幻想の街1
 その路線の電車に乗る前に、美幸(よしゆき)は駅の売店で地元球団の野球帽を買った。
 このときはまだ笑顔で、買った帽子をかぶって照れたように「似合う?」と訊いてきたから、あたしは「似合うよ」と答えて、心の中で「美幸は綺麗だからなにを着ても」と付け加えていた。始発の電車は空いていて、座席の中ほどに並んで座ったあたしたちは、しばらくは沈黙したまま近づいてくる気配の行方を追っていく。やがて馴染み深い駅名が次々に告げられて、あたしはその懐かしい響きに純粋に嬉しくなっていたのだけれど、反対に美幸はだんだん笑顔を消してうなだれていった。
 1番強い気配を感じたのは、まさにあたしが生まれ育った街の最寄り駅だった。ここまで近づけば美幸にだってはっきり感じられただろう。それなのに、あたしが軽く腕を引いてうながしても、美幸は席を立とうとはしなかった。
「美幸 ―― 」
「その名前はダメだ。……サエコ」
 美幸はあたしを、本名の一二三(ひふみ)ではなくサエコと呼んだ。発車のベルが鳴り響いて、反射的に立ち上がろうとしたあたしの肩を美幸が強く抱き寄せて引き止める。理由が判らず美幸を見上げると、間近になってしまった美幸の表情は真剣そのもので、何かにおびえているようにすら見えたんだ。
「美……カツト、どうしたの? 今の駅で降りなきゃ」
「……西口。間違いないか?」
「あ、うん。あの駅の西口で宿主の気配を感じた。ほんとにすぐ近くだったよ。今降りて探せば見つけられたかもしれないのに」
 話しているうちに列車の扉が閉まって徐々に動き始める。今日は満月期の最終日で、あたしたちの力が1番強くなる日だった。この3日間を過ぎるとあたしたちの感覚は急速に衰えて、半月以降にはほとんど何も感じられなくなる。特に今日は日曜日で、宿主がふだんと違った行動をとっている確率は高いんだ。明日になってからあの駅に行っても、もう宿主はいなくなっているかもしれない。
「このまま終点まで黙って座ってて。……電車を降りたらちゃんと話をするから」
 思いがけず美幸に抱きしめられるような格好になって、あたしは不安を感じながらも、美幸がおびえる理由には思い至らずにいた。