覚醒の森19
 できることなら、僕たちのことは忘れて欲しい。僕たちのためにも、この名前も知らない女の子のためにも。
 夜が明けるまでにしなければならないことは多かった。僕は女の子を担ぎ上げて、小屋が見えなくなる程度には離れた場所まで行って、無常にもその場に放り出した。歩きながら僕はずっと思っていた。ミクがすべてを忘れてしまったように、彼女も僕たちのことを忘れてくれればいいのに、って。
 それから取って返してミクの手錠にかかった。ミクの足首の隙間から両手の指を差し込んで左右に引っ張る。食事を終えた直後の今が、僕の力が1番充実しているときだ。それなのに、何度やっても手錠は壊れてくれなかった。
 ミクが床に文字を書く。「もういいよ」「あきらめて」「あたしこのままでいいから」
「ダメだよ。ミクは僕が必ず家族のところへ送り届けるんだ。こんな手錠、ぜったいはずせる」
 このままここにミクを置いておけば、ミクはあの子を探している捜索隊の人が見つけてくれるかもしれない。本当はそれでもよかったんだ。あの子をここへ置いたままにしておけば、あの子と一緒にミクも見つけてもらえた。僕が今ここで手錠をはずすことなんてほんとは何の意味もない。
 だけど、僕はミクを助けなければならないんだ。僕がミクを助けなければ。
  ―― ……大河はそう言うけど、数学や物理は意外と日常生活に役立つんだよ。たとえば ――
 とつぜん、僕の頭の中で声が聞こえた。僕の失われた記憶の中にある声。
『 ―― 右手で30キロ、左手で30キロの力が出せるとして、ロープの両端を持って左右に引っ張ったときにロープにかかる力は何キロになると思う?』
『簡単だよそんなの。30キロプラス30キロで合計60キロだろ?』
『ちがうよ。両手で逆方向に引っ張っても力は合計されないんだ。片方の力は壁と同じで、実際ロープには30キロの力しかかかってない。だから、もしもロープに60キロの力をかけたいなら、ロープの片方を柱かなんかに結んで、反対側を両手で持って引っ張るの。そうすれば同じ力で引いても2倍の力をかけられるんだから ―― 』
 今ここでその記憶を思い出せたことを、僕はすべてのものに感謝したい気分だった。今彼女の、一二三の言葉を思い出せたことを。