記憶・9
「あたしが呼びたい名前で呼んでいいのね。ありがとう。お礼に、伊佐巳にはあたしの名前を選んでもらいたいわ。伊佐巳が呼びたい名前をあたしに付けて」
 名前を付ける? 初めて出会った人間、しかも今まで自分自身の名前で呼ばれていた人間に、新たな名前をつけることなど、オレの感覚の中の常識にはありえないことだった。オレが知りたいのは彼女の本名なのだ。それ以外の名前に何の価値があるだろう。
「どうして? 君にはちゃんと名前があるんだろ?」
 その時、彼女はやっとオレから離れて、オレが寝かされているベッドに腰掛けた。
「知りたいの。伊佐巳が好きな女の子の名前」
 この、「好きな」はきっと、「女の子」にかかっているのではなく、「女の子の名前」にかかっているのだろう。この頃になるとオレにも彼女が意外に強情なのだということが判ってきていたので、諦めて、最初に思いついた名前を口にしていた。
「……ミオ。ミオと呼んでもいい?」
 このとき、彼女は初めて少し驚いたような顔を見せた。
「ミオ、って呼んでくれるの?」
 オレが頷くと、彼女は慈愛に満ちた微笑を浮かべて、オレに言った。
「ありがとう。とってもいい名前ね」
 彼女はオレが付けた名前を気に入ってくれたようだった。
それでもオレの中からは、彼女の本当の名前が知りたいという欲求が消えなかった。