2006年06月の記事


喜んでよいのかどうか複雑な話
29日付の英サン紙が珍プレーを対象にした“W杯演技賞”を発表し、中田を「彼は日本が武道だけでなく、演技もできることを証明した」として最優秀外国人賞に選んだ。

私もローマで体験したが、日本人の日本人らしい人間を見ると、彼らは「さむらい」「やまとだましい」「はらきり」「みふね」などと声を掛ける。

紋付羽織はかまの男数人と振袖、訪問着、留袖の女性十余人がバチカンを歩けば出る言葉ではある。

日本人はちょんまげを結っていると思う外国人が今もいる時代。

中田の見方も正当なプレーヤーとしてみての評価なのか理解に苦しむ。

チームは予選敗退なのだから、中田は嬉しくないだろう。
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子供は強い
猛暑で大人がげんなりしているのに、午後ピアノが休みの孫娘は弟とよく遊ぶ。

私も加わり、サッカー、バスケットボール他1を加えてボール遊び。

我が家の二棟の間に幅2間奥行き6間ほどのタイル貼り空間がある。

4時ごろになると陽光は差さない日陰になる。ここで蹴る、パスとドリブル遊び。

特に、高校時代バスケット部に席をおいた私。パスとドリブルは普通の人より上手い。そのコツを姉に。蹴ることとキャッチすることを弟に教える。

風が通り35度騒動は無縁の空間だ。一汗かいて、風呂へ。コップ一杯のビールののど越しはすこぶる美味い。
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昨日と違う風景
自分だけ日傘さして。孫は真っ赤な顔に汗びっしょり。

ランドセルは家まで自分でそのまま背負って帰りなさい。と言うらしい。

途中で私を見ると、ランドセルおろし、私に渡し、ほっとため息を付く。

首から背まで汗。ランドセル受け取ると汗が紐を流れる。タオルで顔と背中を拭く。

甘やかすと娘。否、愛情だと私。35度の猛暑頑張って歩いて帰った孫を迎え方がこれほど違う。

運動、山登り、特別体力を使うと過呼吸症候群で倒れた娘。

それよりは孫娘の方がしっかりしている。すぐにシャワーで汗を流させたい私。

氷菓子を一口与えるとピアノの稽古。実の親の非情をそのまま受けている。血は恐ろしい。
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孫娘の下校時
今日で二日娘が迎えに出る。どうにかその気になったのか。

自分で帰る放任主義の無責任を説いて、手本を示したのが理解できての行為だと嬉しいが。

ぬか喜びは早いかもしれない。孫も母親に迎えられるのか嬉しいのだ。手をつないで帰る姿は美しく見えた。
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悲しい奈良の事件
継母と二人の弟妹を焼死させた高一の男子。常々父親からスパルタ教育。

テストの結果を偽っていて、真実の分かるのを恐れた。

理由如何に拘らず、とっさに行動するこれが現代っ子共通の危険因子。

母親不在の長男にこそ最も気を使う必要があるのを暴力で勉強を教えることは親のエゴでしかない。

悲劇は親がシナリオを書いたようなもの。同情は加害者の息子に集まっているようだ。

切れやすい子供の心理は社会問題でもある。
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ものの無い、金も無い
戦後復興の途にあった日本。そんな時代に私の青春はあった。

中学時代、数学の参考書が欲しくて、欲しくて、買ってもらうのに1年半かかった。

英語は兄のお古で、ぼろぼろになるまで赤線が重複だった。紙も今の新聞紙程度の本が主流だった。

英語の辞書は左手で引く指の跡がへこんだ私流の愛用品。田舎の中学から名門高校だから、辞書の引く単語ばかりだった。

有難いことに、兄を教えた英語教師だったから、毎時間何ページかを代読させられた。先生は目を瞑って聞いているだけ。

従って、予習をしておかないと恥をかく。結果とし語学力は向上した。2年には3年生と同時の受験のための模擬試験で上級生より上のベストテンの常連となった。

反対に家庭では、勉強しろと言われたことも無く、父の手伝いが主だった。子供が皆よい成績をとると、うれしい筈だが、我が家では頭痛の種だった気がする。

食べることが大変な時代だった。農地改革で、地主だった我が家はすっはだかにされた。

短期政権の社会党の片山内閣のとき。社会党は嫌いだった。最近聞くとただ同然に渡した小作人への田んぼは売り払われていて、耕作している人が少ないと聞いた。

いつの時代も政治が間違うと国民が苦労する。末代までそれが影響する。

村内の農地は耕作する意思があれば2町歩まで残せたが、村外の小作にだけ良い思いをさせられないと、全部同じように、ただ同然で下げ渡したのだあった。

父のお人よしと呼ばれる所以である。それを最も受け継いでいるのが兄弟の中の私だそうだ。

農地だけが対象で、他の土地や山林には適用されない偏った施策だった。

解放後も、馬車に米俵を積んできてくれた小作さんもいた。

特権階級をなくする、ある意味では格差社会を改善する策だったのかもしれない。

最近の日本でもそれに似た何かをしなければならないときが来つつあるのだろうか。

低金利政策の旗頭が、自分だけ特殊投資で莫大な利益を上げているのは頂けない話だ。
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どこかで書いた
門限の話。法的にも正式な娘となった高校時代から、生活を一緒にすることになった。

門限9時は当時でも厳しすぎることだった。承知で設定した。交通の便のよい駅の近くなのだが、バスで二区。

どこかへ出かけて帰る時刻はバス停へ出て待った。すぐ近くに大きな公園があり、そこには浮浪者がテントや小屋を作って住んでいた。

油断のならない地域ではあったが、女の子が夜、9時過ぎに出歩くことの理解は私にはできなかった。

それは大学、社会人になっても9時だった。友人たちはそれを知っていて、「T子門限だよ」と返してくれたようだ。

私の学生時代もガールフレンドは何人かいたが、夜のデートは9時に自宅へ送り届けるのが常だった。

良家の子女はそうだと思い込んでいたし、そんな家庭の人が多かった。

今の渋谷の子達を見ると、別世界の子供たちかと疑うばかりだ。ダンスも本格的にたしなんだから、東京の各地のダンスホールもむ一通り出かけた。

真面目な女友達を誘うときは門限を厳守した。大手食品メーカーの社長令嬢と夏期講習会で友達となった。

ソシアルダンスはホールとは別の種類のものだったから、皆、行く機会が無いだけに行ってみたい誘惑に駆られる。

彼女に頼まれて、渋谷のあるホールへ出かけた。丸ビルのOLさんだったから、会社が引けて出かけるといい時間になった。

実質踊る時間は2時間も無かった。9時に家の近くまで送り届けた。それを知った父親は私の先輩でもあったからか、W大の学生は偉い。

今度休みに家へつれて来なさいということになった。ダンスも許してもらえなかったのだが、相手が気に入って、ダンスも許してもらえたそうだ。

近いうちにと言いながら、当時は縛られるのが否で、失礼してしまった。素直な素敵なお嬢さんだった。

タンゴが好きで、懸命に勉強していた。今アルゼンチンのバンドと共に来る。官能的な変なタンゴではない。真面目なステップだった。

友人の従姉妹でNTTに勤める子が私の相手だったから、それもあって前記の彼女には距離を置いた。

娘の門限が私の青春時代へタイムスリップしたところで、ひとまず休憩とします。
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孫のように育てた娘
それが今の娘。養女などとは決して思っていない。

結婚前までの温和な人格は豹変した。周囲からは素晴らしいお嬢さんと褒められて鼻の下を伸ばしていた私である。

血縁の家内が、寧ろ、常に覚めた目で見ていた。現代っ子の代表なのだろうか。中学時代はいじめられっ子の友人を迎えに行って学校へ。

芯の強さを感じて、褒めてやっていた。巻き添えを食って自分もいじめられそうになっていたようだ。

そんな時、必ず言った「私が学校へ行って、そいつらを全部ぶっ飛ばす」内心はそれが頼りになっていたようだ。

夕方、毎日の電話で、日常、学校のこと、両親のことすべてが話題であった。

忘れると、甥が「じいじに電話したのか」と習慣つけたのは彼だった。

自分の短命を知っていたかのように今では思われる。日本のblogや簡単HPは秘密性が重要視されて拡大した。

殆どが、本名、住所他を伏せてある。他を訪問して、Profileがなく、Diaryがなく、ましてBBSのないサイトは一度だけで次に訪問しないことにしている。

架空の話、架空の誤魔化しは嫌いだからだ。本名と重要な情報を開放すると、受ける迷惑もあるらしいから、皆、隠すのだろう。

ここで、あえて娘の養女の話を書くほうが常識破りなのかも知れない。
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私を尊敬し、自慢をして
友人、知人を私の元へ連れてくるのが何より楽しみの甥だった。

父、祖父両方に似て男前だった。女優N.Y.さん曰く、ルーツが同じなようだ。

自分の寿命を知っていたかのように、娘を私に近づけようとした。だから一層親密になる。

結婚式も相手を選ぶのも全てわれわれが親代わりで行った。嫁と向こうの縁者は全て私と家内を「お父さん」「お母さん」と呼んだ。

勤めをする傍ら、私の事業の支店のような仕事を住んでいる地で行わせ、通勤の車もこちらで買い与えた。

車部品の勤めだからか、運転は上手かった。あるとき、自動二輪に乗りたいと言い出して、友人と京都へドライブへ出かけた、そこで軽い事故に会い、それ以来、二度と単車に乗ることを口にしなくなった。

二件向こう隣の喫茶店には、彼の客用のチケットを置いていて、帰りに友人たちは「ご馳走様でした」と挨拶して帰るのが常だった。

嫁は朝こちらへ甥が送ってきて、仕事帰りに寄って連れ帰る生活。子供が出来てからもそれが続いた。

それが今の娘で、われわれを「じいじ」「ばあば」と呼ばせていたから、当時40代で爺婆になったようなものだった。

今度の孫たちは曾孫のようなもので、人様より一回り早い世代交代なのかも知れない。
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おうた子に教えられ
苦労もし、好きなこともして42才の若さで他界した甥だが、お人好しの代表格であった。

この地の大手土木の社長の孫に生まれ、寵愛を受けた幼年期に比べて、父親との縁の薄さは彼を薄幸にした。

本人には罪のないことであり、運命としか言い切れない。母親と男の子二人が亭主のいない旦那の里で生活した。

生活は出来ても、子供の学費までは女の稼ぎでは無理であった。中学を出ると地元の車の部品会社へ就職した。

弟が卒業を目前に、父の妹がこの家を継いで、老人の叔母と彼ら親子の面倒を見ていた。

その前の年まで、彼女の父親、母親はその前年まで生存したのだが、父は10年、母は5年脳卒中と癌でそれぞれ闘病生活の末亡くなったのである。

友人の紹介で彼女と会ったのがその前年、父親が亡くなっていた。市中走っていた市電、電話会社の工事などを主な仕事とした土木専門の会社であった。

全国で名をはせて、政界の大物K代議士の後ろ楯的人物だった。

結婚して間もなく、事業の何割かは残されていて、遠縁に当たる番頭格の人物が会社を私物化していた。

他所に住んでいる兄は業界のことに詳しいから、戻って私と事業を継続しようと誘ったのだが、予科練で死なずに帰国した負い目で、生活がすさんでいたのと、その男に戻らないように仕向けられて、立て直すことをしなかった。

長年反映した、その会社も廃業となった。別業種のサラリーマンだった私だが、中卒の次男に高校進学を勧めて、私が学校を卒業させようと試みた。

弟が曰く、「兄ちゃんが就職したから、僕だけ進学するのは気が引ける」「僕は勉強が好きでないから」と言う。

自分が苦学した私だったので、何とか助けて進学させたかった。彼の意思は固かった。

話は戻るが、42才で他界の甥の最後は、私に強烈なパンチを与えていた。

典型的な、東京生活の長かった私は、どちらかと言うと人嫌い、仕事以外の人間関係を疎ましいとまで思っていた。

葬儀に詰め掛けた大勢の人、男の涙、友情を見せ付けられ、50代半ばの人生に影響した。

人が良いことを戒められ、競争社会に勝ち抜くことに意義を感じていたから、価値観の大変換であった。

少年期まで持っていて、閉ざしていた自由奔放の人間交流が戻ってきた。相手に関係なく両手を広げ、他人を受け入れる。

還暦を迎えるとそれが一層助長された。国境の壁を越えて、台湾、韓国との交流に広がった。

その目覚めは全て、甥の最期の葬儀からであった。その人の生涯の答えは死ぬときにあると誰かが言った。それを身をもって感じたからだった。
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最近気がつく娘の暴言
孫たちが言うことを聞かないと、とんでもない荒い言葉で罵り、叱る。時には手が出る。

同居してからは、二人とも叱られるとこちらへ逃げてくる。いい加減にせよと注意すると、婿までが、「叱って、叱られ強くする方が子供には良いので・・」と言う。

私がいると、同情を引くためになくのだという。最後は「私はこんなに大声を出したか」「手を出しことがあるか」というと、それで一段落になる。

名古屋に住んでいた昔、隣家のお嫁さんが子供を折檻する声が聞こえて有名だったのを思い出す。

「どうして泣くの」バシッツ!「泣くな」「泣くと許さない」とまた叩く。
これは狂気の女性だと思った。叩かねば泣かないものをと不思議がった。

我が家に甥の嫁が事業の会計の仕事で通わせていたから、良い部分だけを見ていたが、きっと娘に暴力、暴言を使っていたのかもしれない。

親から暴行を受けた子は自分の子供へ暴力を振るうと聞いた。

あるとき出入りの電気屋が「旦那さんに聞いていられない荒い言葉ですね」と甥の家のことを告げたことがある。

いい人が出来て、何ヶ月か長崎の地へ行って帰らなかったことがある。

妻子を捨てて何をしていると叱ったが、居場所のない家庭から逃避したのかもしれない。

長男でありながら家を捨て、別所帯を持った家内の兄。そのこがこの甥である。親子同じことをするのかと理解に苦しんだ。

名古屋へ戻り、私の知人に就職を頼み生活が安定した。よく働くし、生まれが良いから人から信頼される好人物だった。

娘を我が家の養女にするのも、娘の将来の幸せと本家の子供がいないために、涙を飲んで別れたのだと思う。

落ち着くと次に女性が出来る。女性が放って置かないタイプなのだ。

仕事も休み、ボーナス全部を女につぎ込んで、職場までなくしてしまう。知人と言っても私の義父が面倒を見た連中ばかりだから、私が頭を下げれば無事収まる。

そのときは、本人かどうしても止めたいというから詳しく聞くと、遠縁であったから、仲間のことを身内なのだから、逐一報告しろとスパイ行為をさせようとした。

それを聞いて彼を引き止めてもらうことを中止した。男の場合、今で言う、「ちくり」はしたくない、出来ないからだ。

タクシー会社に移籍。信用を得た。M新聞のトップまで上り詰めた人が、事件記者時代世話になったと今でも連絡が来る。

滅多に人を信じることの出来ない夫がこの甥だけは信頼したと言うことが、奥さんからの長い手紙で知った。

過労が祟ったか、42才の厄年に大動脈破裂で他界した。

大勢の人を使って、多忙な仕事をしていた私だが、彼のように純情に生きたことがどんなことか知らされる時が来た。

自宅での通夜と式場の葬儀だったが、東京から、新幹線で別れに来る人、九州、四国から飛行機で来る人、地元の人も含めて、相撲さんまでが、男泣きに泣いて分かれてくれた。

皆異口同音に「こんな素敵な人物はなかった」とひれ伏して泣かれた。

人の真価とは死んだときに分かると聞いたことがあるが、これがそうだと思った。

二周りも年下の甥に教えられた。この辺でこんなに多くの送別者が来るのは珍しいことだった。

「お世話になった」と言う人が次々であった。
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プライドのみが高くなる
これも私が甘やかしてこうなったと家内に攻められる。高すぎは困るのだが、どこまでが過ぎるのかは難しい。

自尊心は大切なもの。見栄だけの虚実はいけないのである。私立だと車で送迎する組は殆どが外車。

こちらは送迎バスにした。付近の友達が出来るからだ。

服装は制服だから、何種類もそろえる無駄はない。誕生日会となると大変だ。

子供は大勢を招待したくなる。
言葉使いも綺麗だから、悪い言葉を覚えて困ったことはない。

小学校と中学がないから、こちらの小学校へ戻ってきたわけである。
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続娘3
娘は家内の甥の子であるから、家内との血族なのだが、私には何でも言えるらしいのである。

家内に言わせると、私の甘やかしと言うことになる。言うがままに物を買い与え、何不自由なく育てた。

義理の間ではなく、孫として小さいときは接してきたから、祖父のような存在だった。

現在住む一戸建の住宅も、すべて彼女の好みに仕上げさせた。和室のないフローリングすべての洋室だけなのである。

バブル期であったから、価格の高い割りにできはいまいちのところはある。カーテンは老舗のデパートに任せ、そこのお抱えの一級建築士の女性が、天井と床、部屋の用途に合わせてデザインした。

窓のサッシがアルミ色から黒塗りが流行し始めたころのものだ。

四年目に男の子が生まれた。過去のお産による精神不安定の心配から、家族で話し合って生むか、生まないかを決定したらしい。

二人目ではそれはなく済んで安心したものの、逆に強くなった。二人の子供の面倒は大変と夫に家事の手伝いをさせる。

姉が幼稚園の年齢に達して、名古屋の大学付属へ行かせたいと、名古屋のマンションを借りて生活を3年させたのである。
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産後の情緒不安定期
初孫で喜んだのもつかの間。娘が異常な神経質。注意すると皆に反抗する。

家内とつまらぬことで衝突。婿が「母さんはそんな意味で言っているのではない」と家内を弁護したのが気に入らないと、家出。

乳飲み子を置いて数日間。婿とわれわれで赤ん坊の面倒と娘の心配とで、大変な数日を過ごした。

結局、実の親元へ連絡が入り、戻った。これ同様なことが何度かあり、遂には、婿殿が切れてしまった。

子供の愛し方は、私と競う程の子煩悩。これならわが後継者と私名義の不動産を彼の名義にした。

彼の生い立ちも、家庭の事情が入り込んでいて、母親と子供二人の生活だった。
父親は別の女性と一緒になり、父親の愛情には欠けて育った。
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続娘2
二十四歳で社会勉強をしないうちに結婚した。一つ違いのなかなか今流行のいけ面だ。性格も良い。

世間より給料もよいから、新婚時代何年かは名古屋のマンジョンに二人で住んだ。

何年かたつと10万円を越す家賃が無駄だと気がついて、「寂しいだろうから、こちらへ帰るという」

子供が何年かできなかったから、パートタイマーで、子供服の店に勤め始めた。

専門家の仲間入りした気になっていた。店の責任者になり、仕入れに神戸まで社長と同行するようになった。

品選びを若い女性がすることで、ママたちの好みに合わせようとしたのだろう。

ようやく慣れたころ、子供が5年目にできた。待望の女の子で、婿も私たちも大喜びだった。

子育てに慣れているのと、大の子供好きのわれわれは親より出すぎる傾向にあり、子供も親よりわれわれのほうが良いのに困った。
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続娘
そんなことで赤ん坊のときから慈しんで養女に迎えたのだから、不服は何もない。

娘も結婚までは流行の洋服を買うのは私、靴を買うのも私であったから、知り合いの中では有名なファザコンであった。

中三に本人の希望で茶道、華道を習わせた。和好みの静かな娘に育ったことで、私の自慢の娘だった。

私立の高校は推薦入学。試験に弱いのを知っているから、平素の成績をとらせるための教育はすべて私が指導した。

高校。大学も同じであったし、当時は知人の娘さんも高校、大学と英語を習いに私の元へ通っていた。

入学式も家内が体調が悪かったこともあったのだが、私が出かけた。黒一点と担任の教師が指摘するほど、他は全部母親だった。

大学付属の女子高校だったから、短大はそのまま進級した。

高校は茶華道部で活躍。卒業しても外国の大切な来客にはお呼びがかかる程の信頼であった。

茶席は私もほとんど顔を出し、正客を常に受け持った。季節季節に着物を呉服屋に新調させたから、結婚の道具には着物に不自由はしなかった。

本人は卒業後就職を希望したが、家事手伝いで主婦業を習わせた。

24才で相手に恵まれ結婚した。相手も長男ながら、こちらは娘一人とて、養子になっても結婚を許して欲しいと懇願された。

男は姓を変えるものではないと、娘を嫁がせることにした。条件は若い夫婦のために隣に建てた家にいずれは住んで欲しいと言うことだけだった。

当時流行の海外の教会でとて、オーストラリアで式を挙げた。帰国して日本で披露宴を開いた。

すっかり気に入ったオーストラリアへ毎年旅行して、遂には、あちらで住みたいと言い始めた。

慌てた私たちは、婿殿の名義に土地建物を書き換えて日本に住む積もりになるよう努力した。

金儲けと税に弱い私は、税理士先生に忠告を受けるまで、贈与税のことは眼中になかった。

友人の信金の店長の計らいで、「私がまとまった金を用意するから」錯誤登記という方法をとることになった。

息子が私名義の不動産を妥当な価格で買い取ったと言うことなのである。

測量、登記その他で余計な経費の無駄使いもあった。

これも可愛い娘夫婦に日本にいて欲しいだけの愚かさだった。

今の孫娘を激愛するのと全く同じことの繰り返しであったのだが、娘を連れて町を歩くと、今の名古屋ギャルの走りかもしれない。

流行の有名店、デパートの外商からはあまりにも知られた存在だった。

成人式は出入りの呉服屋の勧めで出かけた催事場の花形の着物「辻が花」を購入。それに合う帯が会場にないと告げると、名古屋中の呉服店から集めた帯を持ち込まれ。

私が合格点を出した帯は、着物より高値の錦織りであった。

親馬鹿振りを恥じ気もなく披露したものだった。
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孫娘のピアノ教室
学校から帰ると、宿題。次にピアノの教室のための練習。

時間が来たので、JR迄送ろうと隣へ行くと孫娘が泣いている。「怠けてばかりいるからでしょう」と怒鳴っているママ。

ピアニストにでするのなら別だが、音楽とは字のように音を楽しむものだと私は思う。

帰ったら、孫娘に本心を聞いてやろうと思う。下の子は丁度昼寝でこちらへ置いて行く。

何事も途中半端は嫌いだが、指の届かない話と指の力が弱い云々という話も出ていたので、大人が、判断して、そのこにあわない習い事を押し付けることは避けようと思った。

靴をはかせ、車に黙って乗せて、背中をなぜてやった。

親面して怒鳴る娘を叱りたいが、今日は黙って睨んだら、小言は収まった。

大声で叱ったこともない私なのに、何故、この娘は自分の子を怒鳴り叱り飛ばすのか不思議でならない。

血のようだ。実はこの子は私の血はかかっていないのだ。家内の甥の子供を幼女にした。

小さいときから我が家に入り浸り、来ないときは毎夕電話で交信。

中学三年で正式に幼女に籍を入れた。甥夫婦をわが子のようにしていたから、この子は孫のようなものであった。

家裁の場でも、本人の意思がこれほどしっかり私たちを親と望むのなら、他人の出る幕はありませんと調停委員が言われた。

高校、大学は私たちの元から通った。大学は短大にした。女の子がそれ以上の学歴を持つと縁遠くなることが理由の一つ。

次は男性を馬鹿にすることを心配した。案の定恋愛で選んだ彼は小企業の社長の息子であるが、高卒だった。

ここま書いたら、下の子が昼寝から覚めて、ママはと泣き出した。

次は先へ送ることにする。
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急増するエレベーター事故
今まで表面に出なかったのは何故なのか。

われわれの信頼が極めて大きかったエレベーターである。シンドラー社の多いのにもいまさら驚いた。

ただ、我が家では家内が大のエレベーター嫌いなのである。

本能的に、事故を予想し、事件の危険も心配するからだ。

三歳の孫などは、自分でボタンを押すのが楽しい乗り物でもある。

それだけに絶対の安全性が望まれる。製造物責任法なるものができているにもかかわらず、これらの機会にはどう当てはまるのか疑問である。
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太陽がぎらぎら
朝から晴天。梅雨の晴れ間なのか。日照不足で野菜、果物皆出来が悪いという。

孫娘の登校時、隣の奥さんと話していると「さくらんぼご馳走様でした」と孫娘。

「おいしくなかったでしょう。もう一度、美味しい所へいって来るね」とお隣さん。

何時も家内が一緒に出かけるのだが、今年は何か狂っている。

子供の下校時刻に、一定の場所へ迎えに行く親と、全く放置の親と完全に分かれた。

娘は迎えに行かないといって、私にまで制限する有様。よそ様と合わせるというのだ。

手が足りないか、愛情不足の親。そんなのに合わせられるかと、迎えを続けた私だが。迎える組がどんどん増えてきた。

こんなご時勢、無関心は犯罪助長だという私の意見に同調するママたちが増えてきた。

特に一年生は一人にならないように大人が気をつけてやる。

これが大人の責任だと私は思っている。変に、他人に迎合して薄情振ってやせ我慢している方法が不自然だと。

ようやく私の娘にも理解できたようで、私の迎えに出ることを拒まなくなった。

自分の行動を他人に左右される時代に育った娘は、すべて皆と同じことをすることで孤立することを恐れたようだ。


それが大人になった今日も続いているのだ。人並みなことが嫌いで、自己主張の強い私とは反対の生活。時代のせいだろうか。
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昨年までお世話になった幼稚園
の先生方にお中元を送りたい。宛名はどう書くのだと娘が聞いてくる。

・・幼稚園先生ご一同様だろうと教える。大学でて、この有様。親が近くにいるからだろう。

父の日とか誕生日を祝うのは不要といったら、正直に何年か前から中止した。

孫娘からのが最もうれしい。形ではない心からだからだ。

一週間の孫の教室の日程表を作れといっていたら、ようやく今日持ってきた。

火曜日、土、日がないだけで、月、水、木、金とある。どこもバスしか交通機関がないから、私の車が主だ。
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自惚れ
引越し通知はがきを今書いている娘。孫にも友人と先生に書かせている。

長いものを嫌い、短文で逃げようとする孫娘。筆圧の強いしっかりした字を書く。

将来はママよりはるかにうまくなる素質。
「ママはこんなに沢山書いてるよ」「みなが上手と言ってくれる」

これを聞いて言葉が出なかった。小、中では私も指導したが、ある時期、地元の中堅の良い先生に習わせた。

今は昔の癖字に戻っている。孫娘には私の部屋の孫用机で、硬筆と筆両方を遊ばせている。強制はしない。本人がその気にならないと習い事は意味がないからだ。

絵はパパの筋だろうか旨い。同年齢と比べ物にならない絵を描く。

娘は何度か受賞しているから自信があるが、これは私が内緒で筆を入れている。

孫娘は人が手を加えることを嫌う。自分の独創的な絵に遊んでいる。

ただ、集中力が足りない。こんなときは無理をしないことにしている。
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午後ゲーム機に取り付かれ
ペンたちで入力できる機能が付加。電子手帳のような働きもある。

カラー液晶だから、目にも優しいようだ。

長い時間するなというほうが無理。最初のうちだろうが、勉強にはならない道具と見た。

夕方からママと子供たちはJRで名古屋へ。駅まで送る。パパのお父さんと会食。
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任天堂DSライト
誕生日プレゼントはこれだ。9時20分前に行くと3人並んでいた。

ママを並ばせて戻り、間もなく子供たちを。

梅雨入りしたら、晴天だが、安定はしないようだ。
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真夜中の1時
鼻の奥が乾く。孫たちの風邪に囲まれて頑張るも、昨日うがいの紅茶が切れて手を抜いた。

夜中だから自分でとお湯を沸かす。いかに探しても見つからない。結局、「紅茶の葉をどこへ隠してあるのだ」

これでは折角の思いやりも水泡に帰した。
何度もうがい。PCの前でも少し飲んで、消毒だ。

誕生日のケーキとプレゼントに満足の孫娘は私の布団で安眠だ。

約束の新型ゲームボーイを明日は早く行ってゲットだ。長く待たせた今度の新型。

前回は年齢の割りに早く私が買いすぎた。
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夜に雨となる
下校時名古屋へ行った娘駅へ向かえお願いと電話してくる。

孫娘の帰宅までは、放置。他のママたちは迎えに出る人が増えている。

物騒な世の中で小学校一年生は安心できないからだ。

そんな母親を呼び出す宗教に疑問。役職をつけて強制して人を動かす。

夕方ピアノ教室でまた名古屋。見かねて車で送迎。三歳児も一緒だから大変だ。

ガソリンの消耗たるや早い。価格が上がってから一層感じるのだろうか。

ガソリン代払わせてというから、感心していると千円札一枚出してきて、大笑い。

価値観がないのか、価格を知らないからか
孫娘の疲れを小さくしようと送迎するので欲も得もないのだが。・・・
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午前中に孫娘を耳鼻科へ
風邪の症状だが、アレルギー性鼻炎があるから耳鼻科をPCで選んだ。

市民病院、他に総合病院が二つあるがこれへ行くと半日以上かかるから、医院の中の便利なところを調べる。

詳しく掲載されている医院を選ぶ。待つこと15分で呼ばれ、薬を受け取って帰りが1時間以内で済んだ。

気温の差が大きいから風邪が流行しているという。

のどをやられて咳がひどい。従兄弟の風邪とも思われる。

帰路安売りのスーパーで買い物をしたいと言う。客寄せにサービス品を半額で日替わりに並べている。

15時から弟のチャイルドアカディミーへ。これだけは文句を言わないと娘。本部の大先生が私の知人だからだ。
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登校時刻過ぎても
門で送り出そうと待つが、出てきたのはママ。「どうしたの」と聞くと、「今日休ませる」

大勢の従兄弟他で賑やかに遊びすぎ。もう一つ気に入らないのがその中の一人が発熱。

それでも帰らず一泊。朝になっても下がらないのはと注意したが、三人子持ちは強い。

食欲と遊びにゲームセンターへ連れて行く。私の常識は通用しない世界だ。

今、休んでいると言うから、我慢しているが、起きたら様子を見ようと思う。

学校を休むことを嫌う世代の我々だ。塾などはなしでよいから、学校の勉強を十分すればよいと言うのが私の主義。
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早朝出掛けたパパ
ブラックバス釣りに凝っているらしい。初心者で、未だ一匹も連れていない。

先日の竹を切った助っ人も帰り、私と二人になり、詳しく聞くと、釣りには時刻があり、場所を選び、深さも重要などと、私の知識を話す。

夜中に魚が眠ること、川、沼や池、海と魚の種類により違うのだが、田舎育ちの私の知識を話す。

テレビに出るような有名釣り人とは違うが、川を知っての釣りでは高級な道具に物を言わせる人よりは私のほうが上手いと信じている。

折をみて、一度釣りを一緒にしようと笑う。
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恒例のお泊り日
夕方からこちら母屋で孫娘は過ごす。風呂。夕食、デザートすべてこちらのメニュー。

休み前日とて、夜は好きなドラマを10時まで観る。

ママのできないこちらの料理が楽しみなのと、弟から解放されて、われわれに甘えられる。

体重がやや足りないのは食が不完全だが、どうにもならない。せめて金、土と間にこちらで補充はさせるが、足りない。

今朝は6時半私と同時に起きる。今まで当日寸前にしていたNovaの宿題を私が見てやる。ママが教えた部分に間違いあり、訂正させる。勿論、学校の宿題も全部済まさせる。

午後、従兄弟の一団体5人が来て、大騒動。
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下校時のお迎えママ一人増える
「私も来ました」と。なぜなら最近、変態男か。西の地区に出没。昨日はもっと近くで小学5年生が襲われた。

この地区は自主下校だったが、他の地区では、小学校が父兄、教師協力して集団下校をしていた。

何時から、どうしてこんな事件が増えたのだろうか。
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スイミングの時刻だが連絡なし
31分の普通で帰るから、教室の水着他のバックも積んできてという。

ぎりぎりとみて近道する。こんな方でないとあわてる娘。大丈夫と1分前に着く。

終わって様子を聞くと、もう行きたくないという。ママが一緒でないと何もできず逃げ出したらしい。

それも男女の先生に2度注意されたから、大変だ。ママの甘やかしが影響か。

3才児に水泳が必要なのか疑問でもある。帰宅して間もなく、姉の英会話教室。

一日フル稼働の日となる。
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病気見舞い他で出かけ前
娘が下の子を看て欲しいと言い出す。急な話で理由を聞くと、名古屋時代の孫娘の幼稚園仲間のママたちが昼食会だという。

出かけ前に言われてもどうにもならない。2時前には孫娘が下校だ。

3時下の子のスイミングスクール体験に入学。5時姉の英会話。

山積した予定の前に、お食事会とはあきれた。名古屋まで行き、施設に預けて会食というから其れほどまでに・・

事前にスケジュールを話していればよいものを。
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一茶の気分
強いものに弱いものが勝つ。この形が好きではあるが、プロ野球は長年横浜ファンの私。

昨日の9回裏のミスジャッジは大リーグの札付き審判同様なミスが日本でも起きた。

誰が見てもビデイオを見る限りファールボールだ。

封建的な相撲でさえ判断に窮するとビデイオの審判を仰ぐ。その専門職まで置いている。

野球に何故取り入れないのか。イギリス的頑固さが何処かに見え隠れする。

多村が復帰して挽回気味ではあるが、投手陣に問題の横浜のようだ。

接戦の末、一点差で負けているゲームが多すぎる。

ベイスター負けるなyuhohこれにあり。
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駐車違反取締りを民間に
11都道府県で端末機不具合 ミス続発、準備不足露呈 [ 06月01日 20時27分 ]
共同通信

1日に始まった駐車違反取り締まりの民間委託で、民間の駐車監視員が違反状況を入力したり写真を撮影したりする携帯端末機のトラブルが、全国の11都道府県で起きていた。

IT遅れの日本を象徴しているが、根本的な問題を考えないと今後も制度面でのトラブルとなりそうだ。

道路とは、基本から健闘すべきで、通過点としての道路。渋滞をなくしてスムースに走ることは第一義だが、目的地で荷物をおろすこともできないのでは、目的の半分しか昨日しないことになる。

長時間の駐車と仕事のための短時間停車をどう区別するか。

その問題を先送りして、取り締まり面だけを強化するお粗末。

業者の中には死活問題であろう。
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ガーデイニングの飾り物を買いたいと
娘と下の子とショッピングセンターへ。朝顔の鉢植えを置く台を買おうと言い出す娘。

すべてが我が家にはその手のものはあって、孫娘は知っているが、娘は新しいものが安いから買おうという。

孫娘の下校が気になって急いで帰る。私ばかり迎えに出ると、私の存在感を問われるからとて、今日は自分で迎えに出ると言う。

すでに迎えの公園まで来ていた。暑さで顔を紅潮させて、汗だくで帰ってきた。

着くや否や、夕方のピアノ教室の予習を施与と言うから、孫娘は「ピアノ」行きたくないとぐずる。

果物か飲み物で暑さを沈め、それからにしなさいとまた、口出ししたくなる。

名古屋の教室に決めたので、下の子は家内に預け、JRで母子は名古屋へ。

ないているかと心配して帰宅すると、「ママたちどこへ行ったの」と平然としている。

風呂へいれ、夕食が済むと彼は指をくわえて寝付いた。

自分のところだと夜11時過ぎまで起きているのに、こちらでは品行方正だ。
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今日も快晴
昨日の下校は面食らった。学校を出る時刻にこちらへ着いていた。

郵便物を徒歩で近くのポストへ投函して、何時もの場所へ行くつもりだった。

低学年の男女が次々と通る。小走りに所定の場所へ。通過ごだった。

次の角に孫娘の姿を発見。皆と別れて一人
何時もの服装と違った私を50メートル先で見つけた。

「ああ!じいじ」「お帰り」笑顔で迎えるのが何時もの私だ。

ランドセル、手荷物、帽子まで私に渡して身軽になる。

ママはこれが甘やかしになるという。断固彼女の意見は無視。

何時ものお母さんは私の家の前だ。下校時刻の20分の違いは大きい。

この人も周囲の普通のママからー神経質と言われていると聞いた。

この真剣な母の姿が異常に見える周囲の親たちが異常だ。この人と私を同じく見る親たちが現代の欠陥人間と私は言う。

4〜50メートルでも一人歩きさせられない時代なのだ。
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