覚醒の森24
 アウトドアショップで買ったテントと寝袋に、ミクは一言も文句を言わなかった。夜になると僕は街でエンコー相手を探して、翌日の午前中いっぱいは眠って過ごす。午後にテントへ戻るとミクが食事を用意して待っていてくれる。そのあとあたりが暗くなるまでが、僕とミクとが2人で過ごす時間だった。
 長い間声を出さずにいたミクは、最初の頃こそかすれた声しか出なかったけれど、数日後には子供らしいかわいい声でしゃべるようになった。筆談をしなくなってもミクは僕の左手を離さなかった。傍らに寄り添って、僕の手をなでながらミクは僕に話した。
「 ―― 初めて見た時にね、大河のこと、王子様だと思ったの。ミクのことを悪い人から助けてくれる王子様。かっこよくて、強くて」
 あの日忘れてしまった記憶を、ミクはほとんど思い出していた。おそらく自分の名前や住所、さらわれた経緯なんかも思い出しているのだろう。僕が尋ねてもいつもうまくはぐらかされてしまうのだけど。
「そんなんじゃないよ僕は。あの時は別にミクを助けようとした訳じゃない。ただ人間の血が欲しかっただけだ」
「わかってるもん。あたしがそう思っていたいだけ。大河はね、ミクにとっては本物の王子様なの。だけどミクはお姫様じゃないから、大河のそばにいられるだけでいい。大河のこと、いつも見ていられるだけで幸せなの」
 声を取り戻したミクは明るかった。毎日のように誰かのベッドで過ごす僕を見て、自分にも家畜以外の付加価値が必要だと考えたのかもしれない。満月がくればミクはおとなしく僕に血を提供した。逃げる心配のないミクの血を吸うことに慣れてきた僕は、吸血にある程度の時間をかけてミクの負担を軽くすることも覚えていた。
 その年の夏が終わった頃、僕は決断を迫られていた。今まで僕はずっと寒い地域を目指して日本海側を移動してきたのだけど、テントのミクを雪の中に放り出す訳にはいかないから、太平洋側の雪が降らない地域で冬を越すことにしたんだ。自分が飼う家畜にとって過ごしやすい環境を整えるのは、飼い主である僕の役目だった。もしかしたらそれを言い訳にしていただけかもしれない。
 来た道を戻る訳じゃなかったけれど、再び僕は近づきつつあった。ルイと過ごしたあの街へ。そして、一二三が住んでいるはずの、あの深い森がある場所へ。
 ミクを飼い始めてから、いつの間にか3年近い年月が経とうとしていた。