチェンジしたメルセデスが欲しい。でも、メルセデスが買えたとして、成金趣味のようで似合わないのではないかとも思う。黒のアリストを買ったとき、友人たちはぼくを中年暴走族と揶揄した。アリストは修理のついでに五年目の車検を受けている。五年間でスピード違反は二回、クレスタに乗っていたときより違反回数も減点数も罰金額も信じられないような減少ぶりだ。

 車がない秋の夕暮れは憂鬱だ。寒くて、侘しくて、自由が利かない。「ちょっとそこまで」という嘘八百を何度口にしたことだろう。夜のネオンが遠くなった。星空は夜のネオンと共にありき、ベルレーヌの「落葉」をひとり思い浮かべているようでは、ヴィオロンの ためいきの 身にしみて ひたぶるに うら悲しである。