記憶・6
 自分の全てがわからない。顔も、生い立ちも、親しい人間のことも。そういった自分に関する全ての記憶は、オレの中から失われている。オレは恐怖の濁流に飲み込まれるように我を忘れた。何が好きなのか、何が嫌いなのか。どうすればこの恐怖から逃れられるのか。オレは自分の頭の中の混乱と肉体の混乱とをどう認識することもできずにいた。たぶんオレはこのとき暴れていたのだ。その時、オレの感覚の中に響いてきた声があった。それはあの嫌な男の笑い声ではなく、やわらかな少女の声だった。
「……落ち着いて、お願い、大丈夫だから。あなたにはあたしがついてるから」
 その声には、オレの混乱を抑える、見えない力があった。オレはその声を聞くことで少しずつ落ち着きを取り戻していったのだ。
「大丈夫よ。大丈夫。心配しないで」
 やわらかくてあたたかい感触が頬にあった。あたりを見回すようにして、気付く。少女はオレの頭を抱きかかえてオレにずっと語りかけ続けていたのだ。
「あなたは大丈夫。あたしが傍にいる。だから落ち着いて。あたしのことを見て」
 言葉に合わせて、オレは少女を見上げた。オレの仕草に合わせて、少女もオレを見つめた。
 オレの目には少女はまるで女神のように見えた。