おうた子に教えられ
苦労もし、好きなこともして42才の若さで他界した甥だが、お人好しの代表格であった。

この地の大手土木の社長の孫に生まれ、寵愛を受けた幼年期に比べて、父親との縁の薄さは彼を薄幸にした。

本人には罪のないことであり、運命としか言い切れない。母親と男の子二人が亭主のいない旦那の里で生活した。

生活は出来ても、子供の学費までは女の稼ぎでは無理であった。中学を出ると地元の車の部品会社へ就職した。

弟が卒業を目前に、父の妹がこの家を継いで、老人の叔母と彼ら親子の面倒を見ていた。

その前の年まで、彼女の父親、母親はその前年まで生存したのだが、父は10年、母は5年脳卒中と癌でそれぞれ闘病生活の末亡くなったのである。

友人の紹介で彼女と会ったのがその前年、父親が亡くなっていた。市中走っていた市電、電話会社の工事などを主な仕事とした土木専門の会社であった。

全国で名をはせて、政界の大物K代議士の後ろ楯的人物だった。

結婚して間もなく、事業の何割かは残されていて、遠縁に当たる番頭格の人物が会社を私物化していた。

他所に住んでいる兄は業界のことに詳しいから、戻って私と事業を継続しようと誘ったのだが、予科練で死なずに帰国した負い目で、生活がすさんでいたのと、その男に戻らないように仕向けられて、立て直すことをしなかった。

長年反映した、その会社も廃業となった。別業種のサラリーマンだった私だが、中卒の次男に高校進学を勧めて、私が学校を卒業させようと試みた。

弟が曰く、「兄ちゃんが就職したから、僕だけ進学するのは気が引ける」「僕は勉強が好きでないから」と言う。

自分が苦学した私だったので、何とか助けて進学させたかった。彼の意思は固かった。

話は戻るが、42才で他界の甥の最後は、私に強烈なパンチを与えていた。

典型的な、東京生活の長かった私は、どちらかと言うと人嫌い、仕事以外の人間関係を疎ましいとまで思っていた。

葬儀に詰め掛けた大勢の人、男の涙、友情を見せ付けられ、50代半ばの人生に影響した。

人が良いことを戒められ、競争社会に勝ち抜くことに意義を感じていたから、価値観の大変換であった。

少年期まで持っていて、閉ざしていた自由奔放の人間交流が戻ってきた。相手に関係なく両手を広げ、他人を受け入れる。

還暦を迎えるとそれが一層助長された。国境の壁を越えて、台湾、韓国との交流に広がった。

その目覚めは全て、甥の最期の葬儀からであった。その人の生涯の答えは死ぬときにあると誰かが言った。それを身をもって感じたからだった。