続娘
そんなことで赤ん坊のときから慈しんで養女に迎えたのだから、不服は何もない。

娘も結婚までは流行の洋服を買うのは私、靴を買うのも私であったから、知り合いの中では有名なファザコンであった。

中三に本人の希望で茶道、華道を習わせた。和好みの静かな娘に育ったことで、私の自慢の娘だった。

私立の高校は推薦入学。試験に弱いのを知っているから、平素の成績をとらせるための教育はすべて私が指導した。

高校。大学も同じであったし、当時は知人の娘さんも高校、大学と英語を習いに私の元へ通っていた。

入学式も家内が体調が悪かったこともあったのだが、私が出かけた。黒一点と担任の教師が指摘するほど、他は全部母親だった。

大学付属の女子高校だったから、短大はそのまま進級した。

高校は茶華道部で活躍。卒業しても外国の大切な来客にはお呼びがかかる程の信頼であった。

茶席は私もほとんど顔を出し、正客を常に受け持った。季節季節に着物を呉服屋に新調させたから、結婚の道具には着物に不自由はしなかった。

本人は卒業後就職を希望したが、家事手伝いで主婦業を習わせた。

24才で相手に恵まれ結婚した。相手も長男ながら、こちらは娘一人とて、養子になっても結婚を許して欲しいと懇願された。

男は姓を変えるものではないと、娘を嫁がせることにした。条件は若い夫婦のために隣に建てた家にいずれは住んで欲しいと言うことだけだった。

当時流行の海外の教会でとて、オーストラリアで式を挙げた。帰国して日本で披露宴を開いた。

すっかり気に入ったオーストラリアへ毎年旅行して、遂には、あちらで住みたいと言い始めた。

慌てた私たちは、婿殿の名義に土地建物を書き換えて日本に住む積もりになるよう努力した。

金儲けと税に弱い私は、税理士先生に忠告を受けるまで、贈与税のことは眼中になかった。

友人の信金の店長の計らいで、「私がまとまった金を用意するから」錯誤登記という方法をとることになった。

息子が私名義の不動産を妥当な価格で買い取ったと言うことなのである。

測量、登記その他で余計な経費の無駄使いもあった。

これも可愛い娘夫婦に日本にいて欲しいだけの愚かさだった。

今の孫娘を激愛するのと全く同じことの繰り返しであったのだが、娘を連れて町を歩くと、今の名古屋ギャルの走りかもしれない。

流行の有名店、デパートの外商からはあまりにも知られた存在だった。

成人式は出入りの呉服屋の勧めで出かけた催事場の花形の着物「辻が花」を購入。それに合う帯が会場にないと告げると、名古屋中の呉服店から集めた帯を持ち込まれ。

私が合格点を出した帯は、着物より高値の錦織りであった。

親馬鹿振りを恥じ気もなく披露したものだった。